第十八話:崩壊の序曲と、傲慢な訪問者
聖女セラの「雨乞いの儀式」の失敗は、乾いた薪に投げ込まれた、決定的な火種となった。
民衆の怒りの矛先は、もはや偽りの聖女個人だけには収まらない。「聖女」を祭り上げ、甘い汁を吸っていたアールグレイ伯爵家、そしてその婚約者であるヴァレリウス公爵へと、燎原の火のように燃え広がっていった。
「アールグレイ家を出せ!」「俺たちの税金を返せ!」
「ヴァレリウス公爵も同罪だ! 聖女にうつつを抜かし、民を見捨てた!」
伯爵家の屋敷には、昼夜を問わず石が投げ込まれ、壁には罵詈雑言が書きなぐられた。かつて人々が羨望の眼差しで見ていたその屋敷は、今や、王都で最も忌み嫌われる場所と化していた。
「お前のせいですわ! あなたがあの娘を甘やかし、聖女などと煽てるから!」
「何を言うか! お前こそ、フィオナを虐げ、セラばかりを蝶よ花よと育てた結果だろうが!」
「お父様もお母様も、ひどいわ! わたくしが、一番つらいのに!」
屋敷の中では、醜い責任のなすりつけ合いが繰り広げられていた。父と母は互いを罵り、セラは泣き喚くだけ。彼らを繋ぎとめていた「名誉」と「富」という名の接着剤が剥がれ落ちた今、そこに家族の情など欠片も残ってはいなかった。
その混乱の極みに、一人の男が冷たい表情で訪れた。ヴァレリウス公爵だった。
彼の顔は、数ヶ月前までの自信に満ちた貴公子然としたものではなく、焦燥と屈辱に歪んでいた。
「伯爵、セラ。見苦しいぞ」
その静かな一言に、三人はびくりと動きを止めた。
「ヴァレリウス様! おお、よくぞ来てくださいました! あの愚民どもを、どうか追い払ってください!」
伯爵が藁にもすがる思いで懇願するが、ヴァレリウスは冷たく一瞥しただけだった。
「もはや、お前たちに利用価値はない。だが、一つだけ、最後のチャンスをやろう」
彼は、一枚の羊皮紙をテーブルの上に広げた。それは、王国全土の地図だった。そして、彼はその地図の端――誰もが見ることを避けていた、あの場所を、指で強く示した。
「呪われた荒れ地……? それが、何だというのです?」
「フィオナだ」
ヴァレリウスの口からその名前が出た瞬間、伯爵夫妻とセラの顔色が変わった。
「あの女は、まだ生きている。そして、この国が今陥っている混乱は、十中八九、あの女が原因だ。あの女の、我々に対する当てつけだ」
「ま、まさか……」
「だが、あの女の錬金術の才能は本物だ。国を立て直すには、あの女の力が必要不可欠になった。……癪だがな」
ヴァレリウスは、苦々しげに吐き捨てた。彼は、ついに現実を認めざるを得なくなったのだ。
「私が、自ら呪われた荒れ地へ赴き、あの女を連れ戻す。お前たちは、それまでに、あの女を再び迎え入れる準備をしておけ。あたかも、我々が改心し、非礼を詫びるかのように、な」
その言葉には、反省の色など微塵もなかった。彼は、フィオナを「連れ戻し」、再び「道具」として利用することしか考えていない。フィオナが、自分の意のままに動くと、まだ信じて疑っていないのだ。
「さあ、セラ」
ヴァレリウスは、怯えるセラの顎を掴み、顔を上げさせた。
「お前も来るんだ。お前の偽りの涙で、姉の同情を引け。それが、お前にできる最後の仕事だ」
それは、命令だった。拒否権などない。
数日後。
ヴァレリウス公爵は、セラと数名の護衛だけを連れ、王都を密かに出発した。行き先は、東の果て、呪われた荒れ地。
彼は、まだ想像すらしていなかった。
自分たちが捨てた「石ころ」が、今や、彼のプライドなど容易く砕いてしまうほどの、硬質で、そして鋭い輝きを放つ「宝石」へと姿を変えているということを。
そして、その地で彼らを待っているのが、心からの謝罪を求める元家族ではなく、新たな秩序と、絶対的な力を持つ、一人の「女王」であることを。
傲慢な訪問者の一行が、フィオナたちの築いた聖域へと、刻一刻と近づいていた。




