2.扉を開けて抜け出して
反応に困る結婚式だった――けれど、私にとっては悪くない。
あの後ユリウス様が去った事を皆に伝え、私自身そろそろ体力がもたないと言って式を終わらせた。
夜になった今は、ヴィンケル伯爵邸で与えられた部屋でくつろいでいる。疲れてしまい早めに休んだという設定なので、部屋の明かりは最低限の蝋燭だ。
「結婚初夜という事になるけれど、ふふ。誰も来ないって安心感があるわね。」
「はい、旦那様がまだお戻りでない事は確かです。」
貴族令嬢が嫁入りする時は、信頼できる使用人を連れていくもの。私はもちろん専属侍女のプリスカを選んだ。
私より七つ年上の彼女は、いつも紺色の前髪をきっちりと切り揃え、後ろはくるりと巻いてバレッタで留めている。
長年私に協力してくれている頼もしい味方だ。
「元より、現在住まわれているのは別邸だとは聞いておりますが……」
「《仕事部屋》ね。騎士団の宿舎ほど狭くないけれど、妻を迎える造りではない家。」
ユリウス・ヴィンケル様は騎士団に勤めている。
各地にある拠点を飛び回るような仕事が主らしく、それで不在が多いのだと伯爵様から説明を受けた。
「ご不在で結構だわ。最初くらい話し合いましょうと思っていたけれど、できないならできないで構わない。」
伯爵家の方々は最初から親切だったけれど、ユリウス様の態度がよろしくないと同情的になり、今や申し訳なさを感じているようだった。私が「部屋で過ごしたい」と疲れた笑顔で伝えれば、強く止めたり強引に入室する事は今後もできないでしょう。
本当はまったく元気だし、ユリウス様がいない事も気にしてないから、ほんの少し気が引けるけれど。私には私の目的があるのだ。
目を細めたプリスカが口角を上げる。
「お嬢様。今宵は街へ行かれますか?」
「ええ。交渉相手がいない以上、好きにしたっていいでしょう。お腹もすいたし、向こうで食べてくるわ。」
「それでは魔法を――【あなたは別の色が似合う】。」
片手の人差し指と中指を揃えて、プリスカは私を指し示した。
全身鏡の前へ立ってみれば、お母様譲りの浅緑色の髪と瞳がすっかり紺色に変わっている。プリスカと同じ色ね。
この世には《魔法》と呼ばれる不思議な力があり、それは誰もが使えるわけではない。
素質のあるなしに血筋は関係なく、強力な魔法が使えると判明した平民が急に稼ぎ出すような事も珍しくなかった。
これまでどんな魔法が確認されたかは国が調査してある程度まとめているけれど、それが過去に存在した全てではない。
調査から漏れた人や、公にしていない人もいるでしょう――私のように。
私の侍女プリスカ・ホルテルが使うのは色変えの魔法。
物質だろうと生物だろうと、目の前にあるものの色を塗りかえられる。さすがに永遠ではないけれど、半日以上は余裕でもつのだ。
私はドレスを脱いで、動きやすい安物のシャツとズボンに着替えた。見た目が薄汚れたブーツを履いて、化粧は薄くして、長い髪は団子にまとめ上げてもらう。
店に置いてあるエプロンが足りないけれど、これでおおむね、料理屋キーヴィットの店員シーラの出来上がりだ。
気分が上がってつい、鏡の前でくるりと回る。
「ああ、久し振りのこの姿……なんて気が楽なの。心が解放されるわ」
「どうかお気をつけくださいね。警戒はお忘れなく」
「もちろんよ。いざという時は貴女直伝の護身術を披露するから」
マリアンネ・フランセンには許されない、にやりとした笑い方。
お母様やお姉様が見たら「可愛いけれどおやめなさい」と言われる事でしょう。プリスカはくいと口角を上げ、火が入ったカンテラを渡してくれる。
「それでは、お戻りをお待ちしております。行ってらっしゃいませ」
「ええ、行ってきます」
部屋の扉に向き直り、右手に魔力を込めた。
繋げるべき光景を脳裏にしっかりと思い浮かべ、手をかざす。
