第二十二話:王の使者と、解呪の光
ヴァレリウスたちが去ってから、オアシスには、一見すると普段通りの穏やかな日常が戻っていた。騎士たちは畑を耕し、フィオナは研究に没頭する。しかし、その空気には、以前にはなかった、確かな変化が生まれていた。
集落の誰もが、フィオナの言葉が、今や崩壊しかけた大国の王すら動かす力を持っていることを知ったのだ。彼女を見る目は、尊敬から、畏敬へと変わっていた。誰もが、来るべき「交渉」の時を、固唾をのんで見守っていた。
しかし、当のフィオナは、王国のことなど些事であるかのように、別の研究に没頭していた。
ノクトの呪いを解く――それこそが、今の彼女にとっての最優先事項だった。
洞窟の壁は、もはやおびただしい数の数式と錬金術式で埋め尽くされている。それは、フィオナの思考の軌跡そのものだった。
そして、数え切れないほどの失敗と試行錯誤の末、彼女はついに、一条の光を見出した。
「……そうか、逆転の発想だったのね」
フィオナの目の色が、カッと変わった。
二重の呪いを、同時に、完璧なバランスで解呪する。それは、外部からの力だけでは不可能に近い。ならば、内側から、呪いを破壊すればいい。
ノクト自身の魂が持つ、強大な生命力と魔力。それを暴走させることなく、触媒によって最大限まで増幅させ、呪いの楔となっている額の宝石――フィオナが「魂縛の黒晶」と名付けた呪物――を、内側から破壊するのだ。
問題は、その「触媒」だった。
それは、莫大な魔力を、暴走させることなく保持し、安定して流し込むことができる、極めて純粋な魔力結晶が必要だった。そんなものは、普通の土地では、まず産出されない。
だが、ここは呪われた荒れ地。
極端な魔力汚染は、裏を返せば、極めて高純度の魔力資源が眠っている可能性を示唆していた。
「ノクト、もう少しの辛抱よ。必ず、あなたを元の姿に戻してあげる」
フィオナが、決意を新たにした、その時だった。
物見櫓にいた騎士が、慌てた様子で駆け込んできた。
「フィオナ様! 門の前に、王家の紋章を掲げた馬車が! 使者のようです!」
来たか。
フィオナは、冷静に頷くと、グレイグと共に門へと向かった。
門の前に立っていたのは、王の側近である、初老の文官だった。彼は、ヴァレリウスとは違い、フィオナの姿を見ると、馬車から降り、丁重に、そして恐れを滲ませた態度で、深々と頭を下げた。
「フィオナ……殿。私は、国王陛下の命を受け、使者として参りました」
彼は、国王からの親書を、震える手でフィオナに差し出した。
フィオナがそれに目を通すと、そこには、国王がアールグレイ家を断罪し、ヴァレリウスを謹慎させた旨が、回りくどい言い回しながらも、確かに記されていた。そして、最後に、王国を救うための正式な交渉の席を設けたい、と結ばれていた。
「……誠意、ですか」
フィオナは、親書から顔を上げた。
「私の要求は、三名の身柄を、平民として差し出すことだったはずですが。これでは、まだ不十分ですわね」
その言葉に、文官の顔が恐怖に引きつった。
しかし、フィオナは、それ以上彼を追及することはしなかった。
「ですが、まあ、いいでしょう。国王の『努力』は、認めなくもありません。交渉には、応じます」
「おお……! ありがとうございます!」
「ただし、場所は、この『オアシス』で。あなた方が、こちらへ来て、私に頭を下げなさい。それが、交渉の最低条件です」
それは、二つの国の力関係が、完全に対等――いや、逆転したことを、明確に示す条件だった。
「か、必ず、そのように陛下にお伝えいたします!」
文官は、何度も頭を下げると、安堵したように、しかし慌ただしく王都へと帰っていった。
彼らが去った後、グレイグがフィオナに尋ねた。
「よろしいのですか、フィオナ様。奴らの罪を、許すおつもりで?」
フィオナは、静かに首を振った。
「許す? いいえ、そんなつもりはありません。ただ、利用できるものは、全て利用するだけ。……王国には、まだ、利用価値が残っていますから」
彼女の視線の先には、ノクトの呪いを解くための、複雑な術式が描かれた洞窟の壁があった。
解呪の儀式には、膨大な資源と、それを管理するための、多くの人手が必要になる。崩壊しかけた王国は、そのための格好の「駒」になるだろう。
全ては、愛する相棒を、ノクトを救うために。
「さあ、グレイグ。忙しくなるわよ」
フィオナは、不敵な笑みを浮かべた。
その瞳には、もはや過去への憎しみはない。ただ、未来を見据え、自分の望む全てを手に入れるという、絶対的な女王の意志だけが、強く、強く輝いていた。




