第三話:偽りの涙と、呪われた荒れ地
夜会からの帰り道、アールグレイ家へと向かう馬車の中は、氷のように冷え切っていた。誰も口を開かない。しかし、沈黙はどんな罵声よりも雄弁に、フィオナを責め立てていた。
屋敷に到着するや否や、フィオナは父の書斎へと引きずられていった。そこには、腕を組んで仁王立ちする父、鬼の形相でフィオナを睨みつける母、そして、ヴァレリウス公爵が待っていた。
「フィオナ! お前という娘は、どれだけこのアールグレイ家の顔に泥を塗れば気が済むのだ!」
開口一番、父の怒声が飛んだ。分厚い本が置かれた重厚な机が、怒りに震えている。
「ヴァレリウス公爵様とのご婚約が、どれほどの名誉であったか! それを自ら台無しにしおって!」
「申し訳ございません、お父様。ですが、婚約の破棄を望まれたのは、私では……」
「言い訳をするな!」
母が金切り声を上げた。「公爵様は全てお話しくださいました! お前が、才能豊かで美しい妹のセラに嫉妬し、陰でどれほど酷い嫌がらせをしていたかということを!」
「そん、な……」
フィオナは絶句した。嫉妬? 嫌がらせ? 全く身に覚えのない罪状だった。フィオナが視線を向けると、ヴァレリウスの隣で、妹のセラが可憐な瞳を潤ませて俯いていた。その姿は、まるで姉に虐げられてきた、哀れな被害者のようだった。
(ああ……そういうことか)
全てを察した。婚約を破棄するための、完璧な筋書き。無能で地味な姉が、聖女の妹に嫉妬し、婚約者に愛想を尽かされる。これほど分かりやすく、世間の同情をセラに集める物語はないだろう。
「ヴァレリウス公爵。この度の娘の愚行、誠に申し訳なく思う」
父が深々と頭を下げる。その目は、ヴァレリウスと、その背後にある公爵家の権力だけを見ていた。娘であるフィオナのことなど、欠片も映してはいなかった。
「いや、伯爵。あなた方が謝る必要はない。罪は全て、この女にある」
ヴァレリウスは冷酷に言い放つと、一つの提案を口にした。それは、判決にも等しい、残酷な響きを持っていた。
「このような嫉妬深い女を王都に置いておけば、いつまたセラの身に危険が及ぶか分からん。国境の先にある『呪われた荒れ地』へ追放してはいかがかな。二度と、我々の目の前に現れぬように」
「呪われた、荒れ地……」
フィオナの唇から、か細い声が漏れた。
そこは、草木一本育たず、魔獣が跋扈し、足を踏み入れた者は二度と戻れないと言われる、不毛の土地。事実上の、死刑宣告だった。
「まあ、ヴァレリウス様! いくらお姉様でも、それはあまりにも……」
セラが芝居がかった悲鳴を上げる。しかし、その潤んだ瞳の奥に、一瞬だけ満足げな光が宿ったのを、フィオナは見逃さなかった。
「なんと寛大なご配慮……。公爵様、感謝の言葉もございません」
父は、ヴァレリウスの「提案」に、まるで救いの神にでも会ったかのように深く頭を下げた。家族の恥を、合法的に葬り去るための、完璧な解決策。父にとっても、これ以上ないほど都合の良い結末だったのだ。
話は、もう決まっていた。
フィオナから、アールグレイ家の名前は剥奪された。屋根裏部屋にあった僅かな私物も、研究道具も、全てが取り上げられた。与えられたのは、ぼろぼろの旅装束と、わずかな水と乾パンだけ。
夜がまだ明けきらぬうちに、フィオナは裏門からたった一人、馬に乗せられた。見送る者は、誰もいない。
門が閉まる直前、窓からこちらを見下ろす三つの影が見えた。冷たく見下す父と母。そして、悲劇のヒロインを演じきった、美しい妹。
馬は、王都の門を抜け、荒野へと向かって走り出した。
華やかな王都の灯りが、どんどん遠ざかっていく。家族も、婚約者も、名前も、全てを失った。残されたのは、錬金術の知識と、前世の記憶だけ。そして、胸に刻み込まれた、どうしようもないほどの絶望感だった。
(ここから、生きて戻ることはないのだろう)
冷たい風に吹かれながら、フィオナは静かに目を閉じた。
これが、伯爵令嬢フィオナ・アールグレイの人生の、本当の終わり。
そして、名もなき一人の女の、壮絶な物語の始まりであった。