8.常連さんと遠出の約束
互いに既婚者と知った夜から、《シーラ》と《レオン》は以前より少しだけ多く話すようになった。
最初は、顔を合わせた際にこれまでよりも二言、三言やり取りが続く程度の事だった。
マリアンネはしっかりしているのにどこか天然なレオンが心配になったし、ユリウスは夫に内緒で働くシーラを心配しつつ、しかし件の疑惑に彼女が絡んでいないか探る必要もある。
一年もの間ただの知り合いだった二人だが、いざ互いを気に掛けてみると、友人のように話せるようになるまでは早かった。
「俺の想い人について、シーラさんに相談してるんだ。」
ユリウスは「レオンには想い人がいる」という設定を利用し、シーラと恋人関係ではないし気があるわけでもない、という前提のもと、長く話しても怪しまれないようにその主張を通した。まだ顔も知らない妻について相談する事があるので、あながち間違いでもない。
マリアンネも話を合わせ、時にレオンを慕う女性から「彼の想い人って誰ですか?」と聞かれる事もあったが、そこまでは知らないと言っていた。彼の妻の名など知らないのだから、本当の事だ。
「シーラさん、隣いいだろうか。」
「あら、レオンさん。どうぞ?」
今宵もカウンター席の端でまかないを食べていたマリアンネに、レオンが声をかける。こういう時の彼は部下を連れていない。
席に着いて店主に注文するレオンの横顔を見つめ、マリアンネは水の入ったグラスを傾けた。
――今日は小型の魔物が多く発生し、騎士団は大忙しだったと聞いたけれど。レオンさんは全然疲れが見えないわね。
などと考えていたら、はたと、黄色い瞳と目が合った。
何だろうかと言いたげに小首を傾げるレオンの表情はどこか幼く、マリアンネは思わず微笑んでしまう。水がレオンにも届けられた事を確認して、グラスを軽く持ち上げた。
「今日は大変だったんでしょう?まずはお疲れ様。」
「ああ、聞いたのか。ありがとう、お疲れ様」
合わさったグラスがキンと鳴り、中の氷がからりと回る。
礼を言ったという事はレオンも戦いに出たのだろうが、騎士服も腰に提げた剣も汚れは見当たらないし、襟足で一つに結われた赤髪に乱れもなかった。
「何が出たかは聞いたか?」
「いえ、そこまでは。」
「宝露蜂の群れだ。じきに宝露酒が出回る」
「まあ!随分前に、おかみさんに貰って一口飲んだ事があるわ。」
マリアンネはつい目を輝かせる。
独特の味わい深さと後味のほのかな甘みが人気の酒だ。
宝露蜂は比較的小型の魔物だが、群れで行動するため討伐難易度が高く、しかし警戒心の高さから人間との遭遇率が低い。棲息地であっても数年に一度見つかる程度のレア魔物なのだ。
ゆえに宝露酒も数年に一度、数十本が作られるのみ。
それも運送中の管理が難しく、厳重に工夫しなければ味がみるみる落ちてしまう――すなわち棲息地以外の街ではとんでもない高値で売られ、次に討伐されるまで新品が手に入らない事から、その値段は増していくのだ。
――お父様の大好物。ここじゃ「少し高いけど買えなくはない」って程度だけど、王都では味が落ちたものでもゼロが一つ多いのよね。品質を約束したブランド品だとゼロ二つ……、あら?
