6.何も知らない常連さん
ディーデリックとレオンが振り返ると、そこにはなぜか料理屋キーヴィットの店員シーラがいた――なぜかと言っても、その手に握られたレオンのキーケースを見れば理由は明らかである。
「…シーラさん。すまない、それを届けに来てくれたのか。」
「あっ…はい。ごめんなさい、聞くつもりはなかったんだけど」
「こちらの落ち度だ。君は気にしなくていい」
一体どういう事かと混乱しながら、マリアンネは自分の方へ歩み寄ってくれたレオンにキーケースを渡した。
ちらとディーデリックを見やると、「あちゃー」という顔で頭を掻いている。今の話を他人に聞かせる気は勿論なかったのだろう。
「……ひとまず、口外しないと約束するわ。レオンさん、ご結婚されていたのね。」
「もし事実なら、俺も初耳だ。」
さらりと言ってのけるレオンを、マリアンネは困惑の眼差しで見つめた。
そこが一番混乱する点だ。
「え、ええ。そういう反応だったわね……でも、知らないって事、あるの?」
「普通はないと思う。」
顎に軽く手をかけて、レオンは普段と変わりない調子で言う。
まさか驚いていないのだろうか、ディーデリックによる微妙極まりない冗談だったのだろうか。マリアンネがそう考えてしまう程だ。
レオンの瞳がディーデリックを見やる。
「それで、一体何があってそういう結論に至ったんだ?」
「待て、待て。お嬢さんの前だぞ。」
「既に聞かれてしまったからな。」
聞かせるべきでない情報を隠しても経緯は話せるだろう、レオンはそう言っているようだ。
思案顔で腕組みをしたディーデリックは眉根を寄せ、指先で自分の腕をとんとんと叩いてから口を開く。
「……お前の親が、婚約者候補を探してるらしいって話はしたな。」
「ああ。」
「それがそのまま、候補の一人と婚約から結婚式まで済んだらしい。」
「俺がここにいるのに?」
「お前がここにいるのに。」
事実なら常識を逸脱している。
口元に手をかざしながら、マリアンネは開いた口が塞がらなかった。本人不在の結婚式とは一体。
夫に全然会っていないマリアンネだって、さすがに結婚式には――遅刻も遅刻だったが――顔を出されていた。
たった一人で祭壇までの道を歩かせる事は、相手への侮辱であり結婚の拒絶だ。
よほど急な用事なら、いっそ式を取りやめて別日に組むのが普通である。一人で歩かせるのはとんでもない恥をかかせる行為であり、破談の上で多額の賠償金を支払わされても文句は言えない。
とはいえ、レオンは平民だ。
相手が貴族という事もあるまいし、恐ろしい事態にはならない、かもしれない。しかし、なるかもしれない。
それはもう、相手の家によるだろう。
「か…仮に事実なら、お相手は相当気を悪くされたんじゃないの?破談でもおかしくないわよね。」
「だが結婚してると言うからには、そのまま式を終えたんだな?」
「俺が参列したわけじゃねぇけど、相手は今お前の実家に住んでるらしい。」
「初耳だな。」
「あぁくそっ、何で初耳なんだよ!」
「俺が聞きたい。」
それは、そうだろう。
マリアンネは同情の眼差しでレオンを見つめた。しかし見れば見るほど動揺がなく、失礼ながら「変な人…」という気持ちも湧いてきた。
良く言えば、とても冷静な人である。
――真面目なお方だと思っていたけれど、ちょっぴり天然なのかもしれないわね。
「レオンさんがこの街に来たのは一年ちょっと前よね。それ以前からお相手が心を寄せていた、とか?」
「あー、その可能性もあんのか?」
「そういえば、相手は誰だ?」
「今更な質問だな……。」
知らぬ間に結婚していたという衝撃が大きいので、相手について聞くのが遅れても仕方がないかもしれない。
さすがに個人情報だからだろう、ディーデリックはレオンに手振りして後方へ移動してから耳打ちした。
相手の名を聞いたのだろうレオンはいまいちピンとこない顔だったが、記憶を辿るようにこめかみに指先をあて、「ああ」と呟く。
「深窓の美姫と呼ばれているんだったか。俺とは面識は一切ないはずだ」
「ある奴の方が珍しいかもな。」
どうやらレオンの相手は美女らしい。
レオン自身、そばかすや日焼けは――貴族目線では――微妙なのだろうが、顔立ちそのものはとても整っている男性だ。相手もそう呼ばれるくらいの方がいいのだろう。
――深窓の美姫…こう言ってはなんだけど、平民の間でもそういう呼び名がついたりするのね。
「ディーデリック。」
「なんだよ」
「つまり……俺は本当に、結婚していたのか。」
「みたいだぞ。」
「ふむ」
仕事の報告でも聞くように頷いて、レオンはゆっくりと瞬いた。
「困るな。」
「…落ち着いて聞けとは言ったけどよ、落ち着き過ぎだ。」
「そうね。レオンさん、全然驚いたように見えないわ。」
「そうか?だいぶ驚いているし、非常に困ってる。俺は今ここを離れるわけにはいかないし、結婚をするなら顔合わせから交流、式まで、正式に手順を踏むべきだったと思う。」
「それはそうね」
「それはそうだな」
マリアンネとディーデリックの声が重なる。
レオン自身はそういう人なのだろうが、実際は彼がいないまま結婚式まで行われてしまったわけだ。
「なぜ俺抜きで話が進んだのか……父は少しばかり楽天的だから、やれると思ってしまったのかな。」
「ら、楽天的の一言で済むのかしら…。」
「急いで来た分、予定が押しまくってお前の家自体は寄れてなくてな。誰か結婚すると、本部の廊下に祝いの張り紙が出るだろ?あれで見て、まぁ五度見くらいして、騎士連中の噂だけ拾って伝えに来たってわけだ。」
