第二十話:女王の返答と、無価値な涙
フィオナは、ちょうど新しい薬草の効能を試している最中に、騎士からの報告を受けた。
ヴァレリウスとセラが、門の前にいる、と。
そして、グレイグから伝えられた、あまりにも傲慢で、独りよがりな「寛大な申し出」の内容。
フィオナは、フッと、乾いた笑みを漏らした。
怒りよりも先に、呆れが来た。あの人たちは、まだ何も分かっていない。自分たちが、どんな奈落の縁に立っているのかを。
「……分かったわ。会いましょう」
フィオナは、迷いなく立ち上がった。隣で話を聞いていたノクトも、静かに立ち上がり、彼女の足元に寄り添う。その銀色の瞳には、主を守るという強い意志が宿っていた。
フィオナは、着ていた作業着を脱ぎ、騎士たちが彼女のために作ってくれた、シンプルな麻の貫頭衣に着替えた。何の飾りもない、ただの質素な服。しかし、今の彼女が纏うと、それはどんな絹のドレスよりも、彼女を威厳に満ちて見せた。
ゆっくりと、門へと歩いていく。
彼女が姿を現した瞬間、門の前で待っていたヴァレリウスとセラの顔が、驚愕に凍りついた。
そこにいたのは、彼らの知る、陰気で、いつも何かに怯えていた姉ではなかった。
背筋を伸ばし、真っ直ぐに前を見据えるその姿。泥と汗にまみれながらも、その肌は健康的な輝きを放っている。そして、何より違うのは、その瞳だった。かつての、色褪せた灰色ではない。確固たる自信と、揺るぎない意志を宿した、鋼のような色の瞳。
その隣には、漆黒の巨大な魔獣が、絶対的な忠誠心をもって控えている。その光景は、まるで、古の女王と、その守護獣のようだった。
「……フィオナ」
ヴァレリウスが、呆然と彼女の名前を呼ぶ。
フィオナは、彼の前に立つと、静かに口を開いた。
「話は、グレイグから聞きました。ヴァレリウス公爵。あなた方は、私を『許し』、王都へ『連れ戻し』に来た、と」
その言葉には、何の感情も乗っていなかった。それが、かえってヴァレリウスを不安にさせた。
「そ、そうだ。お前が犯した過去の非礼は、この私が不問にしてやろう。戻ってくれば、相応の地位と名誉を……」
「お断りします」
フィオナは、彼の言葉を、一言のもとに切り捨てた。
「え……?」
「聞き間違いではありませんよ。お断りします、と言ったのです」
フィオナは、冷たい笑みを浮かべた。
「私が犯した、非礼? 教えていただけますか、それは一体、何のことでしょう。あなた方の都合の良い道具として、屋根裏部屋で薬を作り続けたことですか? それとも、何の罪もなく、この死の大地へ追放されたことですか?」
彼女の言葉の一つひとつが、鋭い刃となってヴァレリウスの胸に突き刺さる。
「第一、今のあなた方に、私に何を与えられるというのです? 地位? 名誉? 民に見放され、崩壊寸前の国で、一体どんな価値があるというのでしょう。この土地を見てください。私たちは、自分たちの手で、何もない場所から、これだけのものを築き上げました。あなた方が、王城で責任のなすりつけ合いをしている間に、ね」
ぐうの音も出ない正論だった。ヴァレリウスの顔が、屈辱に赤く染まる。
それを見たセラが、最後の切り札とばかりに、馬から駆け下りてきた。そして、フィオナの足元に泣き崩れる。
「お姉様! ごめんなさい! わたくしが、わたくしが悪かったのです! どうか、どうかお姉様のお力で、国を、お父様とお母様を助けてください!」
ポロポロと、美しい瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。かつて、フィオナが何度も騙されてきた、偽りの涙。
しかし、今のフィオナには、もう何の効力も持たなかった。
彼女は、冷ややかに、足元で泣きじゃくる妹を見下ろした。
「セラ。あなたのその涙は、本当に私への謝罪の気持ちから流れているのかしら? それとも、失った贅沢な暮らしを取り戻したいという、自分のための涙?」
「そ、そんなことは……!」
「もう、やめなさい。見苦しいわ」
フィオナの静かだが、有無を言わさぬ一言に、セラの涙がぴたりと止まった。彼女は、自分の演技が全く通じないことに、初めて気づいたのだ。
フィオナは、二人に向かって、最終通告を告げた。
「帰りなさい。そして、国王に伝えなさい。もし、本当に私に助けを乞いたいのであれば、ヴァレリウス公爵、あなたと、アールグレイ伯爵夫妻の爵位を剥奪し、全財産を没収して、平民として私の前に差し出しなさい。それが、あなた方が私に示すことのできる、最低限の誠意です」
それは、事実上の、降伏勧告だった。
「な……何を、馬鹿なことを……!」
「馬鹿なことをしているのは、あなた方の方でしょう。さあ、お帰りください。ここは、あなた方のような、傲慢で愚かな人間がいていい場所ではない」
フィオナは、そう言い放つと、背を向けた。ノクトが、追いすがろうとするヴァレリウスの前に立ちふさがり、低い唸り声を上げる。
あまりの屈辱に、ヴァレリウスとセラは、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
彼らが信じていた世界が、価値観が、音を立てて崩壊していく。
冷たく、そして無慈悲な鐘の音が、呪われた荒れ地に、静かに鳴り響いていた。




