第2章 仕える者に、なりたくなくて(2)
「行ってきます」
「行ってらっしゃい! お気をつけて!」
普段なら無言で出ていくはずなのに、挨拶をして、しかもそれに返事があるというのは奇妙な感じだ。
手を振るミカに小さく振り返して、私は早くもじりじりと暑い日差しの下へ追いやられる。
高校までは、ここから駅まで昨晩と同じ道のりを歩き、電車に乗ってすぐに降り、また駅から少し歩く。頑張れば自転車で通えなくもない距離だけれど、そうしてみたことは一度もない。
「ふぅ……」
朝から疲れている。
ミカが来たこともあるけれど、そうでなくても漫然と疲れているのであまり変わらないような気もする。
ふらふらと歩き、住宅街を抜けてミカの立っていた踏切の前を通り過ぎる。ミカはもう私の部屋にいるので、今朝は誰も立っていない。
……ぼーっと見ていると警報音が鳴り出し、赤い光の明滅とともにゆっくりと遮断桿が降りていった。私の向かう先からやって来た列車が、がたんごとんと通り過ぎる前に私は再び歩き始める。
ずっと立っていたらそれこそ誤解されてしまうから――。
朝の道路は人も車も多くて、昨日の夜が嘘みたいだ。ミカみたいなことをしようものなら、すぐに警察が呼ばれるだろう。
ちょうど寂しい駅前の片隅に交番があり、今もお巡りさんがひとり立って目を光らせている。……多分一時停止の取り締まりかな。車はみんな交番前の横断歩道でだけ恭しく止まるのだ。
そんな交番とお巡りさんの前を少女誘拐の犯人は何のやましいところもないという表情で通り過ぎ、駅の階段をよたよたと上る。まるでおばあさんみたいだけれど、おばあさんはたいてい我先にとエレベーターへ押し込まれてゆくものだから、もしかすると階段を上る人の中ではいちばん足元が覚束ないかもしれない。
……ふっ、ひぃ、と掠れた息を漏らして、こんなに虚弱だったかなと自分のことながら疑わしく思う。
いくら運動しないとはいっても、高校生の肉体は人生のピークであるはずなのに。
流石に何か運動をするべきかと、改札を抜けて、せっかく上った階段をホームに向かって下りながら考える。でも最初から迷うくらいの意志なのだから、少なくとも継続するのは無理だろうなと思った。
私の友人にも運動部に入っている子はいないし、類は友を呼ぶのかもしれない。……そもそも運動部どころか部活自体してない子が多い気がする。私を含め。
だから無理することなくこうして機械の足で通学しているし、今後もそうする。
ホームに自動音声の放送が流れると、まもなくして憂鬱たちで混雑している列車が入ってきた。
「――おっはよ〜、瑠璃!」
「おはよう、ひわ」
……扉の向こうで待ち構えていたのは、私と同じ制服を着た少女。
背が低くて、華奢で、つまるところ私とミカと同じような体格をしている。
髪は赤みがかっており、本人曰く地毛らしい。担任の先生は何も言ってこないけれど、染めていても何も言わなさそうな人だから本当のところはわからない。
「今朝も今朝とて気怠げだね〜」
「……いきなりご挨拶な」
「じゃあ元気なの?」
「元気ではないけど」
「ならあってるじゃん!!」
ぷうと頬を膨らませて、通学鞄を背負ったひわに詰め寄られる。私がだるだるなのは事実として、こちらは朝から威勢が良過ぎる。
腕を伸ばして追いやって、冷房の入っていない生温い車内にため息をついた。
「いいのかな? ひわをこんな邪険に扱って〜?」
「どうなるっていうの」
「うーん、電車の中ではあんまり色々出来ないもんね……。降りたら覚えていたまえ!」
「ひわの方こそ忘れそうだけど。三歩歩いたらなんとやら、でしょ」
「むっ。それなら三歩歩く前に復讐すればいいだけのこと!」
……ひわは成績もいいのだから、そもそも鳥頭なわけないのだけれど。そこは否定しないのがひわらしいなと思った。
「……冗談はいいとして、今日はひわも憂鬱だよ〜。なんだってボランティアなんてやらなくちゃならないのさ!」
「まだ確定ではないんだから、逃れようよ。どうにかして」
「そうだね。是が非でも逃れよう! 意地でも逃げよう!!」
やってやる! という意志を漲らせて、ひわは車窓の向こうを睨めつける。
私も大概だけれど楽をすることに対する熱意はひわの方がより強い。
「むしろ去年までは誰かしらいたんだね。立候補する人。……普通はいるのかな」
「普通はいるんだろうね〜。馬鹿にする気は全然ないけどさー」
――でもなんていうか、もにょもにょするよ。
そういって口をもごつかせるひわ。
列車はひとつふたつと駅に停まって、早くも次が私たちの降りるところだった。
高校の最寄り駅は地上より低いところにホームがあって、一見するとトンネルの中に造られたかのように見える。
だから人々は暗い穴蔵に放り出されて蠢いて、押し合いへし合い地上を目指して上るのだ。……私もその光景の一部であることに辟易とする。
