第一話:灰色の日々と、星空の秘密
埃っぽい屋根裏部屋の片隅。それが、伯爵令嬢フィオナ・アールグレイに与えられた、唯一の「自分の場所」だった。
窓の外では、王都の華やかな街並みが夕日に染まっている。今日、王城で開かれるという建国記念の夜会に、誰もが心を躍らせている時間だろう。けれど、フィオナの心は、部屋に漂う薬草の匂いと同じくらい、静かで、そして少しだけ苦い香りがした。
「……できた」
小さな息と共に、フィオナは手にした乳鉢を置いた。中には、月の光を溶かし込んだかのように、淡く輝く銀色の軟膏が練り上げられている。これは国でも最高位の神官しか作れないとされる「聖癒の軟膏」。三日三晩祈りを捧げ、ようやく一滴だけ得られる奇跡の雫を触媒にする、というのが公式の製法だ。
しかし、フィオナは祈らない。ただ、薬草の配合をミリグラム単位で調整し、鉱物の粉末を加え、適切な温度で、適切な時間だけ混ぜ合わせる。前世――現代日本で薬剤師だった頃の知識と、この世界で与えられた錬金術の才能が、奇跡を「再現」させていた。
「フィオナ! まだかかっているの!」
階下から、ヒステリックな母の声が響く。続けて、乱暴な足音が階段を駆け上がってきた。
「早くしないと夜会に遅れるでしょう! ああ、またそんな薄汚い格好で……。で、例の物はできたのですね?」
扉を開けて入ってきた母は、フィオナの姿を一瞥すると、すぐにその手元――銀色に輝く軟膏の入った小瓶へと視線を移した。その瞳には、娘への愛情ではなく、高価な商品を検分する商人のような色が浮かんでいる。
「はい、母様。こちらに」
フィオナは静かに小瓶を差し出す。母はそれをひったくるように受け取ると、満足げに頷いた。
「よろしい。これで、辺境伯様への覚えも良くなるというもの。くれぐれも、あなたが作ったなどと口外してはいけませんよ。これはアールグレイ家に古くから伝わる秘薬なのですから」
いつもの言葉だった。フィオナが作る奇跡の薬は、すべて「アールグレイ家の秘薬」か、あるいは、聖女と噂される美しい妹、セラの「祈りの賜物」として世に出ていく。フィオナの存在は、その裏側に隠され、誰にも知られることはない。
父も母も、妹のセラも、フィオナを「何の取り柄もない地味な娘」としか見ていない。ただ、都合の良い道具として、この屋根裏部屋に押し込めているだけだ。
「さあ、あなたも早く準備なさい。今夜は大事な夜会です。あなたの婚約者であるヴァレリウス公爵様もいらっしゃるのですよ。公爵様の前で、アールグレイ家の恥になるような振る舞いだけはしてくれるな、と父様も言っていましたからね」
母はそう言い捨てると、小瓶を懐にしまい、さっさと部屋を出て行った。
ヴァレリウス公爵――フィオナの婚約者。
すらりとした長身に、彫刻のように整った顔立ち。王国の若き公爵であり、次期宰相と目される切れ者。誰もが羨む完璧な婚約者のはずなのに、フィオナの心は少しもときめかなかった。
彼がフィオナに向ける視線は、いつもどこか冷たい。まるで、値の付かない石ころでも見るかのように。特に、輝くばかりに美しい妹のセラと並んだ時の、あのあからさまな侮蔑の色を、フィオナは何度も味わってきた。
「……行きたくないな」
ぽつりと呟いた言葉は、誰にも聞かれることなく、薬草の匂いに溶けて消えた。
しかし、行かないという選択肢はない。フィオナは重い腰を上げ、母が置いていった古びたドレスに手を伸ばした。それは、妹のセラが数年前に一度だけ着て、もう着ないからと押し付けられたものだ。
鏡に映る自分は、灰色の髪に、灰色の瞳。まるで、物語の主人公の背景に描かれる、名もなき群衆の一人のようだ。この自分が、華やかな夜会の場で、公爵の隣に立つ。想像するだけで、胃が重くなった。
(でも、きっと今夜も同じ。壁の花になって、時間が過ぎるのを待つだけ)
そう自分に言い聞かせ、フィオナは静かに部屋の扉を開けた。
彼女はまだ知らない。その夜会が、自身の運命を根底から覆す、残酷な舞台の幕開けになるということを。そして、その絶望の先で、本当の自分が目覚めることになるということも――。