第十一話:王国に残した「置き土産」
その頃、アールグレイ伯爵家は、かつてないほどの喜びに沸いていた。
忌まわしい長女フィオナを追放し、代わりに、聖女と謳われる次女セラとヴァレリウス公爵との婚約が正式に発表されたのだ。
「これで、我が家の未来は安泰だ!」
アールグレイ伯爵は、書斎で上質な葡萄酒を片手に上機嫌だった。ヴァレリウス公爵家との縁組は、伯爵家をいずれ侯爵家へと押し上げるだろう。全ては、自分の描いた筋書き通りだった。
「ええ、あなた。これも全て、セラの清らかな祈りと、我が家に伝わる秘薬のおかげですわ」
母もまた、満足げに微笑んでいる。彼女の関心は、セラが身に着けることになるであろう、公爵夫人の豪華なドレスと宝石にしかない。
彼らにとって、フィオナの存在は、もはや過去の汚点でしかなかった。屋根裏部屋は固く閉ざされ、彼女が使っていた道具は全て、まるで呪われた品であるかのように、跡形もなく処分された。
しかし、彼らはまだ気づいていなかった。
フィオナという「歯車」を失ったことで、アールグレイ家、ひいては王国全体を支えていた巨大な機械が、少しずつ、しかし確実に軋み始めていることに。
最初の異変は、伯爵家の財政に現れた。
フィオナが「趣味」で作っていた、様々なポーションや軟膏。それらは、「アールグレイ家の秘薬」として、貴族や富裕な商人たちに高値で取引されていた。伯爵はその収入を、当然のように自分の功績だと思い込んでいた。
「どういうことだ! 今月の秘薬の売り上げが、先月の十分の一だと!?」
経理担当からの報告に、伯爵は声を荒らげた。
「材料が足りぬ、だと? そんなものは、いくらでも金で買い足せばよかろう!」
しかし、問題は材料ではなかった。レシピを知る者が、もはやこの屋敷にはいないのだ。残されたメモを頼りに、屋敷の錬金術師たちが再現を試みるが、出来上がるのは効果のない、ただの色のついた水ばかりだった。
異変は、宮廷にも及んでいた。
国王が長年患っていた持病の頭痛。それを和らげていたのは、セラが祈りを捧げたという「聖水」――実際には、フィオナが王の体質に合わせて特別に調合した、無味無臭のポーション――だった。
「セラよ、どうしたのだ。近頃、お前の祈りの力が弱まっているのではないか?」
国王から直接、不審の目を向けられ、セラは顔を青くした。
「そ、そんなことはございません、陛下! きっと、私の祈りが足りないのですわ。もっと、もっと強く祈りを捧げます!」
彼女にできるのは、そう言ってその場を取り繕うことだけだった。
そして、最も深刻な影響は、王国の軍事に現れ始めていた。
辺境の騎士団が使う、武具に塗布する特殊な防錆油。負傷兵の回復を早める、高純度の治癒軟膏。それらも全て、フィオナが人知れず開発し、供給していたものだった。
「報告します! 第三騎士団の装備の劣化が激しく、使い物になりません!」
「負傷兵の治癒が遅れ、前線への復帰が大幅に遅れています! このままでは、隣国との小競り合いにすら勝てません!」
次々と舞い込む凶報に、ヴァレリウス公爵は眉をひそめていた。
彼は、フィオナのことを「無能で地味な女」と断じ、切り捨てた。アールグレイ家の価値は、聖女セラの名声だけにあると信じて疑わなかった。
しかし、この国を裏から支えていた、縁の下の力持ちが誰だったのか。
その緻密で、誰にも真似できない、高度な錬金術の才能の持ち主が、どこの誰だったのか。
彼らがその事実に気づき、自分たちが犯した取り返しのつかない過ちを悟るのは、もう少し先のことになる。
王国に残されたフィオナの「置き土産」。
それは、彼女の不在そのものが、王国全体を蝕んでいく、静かで、そして最も効果的な復讐の始まりだった。