「【これはかの地へ通じる扉。開きましょう】」
かちりと、鍵が開く音が聞こえる。
ドアノブを回して押し開けば、そこは伯爵邸の廊下ではなく小さなリビングキッチンに繋がっていた。
扉繋ぎの魔法。
私は目の前にある扉を、一度でも自分で開けた事のある扉と繋ぐ事ができる。
ゆえに、とても容易く行けるのである。
伯爵邸のある王都ラグアルドから数十キロ以上離れた、辺境の地であろうとも。
シーラとして借りた一軒家は小さいので、扉を閉めても、カンテラの明かり一つで部屋全体をある程度把握できた。
買った時についてきた二人用のテーブルセット、隅に置かれた簡単な掃除道具に、古びたクローゼットの中には十着もない。
夜に女性が一人で出歩くのだから、きちんとローブを着てある程度体型を隠した。財布にお金が入ってる事も確認して。
「…よし、行きますか。」
皆、元気にしているかしら。
下手をするともう一週間は顔を出せないかもと伝えていたから、私が来たら驚くでしょうね。
閉め切っていたカーテンをめくると、近場に点在する明かりのついた民家の先、少し遠くに賑やかな街の光が見えた。
街の名はゼイル。
西方の外れに魔物達が棲む危険な森があるけれど、手前に騎士団の基地が建ってからは魔物による被害もほとんどないと聞く。
騎士の方々は時間帯ごとに代わる代わる警備をしてくれていて、休日や休憩時間の人は美味しい食事やお酒を求め、よくゼイルの街にやってくるのだ。
「シーラさん?」
今の名を呼ばれて振り返ると、一人の男性がこちらへ歩いてくるところだった。声から予想した通りの人。
つい笑顔になって軽く手を振る。
「レオンさん!こんばんは。」
「こんばんは…」
黄色の瞳を少し丸くしているレオンさんは騎士団の小隊長で、店によく来る常連さんだ。
彼はちょっと日焼けしていて、頬にはそばかす、赤い髪は襟足で一つに結い、右目に黒い眼帯をしている。歳は確か二十六歳。
非番なのか仕事終わりなのか、今日は私服なのね。それでも腰に剣を携えているあたり、真面目なこの方らしい。
「他の勤め先の都合でしばらくいないと聞いていたが、今日から戻るのか?」
「まだ先よ、でも早めに復帰できそうだからそれを伝えに。」
「そうか…皆喜ぶだろうな。」
自然と並んで歩き出した彼は、街まで一緒に行ってくださるらしい。
元からレオンさんも街へ向かっていたようだし、今更別れて行くのも変だものね。
「レオンさんはこれからお食事?」
「ああ。君は?まだならご馳走しようか」
「まぁ。いいんですか小隊長様?」
私は貴族ではなく生活のために懸命に働く民なので、目を輝かせて反応する。
レオンさんは「任せてくれ」と笑ってくれた。この笑顔に何人の女性がやられたか知れない。想い人がいるとかで、全員振られたそうだけど。
貴方が女性を誘うとはなんて珍しい――すなわち、私がまるきり女性として見られていないからできる事ね。
いつも部下の方々と一緒だから、店で合流するところなのかもしれない。
「いらっしゃいませー!って、シーラちゃんじゃないの!」
「おお、シーラ!もうこっちに来て平気なのかい?」
料理屋を営むキーヴィット夫妻は明るい人で、私の姿を見て満面の笑みを浮かべてくれた。
店内にちらほら見える常連さん達も手を上げてくれて、湧き上がる気持ちのままに私も笑う。
「ふふ、こんばんは!まだなんだけど、早めに戻れそうだったからそれを伝えに。」
「あらあら、それは嬉しいけど…あんたってばもうっ、レオンさんと一緒に…!」
「偶然会ってね、ご馳走してくれるんですって。」
なにやらはしゃいで私の腕でも叩きそうなおかみさんに、そういう雰囲気の話じゃないのよと照れも何もなくサッパリと返してみせる。
明らかにがっかりした顔をされた。
「……そう?あんたが鈍いだけじゃなくて?せっかくの美男美女じゃない。」
