9.旦那様へのおねだりは
「お嬢様がガレトの街に?」
主人であるマリアンネの髪を梳りながら、侍女プリスカ・ホルテルは聞き返した。
化粧台の鏡越しに、髪と同じ浅緑色の瞳と目が合う。
湖畔の街ガレトは、マリアンネがゼイルに辿り着く前にしばらく通っていた地だ。
プリスカがそこの菓子店をいたく気に入った事から、今でも昼間たまに扉を繋げてやり、一時間ほど散策してきた彼女からマリアンネも最新情報を得ている。
「レオンさんを案内する事になったのよ。ご家族に贈るものを見繕っておきたいそうなの」
「確か、ゼイル基地の小隊長でしたか。そんな事を言って、実際のところお嬢様に気があるのでは?」
「まさか。私が既婚者だと知っているし、彼にもお相手がいるの。」
「左様でしたか…」
「ふふ。せっかく格好良いのに時々ちょっと抜けていて、なかなかお茶目な人よ。」
デートの誘いのようだと指摘した際のレオンを思い出し、マリアンネはついくすくすと笑った。
彼のような人が懸命に説明してくれたなら、まだ見ぬ奥方もいずれは心を開くだろう。
「良い友人なのですね。私もひと肌脱ぎましょう、と言いたいところですが……同行は難しいですね。」
「そうね…」
マリアンネの扉繋ぎの魔法にはいくつか発動条件があり、その一つが「繋ぐ扉はどちらも施錠されていてはならない」というものだ。加えて、「繋ぐ扉は閉じていなければならない」。
人に見られず他の街から帰還するには、その時間帯にプリスカがこちらの扉を見張る必要があった。
「まぁ、レオンさんもガレトに興味のある人を誘ってみると言っていたし、当日二人きりという事にはならないと思うわ。」
「だといいのですが。もしお嬢様が鈍いだけで結局迫られたりしたら、以前お教えした殿方一撃必殺の…」
「もう、心配いらないったら。レオンさんに限って、女性に無体を働くような事はないわよ。」
「ですが、男はオオカミと申しますよ。」
「オオカミ?……彼は、どちらかと言えば狼兎ね。」
「それはそれは。」
狼兎とは、名の通り狼に近い姿をした兎型の魔物である。
大きさは四十センチから五十センチ程度。キリッとした顔立ちにもふもふの毛、躾ができるため人と共存できる魔物であり、畑や家畜の番をさせると害獣からこれをよく守るが、夜行性で昼間にウトウトする姿はとても愛らしいという。
――…私にとって危なくないという意味で言ったけれど……ぬいぐるみが売っているような可愛い魔物で喩えるのは、ちょっと失礼だったかしら。
本人には言えないかもしれないと思いつつ、マリアンネはプリスカに日程を伝えた。
普段のように夜に出発しては閉まっている店もあるので、待ち合わせは昼頃だ。ゼイルから向かうレオンとは別行動で、あくまで現地集合となる。
「昼間に街へ出るなんて、嫁いでからは初めてかしら。久し振りに歩くガレトの街も楽しみだわ」
「当日は徹底して日焼け対策のクリームを塗り込みます。帽子も日よけがある物を。」
「出かけると言っても、もちろん貴族っぽい格好は避けてね?私はシーラとして行くのよ。」
「金持ちと結婚したという設定で、多少は高品質の物でも良いのではありませんか?私としても、たまには外出時のお嬢様を磨き上げる仕事を……いえ、それでは殿方がお嬢様の美貌に魅了されて誤った道に進む可能性が…」
考え込みながらもプリスカの手が止まる事はなく、丁寧かつ素早い動きでマリアンネの髪を整え化粧を終えている。
「そんな事にはならないと思うけれど。貴女ってほんとに私の見た目が好きね…」
「内面もですが、ええ、寝返るくらいには。そして、私を解雇し他の者に世話をさせると言われでもしたら、凶行にはしりそうなくらいには。」
「ふふ、しないわよ。」
立派な淑女である姉達と、そうはなりきれない自分。
マリアンネは自分が嫌いではないし、彼女達になりたかったわけでもないけれど、ため息をつく日があったのも、プリスカの存在が支えになったのも確かだ。
