4.自由気ままな結婚生活
数分しか花婿がいない結婚式。
誰も来ない上に、花嫁だって待ちやしない初夜から――二週間。
病弱なマリアンネに無理をさせる事なく、ヴィンケル伯爵邸では穏やかな時が流れていった。
相変わらずユリウスは不在だが、マリアンネはその不満を義理の家族にぶつけるような事はしない。諦めているのか、格下から嫁いだ病弱な身では仕方ないと考えているのか、それとも実は無関心であるのか。
その心は、ハラハラしている伯爵夫妻の目にも、罪悪感を抱える義妹ロッテの目にも、読み取れない。
けれどほんの時折、マリアンネは食事中にユリウスが座るべき席を見やる事があった。
何か思うところは間違いなくあるだろうその胸中は、いかがなものか。
――数分しか見る機会がなくて、顔も朧気になってきたわね。いきなり出くわして「どなたでしたっけ」なんてならないよう、肖像画か何かないのか聞いてみようかしら。
寂しいとかではまったくないマリアンネである。
そうとは知らないロッテは、少しでも気晴らしになればと彼女をよく庭へ誘った。前髪を編み込んだ長い金髪を少し指でいじり、勇気を出して口を開く。
「お義姉様。その、よろしければ庭でお茶を飲みませんか?」
「まぁ…お誘いありがとうございます、ロッテ様。ご一緒させて頂きますね。」
病の面倒だってみると啖呵を切っての結婚だったが、子爵家から聞いていた通り、マリアンネに特別な薬が必要という事もなく、見た目も美しい淑女である。
日焼けのない白く美しい肌に艶やかな浅緑色の髪、決して己を悲観していないとわかる眼差し。
痩せすぎず太りすぎず手足はすらりと長く、たとえ「病弱と噂ですが、実際は健康な娘です」と差し出されてもすぐにはわからなかっただろうと思える程だ。庭へ出るくらいはわけもない。
すぐにはわからなかっただろう…というのは、傍目は健康そうに見えていても、マリアンネの様子やはりどこか、か弱い者のそれだったのだ。
優雅で落ち着いていると言えば聞こえは良いが、転倒を恐れるように動作は緩く丁寧だ。食欲があまりないのか、食べる速度も人並みよりは遅かった。
――気を付けないと、ゼイルでの気楽な仕草が出てしまいそうだわ。特に食事は気を付けないとね。本当はもっとがっつきたいけれど、我慢、我慢…。よく噛んでゆっくり食べて、量が足りないなんて様子を出さず…。
マリアンネがそんな風に考えている事など、ヴィンケル伯爵家の者達に気付けるはずもなかった。
茶会でも食事でも、マリアンネが穏やかに微笑んで話を聞いてくれる度、ロッテの心には結婚式で彼女を騙した申し訳なさと、それを言えないもどかしさが積み重なっていく。
「お…お兄様が中々顔を出せなくて、ごめんなさい。本当にただ、忙しいようですの。」
「お気になさらないで、ロッテ様。ユリウス様がお忙しい事は承知で嫁いだ身なのです。わたくしは本当に、気にしておりませんから。」
――絶対、嘘だわ。
表面上は苦笑して頷きながら、気を取り直したように茶菓子を勧めながら。
ロッテの胸中は荒れ狂っている。心の中のロッテは腿を高く上げ、「絶対嘘じゃないの」と叫んでそこらを走り回っているのだ。
新婚の夫がろくに帰ってこない、忙しいといっても花やカードくらい最悪代筆でも送れるだろうに送ってこない、そんな状況で「忙しいだけ」は我ながら無理がある。
しかしそれ以外に説明しようがなく、事態の改善も図れないのだ。
ロッテ達家族でさえ、ユリウスの居場所を知らないのだから。
――誤魔化されてなどいないでしょうに、わたくしを気に掛けて誤魔化されたフリをしているのね。お義姉様はなんて健気なのかしら。病で苦しい時もあるでしょうに、明るく振舞って……。
きっと、マリアンネがユリウスに恋焦がれているという事はない。
そんな時間がなかったし、あの日どんな目で夫を見上げたか一番知っているのはロッテだ。恋する乙女の瞳ではなかった事だけは、確かである。
それでもロッテは、「政略結婚だから」「自分は病弱だから」と愛ある結婚を諦めてほしくなかった。
兄は女性関連に疎いけれど真面目で誠実な人柄だし、穏やかなマリアンネとなら、たとえ燃え盛る恋がなくても――あったらあったで、一人の乙女としては興味津々だが――、落ち着いた信頼関係を築いた夫婦になれるはずなのだ。
しかしそれを叶えるには、やはり制限時間があるだろう。
マリアンネからユリウスへの不信だって、表立って言わなくともこれからさらに、徐々に、確実に深まっていくはずである。
――ああ、いっそお義姉様が嫌な人ならよかったのに!それこそ、お兄様がこれだけ放っておいたって不思議じゃないくらいに。
「……そのように思いつめる事はないのですよ、ロッテ様。わかっております」
「お義姉様……?」
ふと、美しくもどこか達観した微笑みを浮かべたマリアンネに嫌な予感がする。
彼女の白く細い指先が、テーブルの上で軽く組まれて。
「病の身でもよいというのは、子を成せなくても問題が無いということ。そんなわたくしに会う時間が作れなくとも、不思議はありません」
「……ッスーーー…、お義姉様。えぇと」
とんでもない誤解があるようだが、マリアンネが選ばれたのは事情があるのだ。
ヴィンケル伯爵家が結婚相手探しを急いだ理由、最近見かけずとも未だ噂が残るユリウスの美貌をもってしても、縁談がまとまらなかった理由。
その事情を飲む家がろくになく、フランセン子爵家は飲んだ。
ならば逃がさぬとばかり伯爵家は婚約も結婚も急いた、それだけである。
いずれロッテが嫁いだらその子供を養子にとるという手もありはするため、マリアンネの予想がまったくの間違いというわけではない。
言われてみればそう誤解されても仕方ないと思うけれど、仮に死に掛けの重病患者ならさすがに選ばれなかった。
マリアンネの病が許容されたのは、血を吐いたりすぐ死に至るようなものではないからだ。
事情のことを考えれば、活発に動き回る女性より部屋にいる女性の方がよいと判断されたからでもある。
そして、ヴィンケル伯爵家はフランセン子爵家にその《事情》を伝えている――はずだ。
しかし今この場において、マリアンネの言葉を踏まえて、ロッテは「お義姉様は知っているのかしら」と疑念を抱いた。
もちろん承知の上だろうとすっかり思い込んでいたが、振り返ってみれば、改めて口に出して「知っておりますわよね」と聞いた事は勿論ない。失礼なので。
けれど万が一にも事情を聴いて「話が違うわ」と言い出されたら大変な事になる。フランセン子爵家の不和、子爵家と伯爵家の関係悪化、結婚は白紙?
