第三十話:それぞれの夜明け
アルジェンティス建国から、一年が過ぎた。
かつて呪われた荒れ地と呼ばれた土地は、今や、大陸で最も活気に満ちた、希望の国へと生まれ変わっていた。フィオナの知識と、民の努力によって、畑はどこまでも緑に輝き、用水路は豊かな水を運び、家々の煙突からは、幸せな家庭の煙が立ち上っている。
旧王国は、自壊した。
フィオナの国が、その門戸を、理念に賛同する全ての民に開いたことで、王も貴族も、民のほとんどに見捨てられ、抜け殻のようになった王都で、ただ過ぎ去った栄光を夢見るだけの存在となっていた。
そして、かつて、この物語の「悪役」であった者たちは、今、アルジェンティスの大地で、それぞれの「罰」という名の日常を生きていた。
鉱山――。
カン、カン、というツルハシの音が、薄暗い坑道に響く。
泥と汗にまみれ、息を切らしながら岩を砕いている男がいた。かつてのヴァレリウス公爵だ。
最初の数ヶ月、彼は絶望と屈辱に、ただ泣き喚き、仕事もせずに反抗を繰り返した。だが、彼を殴る者も、罵る者もいない。ただ、周りの鉱夫たちが、黙々と自分の仕事をするだけだ。そして、働かざる者には、食事も、寝床も、最低限以下のものしか与えられない。それが、この国のルールだった。
生きるために、彼は、生まれて初めて、自分の手でツルハシを握った。
今では、彼の腕は、鉱夫らしく太くなり、その瞳から、かつての傲慢な光は消え失せていた。彼が、心の底から罪を理解したのかは、誰にも分からない。だが、彼は、自分が砕いた鉱石が、この国を支える礎の一つになっているという、紛れもない事実の中で、ただ黙々と働き続けていた。
炊事場――。
「はい、次の人どうぞ! 今日は、陽の実のスープよ!」
元気の良い声で、子供たちにスープを配っている娘がいた。セラだ。
彼女もまた、最初は、泣き叫び、全てを拒絶した。しかし、空腹を訴える子供たちの、純粋な瞳に見つめられた時、彼女の中で、何かが変わった。
生まれて初めて、誰かのために、自分の手を汚して働く。感謝の言葉を、お世辞や社交辞令ではない、心からの「ありがとう」を、初めて受け取る。その経験が、彼女の空っぽだった心を、少しずつ満たしていった。彼女の笑顔に、もう偽りの色はなかった。
畑――。
広大な畑の隅で、老夫婦が、黙々と雑草を抜いていた。アールグレイ伯爵夫妻だ。
彼らは、今でも、自分たちの運命を呪っているかもしれない。しかし、自分たちが蒔いた種が芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶという、生命のサイクルを、毎日、その目で見ている。自分たちが育てた作物が、国の民の血肉となっている。その事実は、彼らが否定しようもなく、目の前に存在していた。彼らが、本当の意味で何かを学ぶ日は、まだ、遠いのかもしれない。だが、彼らは、大地と共に生き、大地と共に死んでいく。それこそが、彼らに与えられた、最後の贖罪だった。
執政官の執務室――。
フィオナは、アルジェンティスの執政官として、膨大な量の書類に目を通していた。新しい農法の導入計画、隣国からの移住者の受け入れ体制の整備、子供たちのための教育機関の設立。やるべきことは、山のようにある。
「少し、休憩したらどうだ?」
優しい声と共に、温かいハーブティーの入ったカップが、彼女の机に置かれた。アークライトだ。彼は、軍の総司令官としての仕事の合間に、こうして、必ずフィオナの様子を見に来る。
「ありがとう、アーク。でも、もう少しだけ」
「君は、いつもそう言う」
アークライトは、苦笑しながら、フィオナの肩を優しく揉んだ。
二人は、窓の外に目をやった。
夕日に照らされた、自分たちの国が、黄金色に輝いている。それは、フィオナが、かつて、ノクトの呪いを解くために放った、希望の光の色と同じだった。
「……夢のようね」と、フィオナが呟いた。
「いいや、夢じゃない。君と、私が、そして、ここにいる皆で作り上げた、現実だ」
アークライトは、フィオナの手を、そっと握った。
「ありがとう、フィオナ。私を見つけ、救い出し、そして、この素晴らしい国を、私に見せてくれて」
「私の方こそ。ありがとう、ノクト。あなたがいてくれたから、私は、独りにならずに済んだ。あなたがいたから、私は、前を向けた」
二人は、どちらからともなく、互いの唇を重ねた。
それは、激しい恋人たちのキスではなく、長い旅路を共に歩んできた、戦友であり、家族であり、そして、互いの魂の半身である二人の、穏やかで、深く、そして、永遠を誓う口づけだった。
追放された令嬢と、呪われた王子。
絶望の荒れ地で出会った二人が紡いだ物語は、一つの国を創り、多くの人々の運命を変えた。
彼らの物語は、ここで一旦の終わりを告げる。
しかし、アルジェンティスという国の物語は、そして、フィオナとアークライト、二人の愛の物語は、この先も、どこまでも、どこまでも、続いていくだろう。