はたと瞬いて、マリアンネはどこともない空中を見やった。
運送中の管理が問題なのであれば、マリアンネならゼイルで買った酒をそのまま、フランセン子爵邸の地下倉庫へ運ぶ事ができる。あるいはプリスカに任せ、ヴィンケル伯爵邸で保管するか。
個人で楽しむ分のためにも、この機に数本くらい入手しておくのもアリかもしれない。自然と口元が緩む。
「あれは本当に美味しいわよね。」
「俺もあの味は好きだ。討伐は骨が折れたが、他領の卸へ売れば出費を賄って余りある。」
「やっぱり大変なのね。蜂の群れ……といっても、虫のそれとはわけが違うんでしょうけど。」
マリアンネが何の気なしにそう言うと、真面目なレオンは料理が来るまでの間にしっかりと説明してくれた。
全長五十センチから六十センチほどの宝露蜂、その頭部を一体ずつ切り落とす必要があり、体液は無色だがぬめりがひどいので、対応した騎士は基本的に戦闘終了次第水浴びをする。
体液が染みた衣服はどんなに洗っても翌日必ず変色するため、戦闘時に着ていた衣服や装備は、ポケットのハンカチに至るまで一式すべて廃棄となる。
使用した剣は鞘に戻さず、特殊な手入れ材で磨かなければやがて刺激臭を発するという。
「素材が高価でなければ、一体倒すだけで大赤字なんだ。あの魔物は」
「美味しいお酒の裏に、そんな苦労があったのね……。」
道理でレオンが身綺麗なわけである。
すっかり水浴びをして着替えてからやってきたのだろう。三角豚の大盛定食がカウンターに届けられ、レオンは礼を言ってそれを受け取った。
「…レオンさん。私はここで慣れてるから、全然気にならないけれど。」
「うん?」
「奥さんが血とか無理な方だったら、さっきみたいな話はだいぶダメよ。」
「え……」
レオンの結婚相手がどんな生まれ育ちかは不明だが、夫に放置されて閉じこもって泣き暮らすようでは、恐らく気が弱い人なのだろう。
魔物の体液だの頭部を切り落とすだの、そんな話はやめた方がいい。
「詳細は言わずに、『服や装備が台無しにされる』くらいに留めないと。人によっては、想像だけで貧血を起こしてしまうわ。」
「……き、気を付ける。ありがとう」
友人から真剣な声で駄目出しされ、レオンは苦い顔で頷いた。
自分にとってはおどろおどろしくも恐ろしくもない単なる雑談だったが、やはり騎士連中と違い、一般的な女性とは繊細なものなのだろう。カトラリーを手に取って口を開く。
「妻…については、先日、ひとまず家族に事情を尋ねる手紙を送ったんだ。」
「そう……早く状況がわかるといいわね。奥さんにも何か送ってあげた?」
「俺について彼女が何と聞いているかわからないから、どう書くべきか悩んだが…その……俺なりに、どうにか言葉を……選んだ、つもりだ。」
「…伝わるといいわね……。」
珍しくも眉間に皺を寄せるレオンを見て、マリアンネは心からそう言った。
真面目な男が悩みに悩んだ結果、微妙にずれた事を書いていそうな気がするのは、気のせいだと信じたい。「とにかく食べましょ」と肩を叩けば、レオンは思い出したようにはっとして食べ始めた。
――ろくに知らない相手だもの。「何もないのは失礼だから」というだけで手紙を綴るには、レオンさんは誠実過ぎるかもしれないわね。
「辻馬車のフレットさんなんかは、そういう時サラサラと言葉が出そうだけど。」
「確かに…、君は彼と知り合いなのか?」
「時々いらっしゃるのよ。レオンさん達より早い時間だから、あまりここでは会わないかしら?」
「ああ。この店に来てるのは初めて知った」
フレットは三十代前半で、毎日よく笑う饒舌で快活な男だ。
自他ともに認める女好きで客に女性がいると必ず褒めちぎるが、三人の子供と針子の奥さんを溺愛しており、軽薄だが浮気はしないという性質である。
マリアンネも会う度にでれでれの顔で「今日も麗しい子猫ちゃん」だの、「月夜に現れる妖精のよう」だのと言われていた。
――あくまで一例として名前を挙げたものの……フレットさんの真似をするレオンさんは、見たくないかも。
混ぜるな危険。
人には向き不向き、似合う色似合わない色があるものだ。マリアンネがそんな事を考えているとも知らず、レオンは咀嚼していたものを飲み込んで問いかける。
「君は他の街でも働いてるという話だったが、どこなのか聞いても?」
「なぜかによるわね。向こうの勤め先は、店員の友人が来ていいところではないの。」
他の街で働いてなどいないが、マリアンネは淀みなく答えた。
これは随分前から用意していた「設定」だ。ゆえに、何の焦りもなく話す事ができる。
そしてユリウスもまた、なぜ聞いたかという答えを用意していた。