どう返すか悩んだロッテは、「大丈夫」と言わんばかりの微笑みを見て口を閉じた。
「わたくしを妻にされたのは、何かしらのご事情があるのでしょう。置いて頂いている身ですもの、図々しい事を言うつもりもないのですよ。」
「…どうか誤解のないようこれは断言させて頂きますが、兄は、他の花を愛でているわけではありませんわ。」
そこだけは明らかにせねばならない。
ぱちりと瞬いたマリアンネを見て、ロッテは心の中で頭を抱え庭を転がった。義姉が嫌味で言ったわけではないとはっきりわかる。
マリアンネは心から、「ユリウス様にはどなたか、愛したけれど結婚が叶わない方がいらっしゃるのかも」と考え、まったくもってそれでよいという気持ちで微笑んだのだ。
――この状況で「早く会わせて」と泣き叫ばれてもほとほと困るけれど、お義姉様が冷静に判断される方であるがゆえに、お兄様に対する推測がとんでもない事に。
ロッテの実の兄であるユリウスを「愛人がいる男性」と邪推してしまったのだ、マリアンネは腹の前で手を揃え、丁重に頭を下げた。
浅緑色の髪がさらりと流れる。
「大変な失礼をお許しください。ひとえに、ユリウス様のお気持ちを尊重したかったのです。」
「わかっております。どうかお気になさらないで、誤解させてしまったのは完全にこちらのせいですもの。」
もしかすると、ユリウスに変身したロッテがつい「ごめんなさい」と口走ってしまったのも、誤解を加速させた一因かもしれない。
偽物との結婚式で、それを言う事すらできなくて、本当に申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。
それにしてもと、ロッテは考える。
病弱と聞いた当初は先入観で「気弱な方かもしれない」などと考えていたし、会ってからも幾度かマリアンネに儚い印象を抱いた事がある。
しかし腹心が一人しかいない状況でああ言ってのけるという事は、どうやら義姉は意外にもどっしり構えていられるタイプの女性らしい。
――…たまに天然なお兄様には、これくらい度量のある女性がぴったりなのかも。
ユリウスは良くも悪くも対応がさっぱりしている男なので、妻が気弱すぎれば泣かせるし、気が強過ぎては怒らせる可能性がある。
そうして本人は疑問符を浮かべ首を傾げるのだ。
もし妻と喧嘩になるようなら、何がどう不満なのかきちんと理論立てて伝えられる人が望ましいけれど、マリアンネならそれも問題がないように思う。
顔合わせで初めてマリアンネに会った両親は、その辺りも見抜いて選んだのだろう。たぶん。
案外、会えなくても気にしないという言葉も本心かもしれない。
それはそれでどうかしらと思うけれど。
「…お兄様が戻られたら、詳しい話をしてくださるはずですわ。」
これからのユリウスには妻が必要なのだ。
たとえ名目上だけになるとしても、屋敷に「女主人」を置かねばならないから。迫りくるだろう女達をかわすため、「妻がいる」と嘘偽りなく言える方が良いから。
問題は此度の結婚と同様に、その「事情」を綴った手紙もユリウスが読んでいないだろう事である。
詳しい話が必要なのは、ユリウスもマリアンネも同じだった。
◇
「未だに手紙の一つすら寄越さないとは……お嬢様の夫とはいえ、中々のものですね。」
「お忙しいのでしょ。気が楽でいいわ」
自室でプリスカと二人きり。
今日も紺色の髪のシーラになったマリアンネは、気にした風もなくあっさりと答えた。
手紙が寄越されようものなら妻として返事を書かねばならないので、来ない方が良いのは確かなのである。
「彼が帰ってこないお陰で、私は自由気ままにゼイルへ行けるのだもの。夫がいたら、夜に訪れがあるかもしれないでしょう?抜け出してるなんて知れたらどうなる事か。」
「ええ、今のままなら非常に都合が良いですね。」
「そうよ、むしろ感謝しなくては。普通の《次期伯爵夫人》には許されない贅沢だわ」
労働を贅沢と捉える貴族令嬢は中々いるものではないが、プリスカは賢いので黙って頷いた。
部屋の扉に向き直り、マリアンネは手をかざす。
「【これはかの地へ通じる扉。開きましょう】」
かちりと音がする。扉を開ければ、そこは見慣れたリビングだ。
ランタンを手に持てば、今日も来られたという喜びで胸が湧く。自然と笑みがこぼれ、ぐっと伸びをした。
「放置系の旦那様、最高!今日も行ってきます!」