「ありがとう。ディーデリック」
「いいよ。…そんで、俺が急いだ理由なんだが」
言いづらい事なのだろう、ディーデリックは苦い顔で頬を掻いてからレオンを見やった。
「嫁さん、お前が帰ってこないから部屋に籠って泣き暮らしてるらしい。」
「まずいな。」
「まずいわね。」
可哀想に、という言葉を続けて、マリアンネはつい片頬に手をあてた。
レオンの妻もまさか、夫が結婚の事実を知らないとは予想だにしていないだろう。意図的に拒絶されているという認識のはずだ。
「貴族じゃあるまいし、『誇りを傷付けられた』と胸を刃で突くような事はないと思うけど。」
「……そうだな。貴族ではあるまいし。」
「おう。貴族じゃないしな。」
世の中には色々な経緯の結婚があるものだと、マリアンネはため息をつく。
自分だって候補を選ぶ間もなく決められていたけれど、レオンもレオンで可哀想だ。彼自身に罪はなくとも、奥方は姿を見せない彼を恨んでいるかもしれない。
『お父様、あちらはどうしてわたくしを選んだのでしょう?』
『ああ、私がたまたま話す機会があってね。ユリウス殿も忙しく中々縁談が進まないとかで、年齢も近いしそれではという話になったんだ。』
――お父様は、たまたまユリウス様本人と話す機会があった。式にも一応来てはくださったし、私達は両者承諾の上の結婚ではある……のよね。
「俺が知らない以上、父親同士で話を決めたんだろう。」
レオンの何気ない言葉を聞いて、マリアンネは「ん?」と眉を顰めた。
考えてみれば、マリアンネの父は「ユリウス殿と話した」とは言っていない。あの言葉は、ユリウス本人でなくヴィンケル伯爵と話したのだという意味で捉えても通じる。
マリアンネの「あちらはどうしてわたくしを」はユリウス本人について聞いたつもりだった。
しかし父は、「あちら」をヴィンケル伯爵家そのものとして捉えたのではないか。
考え込みそうになって、今は関係ないと思考を切り替えた。
どの道、ユリウス・ヴィンケルは間違いなく式場に現われたのだから。
「事前に相談されたとして、家長の判断を蹴るほどの理由も特にない。時期だけは本当に困るが」
「……お前、それでいいのかよ。」
「相手にだいぶ無礼をしてしまってるから、最善ではないな。」
「そうじゃなくて、……はあ。」
諦めたようにため息をつき、ディーデリックはくしゃりと髪を掻き上げた。
少しの苛立ちも見えるその仕草に「何が言いたいのかしら」と考えたマリアンネは、とある噂を思い出してハッとする。
ここに偶然居合わせただけの自分が言う事ではないかもしれないが、レオンが後悔しないためだ。
胸元で小さく拳を握り、髪と同じ紺色の瞳にレオンを映す。
「本当にいいの?レオンさんは……その、想い人がいるのよね?」
「うん?」
「式が済んでしまったなら難しいかもしれないけど、想う人がいるなら…」
「ああ、それは大丈夫だ。想い人云々というのは、この男に教わった設定でしかないから」
「おいっ!」
「ええっ、そうなの?」
目を丸くするマリアンネに、レオンはあっさりと頷いた。
「……お嬢さん、今のは内緒だぜ?」
そう言って、ディーデリックは呆れた様子で首を横に振る。
マリアンネはぽかんとしていたけれど、こくこくと頷いた。なるほど確かに、レオンほどモテる男性には、上手く断るために嘘も必要だったのだろう。
何人もその言葉でフラれているのだから、嘘と知れたらレオンが刺されかねない。避けてみせそうだが。
「ともかく、俺には会ったこともない妻がいるんだな。」
「そういう事だ。できるなら一度帰って親父さん達と話をして、嫁さんに弁解してきた方が良いだろうよ。」
「ふむ……」
目を閉じたレオンの眉は顰められている。
二人の会話からして、恐らくレオンの故郷はゼイルの街から遠いのだろう。簡単に行き来ができないから訪問するなら時期が重要で、そしてレオンは魔物から人々を守る《ゼイル基地》に勤めている。
――ほんの数日ならまだしも、長期間休める職場だと聞いた覚えはないわね。
沈黙が流れていた。
話を聞いた限り、レオンが自分の妻となった女性に礼儀を通したかったのは本心だろう。今更もう遅い可能性もあるけれど、話をしに行った方が良い事もわかっているし、どういう状況だったのか父に事情を聞く必要もあるだろう。
しかし彼はどうしても、騎士の仕事を放棄する人間ではないのだ。
もどかしい気持ちについ、マリアンネは目を伏せた。
――…だいぶお困りのようね。場所によっては、移動距離の問題だけなら私の魔法で解決できるけれど……さすがに魔法は明かせないわ。
扉繋ぎの魔法は強力だ。
いくつか条件は付くものの、基本的には一度開けた事があれば繋ぐ扉同士の距離さえ問わない。
人でも物でも密輸でき、盗みでも誘拐でも暗殺にだって利用できる。たとえマリアンネがレオン達を善人と認識していても、知る人間は極力少ない方が良い。
「動けないのであれば……ひとまず、手紙で聞くしかないんじゃないかしら。」
マリアンネはそんな提案をしてみたが、相槌とも呻き声ともつかない返事をしたレオンとディーデリックの表情は険しいままだった。
――騎士団には、私的な手紙を制限する規則でもあるのかしら。
機密情報の漏洩などを防ぐ目的で、そういった事もありえるだろうかとマリアンネは考える。
まさかレオンが偽名であり、潜入先であるこちらでの住所と名を家族にも教えられない、などとは想像だにしていなかった。