第十五話:黒い来訪者と、力の片鱗
フィオナが解呪の研究と畑仕事に明け暮れていた、ある日のことだった。
いつものように洞窟の外で作業をしていると、ノクトが不意に立ち上がり、遠くの一点を見つめて低い唸り声を上げた。その銀色の瞳には、これまでフィオナには向けたことのない、鋭い警戒の色が宿っている。
「どうしたの、ノクト?」
フィオナがノクトの視線の先を追うと、地平線の彼方に、小さな黒い点が現れたのが見えた。
それは、こちらに向かってくる、一頭の馬だった。そして、その馬に跨っているのは、黒い鎧を身につけた一人の騎士。
こんな死の大地に、人が来るはずがない。
フィオナの心臓が、警鐘のように速鐘を打った。追っ手だろうか? 自分がまだ生きていることを知り、息の根を止めに来たのかもしれない。
「ノクト、洞窟の中にいて」
フィオナはノクトを洞窟へと促すと、自分は手斧を固く握りしめ、来訪者を待ち構えた。もはや、無力にされるがままの令嬢ではない。抵抗する術を、彼女は持っている。
やがて、馬はこちらにたどり着き、騎士がその背から静かに降り立った。
カシャ、と鎧の擦れる音がやけに大きく響く。騎士は兜を脱いだ。現れたのは、日焼けした肌に、無数の傷跡が刻まれた、歴戦の強者であることを伺わせる中年の男だった。
「……まさか、本当に人がいるとはな」
男は、フィオナの姿と、その背後にある、明らかに人の手が入った洞窟の入り口や、小さな畑を見て、驚きの声を上げた。その声には、敵意よりも純粋な驚愕の色が濃かった。
「あなたは……? 王国の騎士でしょう。私を殺しに来たのですか?」
フィオナは、警戒を解かずに問いかけた。
男は、フィオナの言葉に少しだけ目を見開くと、苦々しげに首を横に振った。
「殺しに、などではない。俺は、命令に背いてここに来た。……どうしても、確かめたいことがあってな」
男は、グレイグ・ノーマンと名乗った。北の国境を守る、第三騎士団の団長だという。
「アールグレイ家の令嬢、フィオナ様で間違いないか?」
「……その名前は、もう捨てました」
フィオナの答えに、グレイグは確信を得たように頷いた。
「やはり、そうか。ならば、単刀直入に聞こう。我が騎士団が使っていた武具の防錆油、負傷兵のための治癒軟膏。あれらは、貴女が作っていたものか?」
ヴァレリウスやアールグレイ伯爵とは違う。現場の人間である彼は、フィオナの追放と、物資の品質低下の符合に、いち早く気づいていたのだ。そして、王国の命令を無視して、真実を確かめるために、単身この呪われた荒れ地までやって来たのだった。
フィオナは、すぐには答えなかった。目の前の男を、信用していいものか、判断しかねていた。
その沈黙を破ったのは、洞窟の奥から響く、ノクトの威嚇するような唸り声だった。
「なっ……!? ま、魔獣だと!?」
グレイグは、声のした方を見て、咄嗟に剣の柄に手をかけた。その顔に、緊張が走る。
「待って! その魔獣は、私の……友人よ」
フィオナが制止すると、グレイグは半信半疑の顔で、フィオナと洞窟の奥を交互に見た。
呪われた荒れ地で、一人の娘が、魔獣と共に暮らしている。常識では考えられない光景に、彼の頭は混乱していた。
「……信じられん。一体、何がどうなっているんだ」
グレイグが呆然と呟いた、その時だった。
彼の背後、岩陰から、別の魔獣が、涎を垂らしながらその姿を現した。それは、巨大な蠍に似た、甲殻を持つ魔獣で、そのハサミは鉄をも断ち切るという。グレイグは、全くその気配に気づいていなかった。
「危ない!」
フィオナが叫ぶのと、蠍の魔獣がグレイグに襲いかかるのは、ほぼ同時だった。
グレイグは、歴戦の騎士らしく、即座に反応して剣を抜くが、体勢が悪い。硬い甲殻に剣が弾かれ、体勢を崩してしまう。
絶体絶命。
その瞬間、一陣の黒い風が、グレイグの横を駆け抜けた。
ノクトだった。
まだ万全ではないはずの体が、信じられないほどの俊敏さで跳躍し、蠍の魔獣の側面に、牙を突き立てたのだ。
ギャイン! という甲高い悲鳴。
しかし、蠍の魔獣も怯まず、毒針のついた尻尾を、ノクトめがけて振り下ろした。
「ノクト!」
フィオナは、咄嗟に動いていた。懐に隠し持っていた、小さな石を投げる。それは、彼女が錬金術で作り出した、閃光弾だった。
石は、蠍の魔獣の顔の間近で、目もくらむほどの強い光と、甲高い音を放って炸裂した。
一瞬、怯んだ魔獣の隙を、ノクトは見逃さない。渾身の力で、その首筋に噛みつき、捻り切った。
巨体を揺らし、絶命する蠍の魔獣。
辺りには、静寂が戻った。
グレイグは、目の前で起こった出来事が信じられず、ただ立ち尽くしていた。
一人の少女と、一頭の魔獣が、見事な連携で、凶悪な魔獣を仕留めてしまったのだ。
彼は、改めてフィオナを見た。
その瞳は、もはや、か弱き貴族の令嬢のものではない。それは、この過酷な環境を生き抜き、自らの力で運命を切り開く、戦士の瞳だった。
「……とんでもない御方を、我々は見捨ててしまったらしい」
グレイグは、剣を鞘に納めると、フィオナに向かって、騎士の礼を取り、深く、深く頭を下げた。
この日、フィオナは、図らずも、この荒れ地で最初の「仲間」を得ることになる。それは、やがて王国を揺るがす、大きなうねりの始まりだった。