「褒めてくれて嬉しいけど、そういうのは駄目よ。あちらを困らせるでしょう?」
「わかったよ…」
傍からすると何か「可能性」が見えるのでしょうけど、私はこの度既婚者になったし、元より身分を隠した貴族令嬢だ。対するレオンさんは平民の騎士。
何も始まらないし、始まってはならない。
「シーラさん、こっちに。」
「はい!」
レオンさんが席を取ってくれたようだ。
意外にも二人席で、どうやら他の方が来る予定もないみたい。大丈夫かしら?口元をハッと押さえたおかみさんはまた、何か期待し始めている気がする。
心なしか常連さん達の生暖かい視線もチラチラ感じるし……そのうち、私も旦那ができたのよって言っておいた方が無難かもしれないわね。
ただユリウス様の為人がろくにわからないから、その話題を根掘り葉掘り問い詰められても困る。適当に話したらいずれボロが出るでしょうし……そのうち考えなければ。
それぞれ注文を終えて、私は水の入ったグラスをくいっとあおった。
気楽な服装に着替えたとはいえ、遅刻した旦那様の不思議な態度、微妙な顔の両親と姉、申し訳なさそうな伯爵夫妻に、体調を崩したという義妹のロッテ様……やっぱり、疲れる日ではあったわね。
グラスを置いて視線を上げると、レオンさんは申し訳なさそうに眉尻を下げていた。
「いきなり声をかけてすまなかった。」
「全然!それは気にしないで。今はまったく別の事を考」
「会いたいと思っていたら、本当に君がいたから…」
んっ?
何と仰ったのかしら、このお方は。辛うじて笑顔は保っているものの、背中を冷や汗が伝っていく。
真剣な表情のレオンさんから目をそらし、こほんと空咳をした。
「そうなのね。私に何か、聞きたい事でも?」
「ああ。普段見かけない者達が街に来ていたから、他所と行き来するシーラさんなら、何か知らないかと。」
「なるほど!」
――…あっっっぶないわね!!!
なんて危険な人…冷静な対応ができてよかった。
一瞬、もしそういう意味で好かれてしまったのなら、どうすれば今まで通り客と店員でいられるのかしらとまで考えて。
申し訳ないけれど何も知らないという旨を伝えながら、ひっそりと心を落ち着かせる。
この方はこうやって、無意識に街の娘達を落としてきたのかもしれない。
「後は単に、会えて嬉しかったのも本当だ。」
「…私も嬉しかったわ。レオンさんは兄のような方だもの」
「兄か。頼りになるという意味で言ってくれているなら、騎士として襟を正さねばならないな。」
「真面目ねぇ。」
やはり恋愛の意味など微塵も込めていなかったらしい。
この方、いつか無自覚のまま女性に刺されるのでは?もちろん体術の心得はあるでしょうけれど。
「お待たせしました!」
料理が運ばれてきて、食欲をそそるスパイスの香りに思わず素で笑みがこぼれた。
屋敷でとる食事も美味しいけれど、細かいマナーを気にせずかぶりついていいお肉の、美味しいこと!想像するだけでますますお腹が減って、今にも鳴ってしまいそう。
「とりあえず食べましょう。…って、私が奢って頂く立場だけど。」
「ああ、金は気にせず楽しんでくれたらいい。いただきます」
「いただきますっ!」
誰かの笑い声があちこちから聞こえる。
元気なおかみさん達の声、友人に愚痴を聞いてもらってる人もいれば、いつも泣き上戸さんの声もするし、外を歩く人々の声や足音、客引きの声に乾杯の声。
色んな人がいる中で幸せな味を頬張って、味わって、冷たい水でぐっと流し込む――…これよ。これなのよ。
今日はここで働いたわけじゃないけど、疲れはしっかり溜まってるから……効くわね。
「美味しいっ!ああ、この味のために頑張ってるわ……!」
「いつ見てもいい食べっぷりだ。酒は?」
「そこまで甘えていいのかしら。じゃあ一杯だけ!」
「俺も一杯だけ。」
届いたグラスをかちりと合わせ、私は上機嫌でお気に入りの果実酒を喉へ流した。