1.あまりに忙しい旦那様
部屋のカーテンは開かれて、窓ガラス越しによく晴れた空が見える。
木の葉を揺らす風も吹いているようで、ああ、こんな日は外を歩いてめいっぱい伸びをしたい。草花の香りを吸い込んで、日の光を浴びて、大きく息を吐き出して。
身を起こしたベッドの上でそんな事を考えながら、長い浅緑色の髪を片耳にかける。同じ色の瞳をベッドサイドの椅子に腰かける二人へ向けて。
私ったら聞き間違いをしたかもしれないわ、今。
「もう一度よろしいでしょうか、お父様?」
「ああ。マリアンネ、お前とぜひ結婚したいという方が現れたよ!」
「体が弱くても支えると仰ってくれているそうなの、よかったわね!」
ニコニコと嬉しそうな両親に手を握られ、私はニコニコと笑顔を返していた。
何を言っているのかしら、一体。
「……聞き違いでしょうか?ろくに部屋を出られないわたくしが結婚なんて。」
「聞き違いなものか、お相手はヴィンケル伯爵家のユリウス殿だ。」
「まぁ、お会いした事があったかしら。」
「もう十九歳になったのにどうしましょうと思っていたけれど、ようやく…!本当によかったわ、マリアンネ!女性の一番の幸せは結婚だもの!」
私の質問は聞こえなかったのかしら。誰なの、ユリウス殿。
涙ぐむほど喜んでいるらしい両親は互いに顔を見合わせ、ひしと抱きしめ合っている。娘の部屋でやらないでほしい。
「メリッサとミーケはすぐ婚約したのに、貴女だけ夜会や茶会の度に具合が悪くて。縁談を繋いでもその度にお腹や頭が痛くなってしまったでしょう?お相手探しも難航して、わたくしがどれほど心配していたか。」
私を含め、フランセン子爵家の子供は三姉妹。
一番上のメリッサ姉様と次女のミーケ姉様は、どちらもお母様に似てお淑やかで気立てが良くて、茶会に出ればあっという間に男女問わずファンが集まるような人達だ。
反対に私は「淑女」を維持するのが苦手で、作法は叩きこまれたものの、根っから「淑女」が染みついているお姉様達とは比べるべくもない。
庭で花を愛でるお姉様達、横を走り抜けて木の棒で芋虫をつつきに行く私、そんな幼女時代を過ごした結果の今である。
姉二人と「淑女度」を比べられる会合はウンザリで、毎度何やかや理由をつけて欠席していた。
「昔は元気が良すぎるくらいに活発な子だったのに、いつしか外へも出なくなって……ううっ!」
お母様がハンカチで目元を覆い、お父様が肩に手を添えている。
外へ出なくなったのではなく、叱られるからこっそり抜け出して遊ぶようになっただけなのだけどね。お姉様達みたいにずっとお淑やかに過ごすのは、私にとっては窮屈で仕方がなくて。
侍女のプリスカに協力してもらって、別人として街の料理屋で働いたりしている――…本当に内緒だけど。
「具合が悪くなるのも、お医者様は原因不明だと言うし」
だって仮病だもの。
正直、私の肌艶を見ればわかりそうなものだけど……お父様もお母様も愛が強過ぎて、かつ私が夜会や茶会に行きたくないなんて信じられないみたいで、嘘を吐くなんて考えもしない。
最初の頃は存在していた罪悪感も、最早呆れの領域に片足を突っ込んでいた。
「『大丈夫』と笑う貴女がどうか、幸せな結婚ができますようにって、わたくし…!」
家族仲は良いし悪い人達じゃないんだけど、ちょっとふわふわしているというか、私と感覚が違うというか。
こういう両親だから、いずれ必ず私を嫁に出すだろうとは思っていたものの……もう、その時が来てしまったのね。
「顔合わせは次の金曜日、婚約を結ぶのは来週で、式の日取りが…」
とんでもない早さで話が進んでいる。
体が弱いという事を前提に娶るつもりだなんて、ユリウス・ヴィンケル伯爵令息……彼はどういう企みがあってそんな事を?
