3.深夜、ゼイル基地にて
家が見える場所までシーラを送り届け、ゼイル基地所属の騎士レオンは宿舎へと戻ってきた。
ロビーのベンチに腰掛けていた男が彼の帰還に気付き、軽く手を振って立ち上がる。
「散歩にしちゃ遅い時間だな。レオン」
「……来ていたのか。」
「おう。非番の日まで見回りか?」
気さくに笑いかけた男は茶髪をすっきりと短く整え、前髪は邪魔にならぬよう上げている。左のこめかみには古い切り傷があり、レオンより背が高く体格もがっしりとしていた。
二十六歳の彼はディーデリック、騎士団本部の情報統括局に所属するレオンの友人だ。
「偶然シーラさんに会えたから、共に食事をして話を聞いてきたんだ。」
「へぇ~、誘われたのか。乗るなんて珍しいな」
口に出すまでもなく、二人は同じ方向へと歩き出す。
各拠点を回るディーデリックがここへ寄ったなら、レオンの部屋で話していくのはいつもの事だ。
「いや、俺から言い出した。」
「は?…お前が誘ったのか?女を?……明日は大雨だな。」
わざとらしく肩をすくめたディーデリックに気分を害した様子もなく、レオンはゆらりと瞬いて記憶を辿る。
宣言通り酒は一杯だけ楽しんで、シーラ・クラインは酔っ払う事も、べたべたとレオンに絡んでくる事もなかった。
店員として働いている時と同じように明るく笑い、気さくに話し、美味しそうに幸せそうに食べていく。
それは実に気持ちのいい食いっぷりで、けれど下品な行儀の悪さはなく、一定の品があった。
笑う時の唇の形、カトラリーの扱い、口元を拭く仕草。
他の娘とどれほど違うかまではレオンには言い表せなかったが、時折見かけていたその姿に「根がきちんとした人なのだろう」と、多少なりと好感を持っていたのは確かだ。
「働いている時と変わらず、明るく素直な方だった。俺は人を笑わせるのが苦手だが、それでも楽しそうにしていたし。」
「おい、惚れたとか言うなよ?」
「食事をしただけで、なぜ色恋の話になるんだ。」
半ば呆れを含んだ声で言い、レオンは自室の鍵を開けた。
彼の後に続いて部屋へ入りながら、ディーデリックは「やれやれ」とばかりにため息をつく。
「お前って本当に……そのうち、逆恨みで殺されるぞ。」
「そんな事より、俺に何か用があるんだろう。」
レオンが椅子を勧めながら本題を促すと、ディーデリックは二度頷きながらごそごそと腰の後ろにつけたポーチを探った。
出てきたのは封筒――ではなく、折り畳んだ紙に封蝋をしたものだ。雑なやり方で既に差出人の想像はついたが、封蝋の印璽を触れて確かめる。見た目と実際の凹凸に差異はないようだ。
封を破って中を確かめる友人を、ディーデリックはテーブルに頬杖をついて眺める。用事とは別で拾ってきた噂もあったが、それにしてはレオンがあまりにいつも通りだ。
「なぁ、婚約の話って聞いてるか?」
「いよいよ身を固めるのか。おめでとう」
「俺じゃねぇよ!お前だ、お前。」
ディーデリックに指を差され、瞬いたレオンはようやく顔を上げた。
黄色い瞳はきょとんとしており、赤髪の上には大きな疑問符を浮かべている。上司からの手紙を畳みなおし、小首を傾げた。
「お前の助言通り、想い人がいるという設定にはしているが。」
「違う違う、実家の方だよ。お前の婚約話を進めたがってるって聞いたぜ。」
「俺の?」
「つっても、一ヶ月くらい前の話だけどな。」
他の拠点も寄ってから来たしと言って、ディーデリックは小さく欠伸をする。
レオンは訝しげに眉を顰めた。自分の婚約がどうのという話どころか、家族とはしばらく連絡も取っていない。当然だ。
ここにいるのは平民の騎士、レオン・エーヴェなのだから。
「お前が聞いてないなら、なんだかんだナシになったのか。」
「恐らくそうだと思う。第一、そんな話があっても困るな。今ここを離れるわけにはいかない」
「だよな……その後、運び屋については何か糸口掴めたのか?」
「気になる人物を虱潰しにあたっている。シーラ・クラインもその一人だが」
目を細め、レオンは顎に軽く手を添えた。
彼女はこの街と他の仕事場を行き来していると言うが、改めて考えればどこで働いているか誰も知らないし、乗合馬車の常連でもなさそうで、自分で馬を持っているわけでもない。
常連達も誰も気付いていないようだが、恐らくシーラは何か特殊な手段でゼイルの街に来ている。
それが魔法である可能性、なぜそうまでして料理屋キーヴィットで働いているのか、ゼイル基地の人間がよく訪れる店だからなのか、店への行き帰りで接触する人間はいるのか。
探ろうとした瞬間に「彼女しばらく休むのよ」と言われては余計に怪しんだものだが、今日のところは不審な点もなかった。
『美味しいっ!ああ、この味のために頑張ってるわ……!』
幸せそうな笑顔は、ついこちらも笑ってしまいそうな温かさで。
口角が上がりかけたレオンは小さく舌を噛む。この世には自覚のないまま悪事に手を染める者も、騙されてそうとは知らずに犯罪の片棒を担ぐ者もいるのだ。
騎士は平和を享受する民につられる事なく、気を引き締めていなければならない。
「…ともかく、縁談の顔合わせだの何だのがあっても行けるわけがない。仕事の放棄だけでなく、相手に無礼を働く事にもなる」
「ははっ。そんなふざけた男、どこのご令嬢も願い下げだわな。プライドが許さんだろ」
「で、物はどこにある?」