「頼りにしているもの。望むなら喜んで着せ替え人形になるわ」
「でもショートケーキモチーフのフリルとリボンたっぷり桃色ふわふわプリンセスドレス【ルビーのティアラと天使の羽付き】は試着すらしてくださらなかったじゃないですか。」
「……な、何年引きずってるのよ、それ…」
「八年です。」
ロッテ・ヴィンケルは悩んでいた。
柔らかな日差しが降り注ぐヴィンケル伯爵邸のテラス。
そこからは庭園の花々が見下ろせるが、ロッテはそちらには目もくれない。
ティーテーブルの向かいで「綺麗ね」と儚く微笑む義姉マリアンネと、実兄ユリウスのために何ができるか、そればかり考えていた。
――多少は仲を深めて、「ロッテ様」呼びから「ロッテさん」に変えてくださったけど。敬語もやめてもらえたけれど、でもまだ安心できませんわ。せめてお兄様がお戻りになるまで、わたくしがお義姉様を支えなければ。
ユリウスの事をそれとなく伝えて知ってもらい、ヴィンケル伯爵家がマリアンネを歓迎している事をそれとなく伝えるのだ。
いざユリウスが戻った時、開口一番に「離婚しましょう」と言われないために。
「お義姉様。そういえばお兄様が居た頃は、庭のあの辺りで鍛錬をされていましたわ。指南役が来ない日も、それは懸命に努力していて。」
「そうなの……騎士の仕事に誇りを持っておられるようだものね。弛まぬ努力ができるのは素晴らしい事だわ。」
ロッテは悩んだ。
今のは、言った通りの意味だろうか。
それとも「その結果、仕事ばっかりよね。はいはいすごいすごい。」と言われたのだろうか。
――いえまさか、お義姉様がそんな。しっかりなさいロッテ、悲観的過ぎるわ!
「お兄様がお戻りになったら、お義姉様との時間はたっぷり取ってくださると思いますわ。鍛錬だって後回しにするでしょう。」
「うふふ、そんな。……ロッテさん、わたくしはね。ユリウス様の好きに、自由に過ごして頂きたいと思っているのよ。今後のお話はもちろん聞きたいけれど、無理にわたくしと居てほしいと願うつもりはないわ。」
「……お義姉様……」
――もう、お兄様について諦めていらっしゃるのかもしれない。
ロッテはごきゅりと唾を飲み込んだ。
諦念の微笑みを浮かべて馬車で走り去るマリアンネに手を伸ばし、けれど走っても追いつけず、果ては転んで置いていかれたかの如き心地である。心の中のロッテは、土に汚れたドレスを顧みることなくぺしょぺしょと泣いている。
――違うのです。この状況、お兄様はまったく悪くないのですわ!お義姉様!お願いですからどうか今しばし!今しばしお待ちになって!!お義姉様ぁーっ!!!
ロッテが適当を言ったわけではない。
実際、ユリウスは将来的に必ずマリアンネとの時間を増やせるはずなのだ。
ただその事をユリウスも、もしかしたらマリアンネも、知らない可能性があるだけで。
――…尋ねて、みようかしら。父君、フランセン子爵から領地の事を聞いているかどうか。でも、「そんなの聞いていないわ」と泣かれてしまったら。
令嬢らしくふわりと微笑みを浮かべたまま、心の中のロッテはテラスの柵に腹からもたれかかって「どうしましょう!お兄様ぁ!!早ぐ!お戻りになっで!!」と喚いている。
このまま飛び降りて華麗に着地してやろうかしらと思う程だ。できずに骨折するだろうけれど。
――お兄様とお義姉様の相性が悪いとは思えない。会えたら絶対、きっと、上手くいきますのに!!
「…そういえば、ロッテさん。」
「は、はい?」
軽くどもってしまい、ロッテの頬に薄く朱がさした。
十九歳当時より凛々しく美化した兄と、めろめろになって兄に抱き着くマリアンネを想像していたからだ。目の前の義姉に僅かたりとも察されていませんようにと強く願う。
「一般的に……妻って、夫に何を貰ったら喜ぶもの、なのかしら。」
――…逆では、なくて?