「俺は配属されて真っ直ぐここへ来たから、近くの街に何があるか知らないんだ。いずれ妻に何か贈りたいと思った時、選べるものがあればと。」
「そういう事なら……ガレトの街よ。」
「ガレト湖の…どうやって行き来を?」
ゼイルからガレトまでは馬車で二時間半といったところだが、シーラが辻馬車を使っていない事など知っている。もちろん、馬を所有していない事も。
シーラ・クラインはくすりと微笑み、唇に人差し指をかざした。
「秘密の方法で。これは教えないわ」
「……気になるな」
「ふふ、ごめんなさいね。でもガレトの名物なら結構知っているわよ。美味しいお店もね」
仮にシーラがその「方法」をやましい事に使っているなら、その方法の存在から隠せばよかった。馬車を使ったとでも言えばよかったのだ。
もしレオンを警戒し、馬車の使用について調べられたかもと疑っているのなら、ガレトに行っている事から隠せばよかった。
――少なくとも、自ら悪事に加担している様子はないか。誰かに利用されていない限りは。
友人でも家族でも疑うべきは疑うのが仕事だが、黒であってほしいとは思わない。
無意識のうちに少しだけ息を吐き、ユリウスは水を喉へ流した。
「お勧めを教えましょうか?」
親切心から笑みを浮かべ、シーラはレオンの左目を見ている。ユリウスの右目に眼帯などなくとも、レオンの右目には眼帯があるから。
こんな笑い方をする人を疑う事が馬鹿らしい。
そう思ってしまう自分がいたとしても、ユリウスの任務は情報漏洩の調査だ。世の中には悪気なく口を滑らせる人間も、中身を知らずに運び屋にされてしまう人間もいる。
――君が、そうでなければいいが。
「どうせなら、今度直接案内してくれないか?」
「えっ?」
「俺にとっては知らない街だ、いざ買いに行った時に彷徨っては困る。」
何もおかしい事は言っていなかった。
ゼイルからでは行き来に時間がかかる街なのだ、向こうで余計な時間を過ごすわけにはいかない。
そちらでの様子や彼女の人脈を見れば、調査の手掛かりになるかもしれない。
加えて、場合によっては一日くらい《レオン》がゼイルを離れる日を作った方が、誰かあぶり出せるかもしれない、とも考えている。
そうとは知らないシーラは紺色の瞳を丸くして、そこに天井からつり下がったランプの光が反射していた。
「レオンさん……それだけ聞くと、まるでデートのお誘いよ。」
「は、っ!?」
予想外の返しに、今度はユリウスがぎょっとする。
動揺する姿が珍しかったのか、からかっているのか、シーラはけらけらと笑った。
「あははは!もう、私はわかっているけどね?レオンさんの性格も事情も。ええ、でも気を付けた方がいいわ。ふふふっ。」
「…その、つもりは……まったく、なかった。すまない。」
「初心な少女時代ならドキッとしていたかも。相手を変えてやってみるのはいいんじゃない。」
つまり、奥さんに会えたらやってみなさいと言いたいらしい。
なんと返したものか、ユリウスは苦い顔で追加の水を飲んだ。心なしか、暑い。
「……俺の考えが浅かった。誤解のないよう、他に興味のある者がいれば誘っておこう。もちろん、案内役の依頼という事で謝礼も支払う。」
「ち、ちょっと。そこまで言うつもりはないわよ。」
マリアンネは働いているが、決して金に困っているわけではない。
けれど「そうはいかない」と首を横に振るレオンは聞く気がないようで、ハッとする。
彼にしてみれば、騎士である自分より料理屋の店員であるシーラの給金が低いのは当然なのだ。あまり固辞しても怪しいかもしれない。
「じゃあ…遠慮なく頂こうかしら。」
「ありがとう。……しまった。君もその、既婚者だったな。案内は時間的に無理があるか?」
「やだ、忘れてたの?覚えてて言ってるのかと思ったわ。」
「……すっかり頭から抜けていて、…申し訳ない。やめておくか」
「ただの案内でしょう?いいわよ、やましい事もないし。日取りの調整は必要だけど――そうだわ。宝露酒のボトル二本でどう?」
片肘をカウンターにつき、反対の手で指を二本立てる。
一本ならまだしも、二本だと平民には中々の値段だ。マリアンネとしても冗談のつもりで、きょとりと瞬いたレオンは「高いな」とでも言うだろうと思っていたのだが。
「……それは、ゼイルで売られた物を購入する、という事でいいか?」
「あ、当たり前でしょう!?ラ…他の街でいくらだと思ってるのよ!」
三角豚:比較的大人しく珍しくもない魔物だが、個体ごとに好みがあり、気に入らない食事を与えると狂暴化する性質のため畜産はできない。肉の味に個体差はない。角は背中に生える。