ただのお人好しか、あるいは結婚できない恋人がいるのかしら。
私をお飾りにして子供はその方とお望み、とか?書類だけの結婚ですっかり自由にさせてくれるなら、アリかもしれないけれど。
以前酔っ払ったお客さんが言っていた、「儚げな病弱美人を付きっきりでお世話したい」みたいな癖の持ち主だったら困るわね。私も相手も。
「お父様、あちらはどうしてわたくしを選んだのでしょう?」
「ああ、私がたまたま話す機会があってね。ユリウス殿も忙しく中々縁談が進まないとかで、年齢も近いしそれではという話になったんだ。」
これはまた……完全に適当に選ばれただけのようね。
顔合わせの時にでも、私に対してどれくらい望まれるのか聞いてみようかしら。相手の出方をよく見ないといけないけれど。
「ユリウス殿はとても格好良くて、縁談の申し込み自体はすごい数がくるほどらしいわ~!」
「仕事ぶりも真面目だと人伝に聞いていてね。優秀な部下がいるそうだから、伯爵夫人となってもお前の補佐をしてくれる者がいるというわけだ」
「素敵ですわね…」
そんな優良物件が「忙しい」を理由に縁談が進まなくて今は進んでいるなら、何か裏がありそう。
やはり愛人かしら?引く手数多で適当に選べばいいだけなら、幾らでもできたはずよね。体が弱い事を建前として、愛人に構うべく私を放置してくれるかもしれない。
女としてのプライド?そんなものはない。
予想が正しいのなら、私にとってユリウス・ヴィンケル様は愛する人ではなく、隠れ蓑を作り支える人だ。どこまで正直に話して良いお方かは不明だけど、場合によってはお互い都合の良い相手になるでしょう。
最悪、離婚したら傷心を理由に領地へ引きこもろうかしら。
そうなったっていい。
――…私が魔法を使える事は、知らないはず。それが目的だとは思えない。
「素晴らしいお話をありがとうございます、お父様。」
「寂しい気持ちもあるが、ようやく晴れ姿を見られるんだな…!」
「立派なウェディングドレスを仕立てましょう、マリアンネ!」
ただひたすらに美しい庭園で生きるような両親に微笑みを返し、私は部屋の隅にいる紺色の髪の侍女へ一瞬だけ視線を送る。
――嫁入りですって、プリスカ。ついて来てくれる?
小さく頷いてくれた彼女にほっとして、私は仕事先の料理店を思い浮かべた。
式の打ち合わせとかでお母様がこまめに部屋へ来そうだし、出勤日を減らすかしばらくお休みをもらうしかないわね。
まずは数日後の顔合わせ。
ユリウス・ヴィンケル様、彼がどんなつもりでいるか聞き出すためには、二人きりの時間を作ってもらうしか――…なんて、構えていたら。
「申し訳ありません、ユリウスは急な仕事が入ったようで」
顔合わせには来ない。
「その、『会議が長引いており行けません』と……花束も一緒に」
それぞれの両親と共に揃って食事をする慣わしの婚約式にも来ない。
「すべてマリアンネ嬢の意向に沿いたいという事で…」
式の打ち合わせにも来ない。
内心、もはや盛り上がってきた私である。
これぐらいで音を上げるならやめておけ、とでも言われている気分ね。お父様達は困惑しきりの表情で顔を見合わせている。
「忙しいと聞いてはいたが、さすがに失礼ではないか?向こうが格上なのはわかっているが…」
「あなた、ヴィンケル伯に念を押した方が良いのではなくて?マリアンネも不安に、」
「いいえ。お父様、お母様」
私は落ち着いた声で平静に、慈愛そのもののような微笑みを浮かべた。
いいではありませんか、現れない夫。
「真面目なお方だからこそ、仕事を捨て置くという事ができないのでしょう。わたくし、式はこちらの意向に沿いたいというお言葉にユリウス様の優しいお心を見ました。ぜひこのまま、彼に嫁ぎたいと思います。」
「マリアンネ、なんて健気な……!」
「優しいのはお前の方だ、立派な淑女になって……!」
私の両親、ちょろすぎるのではないかしら。
…おっと、「ちょろい」なんて市井の言葉は気を付けないといけないわね。心の声に留めないと。
どうにもやはり、ユリウス様は事情があって仕方なく私を娶るのでしょう。