特に今日のような季節先取りの暑い日には、地上に出た爽快感なんてまるでない。できることならすぐにでも引き返して、アパートの部屋に帰って冷房をつけて涼みたい。
うはぁと、初夏の朝とは思えない陽気に顰め面をした。
「やあやあ、早くも干からびそうではないか!」
「うわっ!」
いきなり後ろから抱きつかれて逃げようとするも、転びそうになって踏みとどまる。普段使わない筋肉を動かしているようで、身体が変に痛い。
「ひわ!!」
「ふふふ。三歩どころか三十歩以上歩いてからの不意打ちはどんな感じ?」
「……心臓に悪いし暑苦しい。慰謝料を要求します」
「ひわだって暑いから無理だよー」
「……暑いならやらなきゃいいでしょ」
「涼しい季節になるまで待てるほどひわたちの時間は多くないんだよ。わかってないなー」
「はいはい、左様ですか」
抱きつかれたままなので、今度は私がひわの方へと体重を預ける。
身体の力を抜いて倚りかかると、慌てたような「ぐえっ」という奇声が背後から聞こえた。
「この辺りに田んぼなんてあったかな。カエルの声がしたけれど」
「……田んぼはどうか知らないけど、カエルなら世界一可愛くて大きなやつがいるよ。瑠璃の後ろで今にも潰れそうになってる」
げこげこと、案外余裕のありそうな鳴き声が返ってくる。
……こんなくだらないことをしているだけでも暑いので、さっさと学校へ行こう。これ以上の奇行で人目を引くのも嫌だし。
ようやく背中のくっつき虫も離れたので、朝からくたくたの私たちは学校へと続く細い商店街を急いだ。
「急ぐといっても、人混みでどうにもならないね〜」
「仕方ないよ。この商店街を通るのがいちばん近道なんだから」
おそらく昔からある商店街は車一台が通るのがやっとの細さで、それゆえにいつでも通行人で混雑している。そんな中に子供を乗せた要塞のような自転車が突っ込んできたりするので、時間のあるときは別の道を通ることもある。
並ぶ店は角にチェーンのドーナツ店がある以外は印象に薄く、よく通るにも関わらずどんな店があるのか全然わからない。シャッターが降りているところはほとんどなかったはずなのに。
……ひわは人混みに突進するかのように突き進んで行き、私はひわを盾としてその後ろを歩く。
商店街を抜けると広めの道路へ出て、それから右手にすぐ高校の門が現れる。
古びて、お世辞にも綺麗とはいえない校舎と一緒に。
「朝からどんよりしてるね〜。もっとお洒落な学校に入ればよかったかも!」
「後悔するには半年遅いね」
「でも、瑠璃だってここまでおんぼろとは思わなかったでしょ? 見学に来たときより古く感じない?」
「言われてみれば、去年見に来たときより年季が入っているような……」
「でしょ? 理由はわからないけど。……半年の間に急激に古びたのかな?」
「そんなに早く劣化するなら在学中に崩れるかもね」
「欠陥建築だ!」
一応進学校のはずなのにな〜、とぼやくひわと、これまた古い玄関で靴を履き替える。
がやがやと多くの生徒たちで賑わっている朝の玄関は、北向きのせいで光が差し込まず薄暗い。じめじめとしている。
……昨夜の空気の清々しさはどこへ行ってしまったのだろうと、いきなり蒸し暑くなった天気を呪う。
「……ふんふん」
「え、どうしたの。匂いなんて嗅がないでよ」
突然私の二の腕に顔を近づけたひわは、くんくんと一生懸命に何かを感じ取ろうとする。洗濯はこまめにしているはずだけれど……。
「いや、なんかいつもと違う香りがするなと思って〜。……瑠璃、まさかとは思うけど誰か家に連れ込んだり?」
ギクッとして、一瞬目が泳ぐ。
なんでこんなに勘がいいのか。
今の間で、目の動きで、それだけでひわなら答えを察してしまうだろう。潮時はあまりにも早かったみたいだ。
「でもなんか、女の子の匂いな気がするんだよね〜。男の人の匂いなんて知らないから、絶対的なものなんだけど。……まあいずれにせよ、早く吐いちまった方が楽になりますよ、お嬢さん?」
「ひわは犬か何かなの? 私なんてひわがシャンプー変えたって気付くかどうかわからないのに……。いいよ、もう。お望み通り全部話すよ」
「お、素直だねっ!」
によによと、ひわは楽しそうにこちらを眺めている。
しかし人がたくさんいる場所で話すのはまずい。私はひわの腕をとって近くの空き教室へと連れ込んだ。
「あれ? これ、口封じされる感じ?」
「してほしいの? お望みならしてあげようかな」
がらんとした教室で、黒板を後ろにしてひわを追い詰める。
がたんと、ひわのぶつかった教壇が音を立てた。
「お望みじゃないよっ! 助けて〜!」
「窮鼠猫を噛むって言うからね、努々気を付けるといいよ」
「どうしてひわが脅されてるの……?」
それは余計なことに気が付くからだよと、脅かすのはこれくらいにして本題を話し出す。――少女誘拐監禁事件、いや監禁はしてないから少女誘拐事件について。