ロッテの頭上に疑問符が乱舞する。
しかし考えてみれば、ユリウスに中々会えないマリアンネは妻の自覚が薄いのだろう。どうしていいかわからなくなっているのではないか。つまり、妻らしく、ユリウスに何か貰った時正しく反応できるようにしたいのでは。
――さては、お兄様にお土産でもねだってみようと!?気を引きたいと思ってくれているのね、お義姉様!!
ロッテの瞳がきらきらと輝きだした。飛躍である。
悩ましく目をそらしたマリアンネが、内心「しまった。レオンさんの奥さんなんだから平民の方の場合を想定するべきで、ゼイルでおかみさん達に聞いた方が……?」と考えている事など、気付けるはずもない。
「それは、お義姉様が嬉しいものなら何だっていいと思いますわ。花でも菓子でも絵画でも、お兄様にねだってみましょう!」
「ユリウス様に?……ロッテさん、それは」
「遠慮せずに。お兄様はそれくらいで煩わしく思う方ではありませんもの。むしろ助かるでしょう、リストを作っておくのもいいかもしれませんわね……貴女、紙とペンを。」
「はい、ロッテお嬢様。」
壁際に控えていた侍女が速やかに室内へ向かう。
きょとんと目を丸くしていたマリアンネは、苦くなってしまいそうな微笑みをどうにか綺麗にたもって笑いかけた。
「ロッテさん?本当にわたくしは、ユリウス様には何も……」
「そんな事仰らずに、ね?」
「……で、では、少しだけ。」
完全に誤解させてしまったようだと反省し、マリアンネは大人しく「ユリウス様に貰えたら嬉しいお土産リスト」とやらを書く事にした。
ペン先をインク壺に浸し、余分なインクを軽く切ってから考え込む。
南部で獲れるという大鎌海老を使った料理を食べてみたいだとか、室内での運動に良いらしい丸蛙の鳴嚢が気になるとか、本当なら色々あるのだが――…書くのはシーラではなく、マリアンネである。
どうにか無難そうな物を書き出して差し出すと、心なしかわくわくした顔のロッテがリストを手に取った。
「えっと…泡呼猫印の石鹸に、花泥鬼の香炉……百合鴎の羽ペン……に、虹蜘蛛の刺繍糸……」
読んでいくうちにみるみるロッテの顔色が変わる。
マリアンネは表情を変えずに内心ハッとした。物が何かにこだわって考えたせいで、流通価格や希少価値を失念していたのだ。ロッテは青ざめ、微かに震えながらマリアンネを見ている。
リストを撤回するべく「返してほしい」と手振りをしたが、反応がない。
「ごめんなさい、考えるのが楽しくてうっかりしていたわ。」
「お、お義姉様…」
「夢のような一覧を作ってしまったわね。決して、難題を振ろうとしたつもりは」
「やっぱりお兄様の事を怒っていらっしゃるのね……!?」
「違うのよ、その…」
「怒るならわたくしを!わたくし達を怒って!!」
「ロッテさん!」
わっと泣き出してしまったロッテをなだめるのに一時間かかり、マリアンネはその後、プリスカと相談してもっと無難なリストを作り上げた。
「ゼイルに慣れた弊害だわ……」
「私に言わせると、お嬢様はその程度頼んでもいいくらいの無礼をされているとは思いますが。」
「それでも、王都住まいの伯爵家に虹蜘蛛は無いわよ、虹蜘蛛は。ああ失敗した」
「では気を取り直して――…今宵も、行ってらっしゃいませ。」
大鎌海老:甲殻が刃のように鋭く、動きが速いので危険度が高い。大変美味。
丸蛙の鳴嚢:加工すると、現代で言うバランスボールとして使える。
泡呼猫印の石鹸:大抵のシミや汚れを落とせる万能石鹸(宝露蜂の体液は無理)。高い。ゼイルでは一般品。
花泥鬼の香炉:特殊な性質の泥で作られており、お香の魅力を引き立てる。高くて希少。ゼイルでは数か月に一度市場に出る。
百合鴎の羽ペン:百合に近い香りがほのかにする、上級貴族愛用の一品。高い。ゼイルでは下級貴族でも買える値段。
虹蜘蛛の刺繍糸:一年を通して色が変化し続ける魅惑の糸。加工前にほんの僅かでも日光を浴びると崩壊する。これをふんだんに使った布製品が王族に献上されるような品。主な産地はゼイル。