式に来るかも怪しい気配がするけれど、それはさすがにお父様達もお許しにならない可能性がある。
最低限、結婚式当日だけは現れてほしい……さて、どうなるかしら。
病弱な私が倒れて騒ぎになるといけないからと、参列者は最低限に。
フランセン子爵家は両親と、どうしても来たいと言った姉二人。
ヴィンケル伯爵家の義両親と、義妹になるロッテ様。彼女は花盛りの十六歳で愛らしく、けれど挨拶した時から表情が強張っていた。
かち、かちと時計の針が進む。
すっかり着飾った私を家族が涙ぐんで褒めそやし、ちょっと照れくさい。ユリウス様は現れない。
時間が迫ってきた中で、「娘は体調不良で欠席する」とヴィンケル伯爵夫妻が申し訳なさそうに伝えてきた。兄を慕うあまり緊張が限界に達したのだろうと。
この大事な日に兄が現れない事実に耐えられなかったのかしら。
たとえ来なくても泣くような私ではないから、ロッテ様がそこまで気負う必要はないのだけど。
「――時間だわ。」
参列者達は先に式場で着席しているものだ。
護衛でもある侍女のプリスカを伴い、表情の険しい式場の案内人に先導されて廊下を進む。
この国において、祭壇までの道は新郎新婦が揃って歩く。
それを一人で歩かせるとは。
放置は歓迎するけれど、度を越すようなら困ったものね。もし見下されているのなら、今後にも支障がありそうだし。
家同士の事も考えられないような人なのかしら?
そんな事を考えていると、誰かが駆けてくる足音がした。
「――…ユリウス様、ですか?」
「はあっ、はぁっ……遅れて、申し訳ありません。」
走ったせいだろう、青紫色の短髪は少しセットが崩れてしまっている。
ご両親と妹君を見て美形の噂も納得していたけれど、実物を見ると確かに美しい。二十四歳にしては面立ちが若々しく、私と同い年と言われても違和感がない。
切れ長の目に澄んだ水色の瞳、体を鍛えているだろう事がタキシードの上からでも想像できた。
何を言うべきかしら。
初めまして?それとも、今は式を済ませましょう?
私が口を開くか開かないかのうちに、彼は唇を引き結んで私の腕を掴んだ。
「痛っ!」
「す、すみません!力加減がわからなくて――っも、申し訳ないが、時間がない。行きましょう」
「…そうですね。」
今度は力加減が弱すぎるユリウス様は、どうやら自分の腕に手を添えさせてエスコートの形を取りたいらしい。式の手順ではある。
なぜそんなにおっかなびっくりしているのかしら。強気に放置してきた人とは思えない。
「新郎新婦、ご入場です!」
拍手と安堵の歓声に迎えられながら、私は歩幅の違いもわからないらしいユリウス様に合わせてせっせと歩いた。
女性におモテになると聞いていたけれど、この方もしかして、ろくにエスコートした事がない?でも、そんな事があるかしら。
このレベルで女性経験がないなら、愛人の可能性は……。
「新郎ユリウス・ヴィンケル、新婦マリアンネ・フランセンよ。そなたらはどんな時も互いを敬い、慈しみ、愛する事を誓いますか?」
「…っかいます」
「誓います。」
どもったわね、今。
あれだけ放っておいてこんなに緊張されると、こちらもどういう態度でいればいいかわからない。この方は何を考えているの?
「では、誓いの口付けを。」
神父が言うが早いか、ユリウス様は迷いなく私の手を取った。
どこに口付けるかは決められていないから、では私も同じように致しましょう。彼が僅かに震えながら私の手の甲に軽く口付け、私も彼の手の甲に軽く唇を触れさせる。紅の跡が残っても困るでしょうから、ほんの微かに。
「……ごめんなさい」
ほとんど吐息のような掠れた声に視線を上げると、ユリウス様は真っ青になっていた。
どうしたのですかと問う前に、私の手を引いて歩き出す。転んではたまらないので慌てて足を踏み出した。目を丸くするお父様達をそのままに廊下へ出て、彼は即座に扉を閉じる。
「ユリウ――」
「仕事がっ、すみません!」
若干つんのめりながらユリウス様は走り去り、後に残された私はぱちりと瞬く。
ひとまず……「旦那様はお忙しいようです」と笑っておくべきかしら?