「こーれ。」
ディーデリックは上着のポケットから何かを取り出した。
手のひらに収まる小さな箱、リングケースだ。ぱかりと開いてテーブルに置かれたそれには、血のように赤い宝石が嵌まった指輪が納まっている。装飾は蛇を模しているようだ。
「手紙にあった指示通りに頼むぜ。」
「了解」
レオンは指の背で指輪に触れ、するりとなぞった。
目に見えている通り、蛇が大きな宝石を守る形をしている。静かに自身の魔力を練り上げながら、手紙に書かれていた指示を思い返す。
「【全てはまやかしに過ぎない】」
その一言で指輪からは蛇の装飾も宝石も消え去って、蔦模様が彫られたシルバーリングに変わっていた。それでもレオンの指には、先程と変わらぬ位置に金属の感触がある。
「流石、どう見てもただの指輪だな。」
「指定通りの時間で解けるようにしてある。あの人によろしく頼む」
「了解。」
幻惑の魔法。
これは見た目を誤魔化す事はできても、物質そのものを変化させる事はできない。
レオンの右目に触れても、眼帯などつけていないように。本当は目の形が少し異なっているように。
「じゃあまたな。帰ったら、ついでにお前の家の事ちょっと気にしてみるわ。大事な親友の将来にかかわる事だし。」
「ふっ……ただの野次馬じゃないのか?」
「バレたか。ははは」
「気を付けて帰れよ。ディーデリック」
ひらりと手を振った友人を見送り、レオンは部屋の扉を閉めた。
赤く見えている髪を掻き上げ、黄色く見えている瞳を壁掛け時計へ向ける。そばかすがあり日焼けしたように見える肌もまた、本来とは異なるものだ。
「……思えば、もう五年は顔を見ていないな。」
随分大きくなったのだろうかと、レオンはカーテンを開けて夜空を見上げた。
薄い雲の向こうには月が輝いている。
彼の魔法はあくまで見せかけであり、そのものを変える事はできない――妹と違って。
◇
沈黙が流れている。
ヴィンケル伯爵夫妻と十七歳の娘は、使用人を下げた書斎に三人で集まっていた。
応接用のローテーブルを挟んで伯爵と夫人が向かい合っており、母譲りの金髪が美しい娘ロッテは顔色が悪く、ハンカチを口元にあてている。夫人が心配そうにその背をさすり、夫へ目を向けた。
「ユリウスはどこにいるのかしら……まさか、もう一年以上宿舎に寄ってすらいないだなんて。」
「返信が来ない事にすっかり慣れていたが、挨拶もなしに長期任務についていたとはな。」
「っだから言ったじゃない!『都合が悪い場合は返信をくれ』なんて書き方じゃ、ダメだって……!」
ロッテは半泣きの声で訴えるが、伯爵は「だがなぁ…」などと渋い顔をしている。
マリアンネ・フランセン子爵令嬢との縁談も何もかも、伯爵はきちんと手紙に認めて息子へ送り、拒否されなかったのでそのまま進めていた。
顔合わせの日も、婚約式の日も、結婚式当日も。
真面目な息子が来ない事自体がおかしいので、本当に重大な仕事が入ってしまったのだろうと慌ててフォローしたのだ。
『申し訳ありません、ユリウスは急な仕事が入ったようで』
きっとそうだろうと思って。
『その、『会議が長引いており行けません』と……花束も一緒に』
花も用意して。
『すべてマリアンネ嬢の意向に沿いたいという事で…』
元より文句は言わぬだろうと考えて。
「さすがに結婚式は来ると思ったんだが…」
「来なくて当たり前だわ!どうするのお父様、お兄様は自分が結婚したどころか、婚約者ができていた事すら知らないのよ!?」
「むうぅ……婚約式の時点で、私もいっそ破談になるのではと思ったが。マリアンネ嬢が許しているというのに、こちらから断る事もできないだろう。」
「挙句が義妹との結婚式じゃ、お義姉様が可哀想だわ!」
父兄と同じ水色の瞳を涙で潤ませ、ロッテはくしゃりと顔を歪めた。
初めて見る夫の姿に戸惑いを隠せない、困惑したマリアンネの表情をはっきりと覚えている。
『――…ユリウス様、ですか?』
『はあっ、はぁっ……遅れて、申し訳ありません。』
変身の魔法。
ロッテ・ヴィンケルは強く記憶している人物に限り、肉体を再現する事ができる。ただし、十分間だけ。
あの時マリアンネの元に駆け付けたのはユリウス本人ではなく、最後に見た兄を、十九歳のユリウスを再現したロッテだったのだ。
兄のために用意されたタキシードに着替えて、使い慣れない体でどうにかエスコートをして。
マリアンネに、一人で歩かされた花嫁という屈辱を与えないために。
ヴィンケル伯爵家に、後継ぎが結婚式に来ない非常識な家という汚名を着せないために。
「お義姉様とは仲良くしたいのに、わたくしもう一生、絶対に言えない罪を抱える事になってしまって。うう……っ」
「ごめんなさい、ロッテ。ああするしかなかったのよ…」
「わかるわ、わかるけれどっ……!せっかくの結婚式が、誓いが……あんまりだわ……」
ぐっと声を詰まらせ、ロッテは母にしがみついて泣き出した。
伯爵は眉間の皺を指で押さえて頭を横に振る。
「こうなれば何としても、ユリウスがマリアンネ嬢と会う前に話をしなければ。うっかり戻ってきて『君は誰だ』などと言った暁には、辻褄が合わなくなってしまう。」
「でも、ずっと帰ってこなかったらそれもどうするの?マリアンネさんが放っておかれる事に…」
「わたくしがお兄様のフリをするのはもうイヤよ!絶対絶対、もうしませんからっ!」
「……う~むむ…」