鬼神の里(2)
「ち、力……、ですか……?」
思いもよらないことを言われて、咲はぽかんとした。千牙は、おや、分かっていなかったのか、と楽しそうに言葉を継いだ。
「朧たちはそもそも名を持たぬ。名を持たぬあやかしは環境に左右されやすく、やがてははびこる邪に飲まれ、悪鬼となる。おぬしが朧に名をつけたことで朧はしっかりとその性質を定め、安定した。これは、咲、おぬしの功績だ」
「私の……」
先ほど千牙は、咲を喰らおうとしていた鬼に『朧よ』と呼び掛けていた。もしかして、あの鬼は、朧の成れの果てだったのだろうか。
「そうだ。我々では、成しえなかった。あやかしは生まれつき名をもつのでな、生まれたあやかしに名をつけるという行為を知らなかったのだ」
そう、……だったのか。人が当たり前に行う命名の行為に、そんな力があるなんて思いもしなかった。
……でも、だったら、なにも咲でなくても、朧たちを想う気持ちのある人間が付けることも、可能なのでは、ないだろうか。朧は人に害をなさないし、それを知った人が名をつけることがあるかもしれない。そんな咲の考えを読んだように、千牙は続けた。
「ただ、名をつけるのが誰でも良いというわけではない。ハチとスズをはじめとした朧たちから聞いたが、咲は家族に名を呼んでもらえないことを悲しく思っていただろう? 名に対するこだわりが、おぬしにはある。その想いが力になった。……おぬしには、皮肉なことだと思うが」
千牙はそう言って、咲の頭をやさしく撫でた。……そんなことをしてもらったのが、もう記憶がかすれたはるか昔に父にしてもらったとき以来だったので、咲の目にジワリと涙が浮かんだ。
「何故泣く。やはり名を呼んでもらえなかったのは、辛かったか」
千牙の問いに、首を横に振る。違うのだ。悲しいからではない。千牙のやさしさが、嬉しかったのだ。
「……私、あやかしって、人を食う怖いものだと思っていたのですが、……違うんですね。千牙さんがやさしい方で、私、嬉しいです」
家族には捨てられた。拾われた先でこのようなやさしさに触れれば、咲の孤独で埋め尽くされていた心は簡単に傾く。滲む涙をぬぐって微笑もうとすると、千牙の手が咲の目もとから頬を覆った。
「そう判断するのは早計だ。私はおぬしを、利用しようとしている」
やさしい手つきと、突き放すような声音。どちらが本当の千牙に近いのか、初めて会った咲には判断が付かない。それでも。
「今、千牙さんは、私に『辛かったか』と聞いてくださいました。邑の誰も、私にそんな風に聞いてくれたことはなかった……。利用するんでもいいんです。もともと私には、そうされる以外に価値がないので……」
寂寥を滲ませた目を細め、咲は言う。千牙はそうか、と呟き、この里での待遇について語った。
「それであれば、話は早い。里に逗留する代わりに、この里の周囲で生まれる朧に名をつけてもらいたい。それだけしてもらえれば、おぬしが次に生きていくべき人の里が見つかるまでの間、ここに居ることを叶えよう」
千牙の言葉に咲はぽかんとした。
それだけ? たったそれだけのことで、いっときの住処を与えてくれるというのか? あまりに咲に都合が良すぎて、正直狼狽える。
「あ、あの……。もっと、あの、お掃除とか、草むしりとか、そういうお仕事は……」
「要らぬよ。そもそもおぬしは、我が一族の恩人だ。そのおぬしを狡猾にも利用しようというのだから、私の方が責められなければならない」
「そんなこと……」
咲はそんな風に思っていない。猩猩に食われそうだったのを助けてもらった恩だってあるのだ。困って千牙を見つめる咲に、彼はやわらかく表情を崩した。
「おぬしは名をつけること以外に、憂うことはない。なに、いっときのことだ。竜宮城へ招かれたと思って、くつろいでくれたらいい」
千牙はそう言うと、小夜に命じて咲を退室させた。
*
「咲さま、薬を塗りますね」
夜である。あやかしも、人型は人のように過ごすらしく、先ほど湯あみをさせてもらった。湯を使うなど、子供の時以来だった。普段は井戸水や川で体の汚れを落としていただけだったので大層汚れていたと思うが、スズがせっせと体を洗ってくれたおかげで、咲は今、人生で一番清潔な状態だ。
ちなみに最初は体を洗ってもらうのは断った。しかしスズに、お役目だから、それを奪わないでほしい、と懇願されて、折れた。お役目があることは、その人を強くする。例えば破妖の力に恵まれた、芙蓉のように。咲にはなんのお役目もなかったから、日々、無能であることを悔い続けた。そんな思いをスズたちにして欲しくなかった為、咲は鬼神の里に来てから彼らに世話になっている。
スズがきれいな小瓶から軟膏を指にすくい上げる。それを、腕や背中、腹や脚に至るまで広がる市子や芙蓉からの暴力の痕に塗り込んでいく。ややしみるが、我慢できない程ではない。
「しみますか。明日は薬を変えましょう」
「いいのよ、スズ。薬を頂けるだけでも贅沢だわ」
「いいえ。咲さまは我がおにかみ一族の恩人。そして、私の恩人です。恩人の為に少しくらい薬を探すことなんて、大した労ではありません。それより、咲さまにお健やかにお過ごしいただく方が、大事です」
スズが首を横に振って頑なに譲らなかった為、ここも咲が折れた。とはいえ、咲は特別なことをした気がしていないので、申し訳なくはある。
(でも、名を呼んでもらえた嬉しさは、分かるから……)
きっとスズも同じ気持ちなのだろう。そう思って身を任せる。
やがて全身の傷に薬を塗り終えた頃、部屋の外からハチが声をかけてきた。
「咲さま、長がお見えになっています。お通しして宜しいでしょうか」
明朗でよく通るその声に、咲は夜着の上から羽織を羽織らせてもらって、どうぞと応じた。部屋に入って来た千牙は昼間と同じ着物を着ており、咲ひとりがくつろいだ姿であるのに、やや申し訳ない気持ちになった。
「す、すみません。お湯を使わせて頂いた後だったので……」
「いや、構わぬ。湯を使ってもらうよう指示したのは、私だしな」
千牙はそう言うと、咲の前に座って深々と頭を下げた。
「せ、千牙さん!? なにを……!?」
「おぬしをこの里に連れてきたは良いが、開口一番、利害の話で済ませたことについて、おぬしを思い遣る言葉が足りなかったと、ハチに指摘されてな。人の身であやかしの里に連れてこられたのは、心細かっただろう。それなのに、おぬしの気持ちを慮ることが出来ず、申し訳なかった」
あやかしとは、人を食う恐ろしい生き物。猩猩を退けたとはいえ、千牙もまた、あやかし。力ない、と言われていたスズやハチと違って、この里の長たるべく力があるに違いない。その人が、あやかしから見て無力な人間に対して頭を下げるというのは、スズやハチの前だからだろうか。里のあやかしがこの場に居たら、きっと千牙の行為を許せない行為として、その者に映るだろう。




