神の境界
少女が生まれて初めて味わう恐怖、後悔。
このあたりなら大丈夫。
襲われた人がいないから大丈夫。
町から近いから大丈夫。
根拠のない大丈夫の羅列。
少女の眼前にいるものは獣のような何か。背は白銀の毛におおわれ、腹側には蛇のような鱗。金色の眼に縦長の瞳孔が見えるほど近く、体躯は巨大で、鋭い爪のついた足を一振りすれば少女の体は簡単に二つに分かれるだろう。
どの生物にも似ていない特徴、それがこの生物達が唯一無二である証拠。それゆえにその獣たちは神と呼ばれている。神たちは10体。人も獣も等しく食い蹂躙する者達。
少女は恐怖で震えて足に力が入らない。そこにあるものは確かな絶望、死の確信。
神が足を振り上げる、少女は目を閉じ恐怖の声を上げた。
しかし訪れたものは痛みではなく、鈍い音と獣の声のような悲鳴だった。
薄く目を開けた少女が見たものはひとりの青年と、神が先ほど振り上げた足が横たわる地面だった。神の足は青い液体にまみれていた。
青年の左半身はマントでおおわれていて、右手には赤い刀身の剣を持っている。赤い刀身の剣には青い液体がついていた。青年が剣をふるうと神が獣の声を出す。憎しみの声、絶望の声、哀願の声。徐々に弱くなっていく声、そして最後に神が足をふるうと青年から赤い血が舞った。そして終わった。神は全身から青い液体を出して死んでいた。青年は目をおさえている。おさえた手から血が流れ落ちた。
青年は神殺しと呼ばれる人間。赤い刀身の剣を持ち、唯一神たちを殺せるもの。
10体すべての神を殺した神殺しは、英雄となり終末の地で安らかな時を過ごすことが許される。終末の地には神殺しの望む物のすべてがあると言われている。
神は神殺しには勝てない。神殺しは神を殺すとき必ず自分の体の一部を失い、神の体が代わりとなる。それは逃れる事ができない互いの運命。
今回神殺しは目を失った。青年はゆっくりと目をおさえていた手を放す。そこにあったものは金色の眼と縦長の瞳孔。その神と同じ目を少女に向ければ、少女の口からは恐怖の声が上がる。青年のさびしそうな顔を見て少女は慌てて口をおさえる。神殺しは神から人間を救ってくれる英雄。少女の命を救ってくれた恩人。でもその目が、自分を殺そうとしていた神と同じその目が、少女には怖かった。
神殺しは寂しそうな顔をしたまま顔を背けると歩き出した。おそらく次の神のもとへ。風でマントが翻ればそこにあった左手は金色の毛におおわれた鋭いかぎづめのついた腕。おそらくは10体いずれかの神のものだろう。
10体の神を殺した青年が終末の地に足を踏み入れる。そこにいたのはひとりの老婆だった。老婆は青年の手を取る。青年が老婆に語り掛ける。しかしのどから出る声は獣の唸り声、老婆の取る右手は黒と銀色のまだら模様の毛におおわれている。足は右足は魚の鱗用の肌となり、左足は短い白い毛におおわれた馬の脚のような形で二股の蹄がついている。10体の神がまじりあった青年に人である部分は残っていなかった。青年の話す言葉は老婆には伝わらない。それでも老婆は手をはなさずに青年を見る。青年の瞳は、金色で縦長の瞳孔をしている。それでも老婆はその目を見つめて手を強く握る。
「大丈夫ですよ」
かつて見た青年のさびしそうな顔を思い出しながら老婆は言った。青年は老婆を見つめた。老婆はゆっくりと目を閉じる。老婆の体は青年の目の前でゆるやかに年月をかけて朽ちていった。青年はその様子を見つめていた。そして老婆が完全に骨だけになってから目を閉じた。
青年の亡骸からは10体の神が再び生まれて各地へと散っていった。
解釈は人それぞれですが、終末の地には安らぎと望んだものがあることは間違いありません。