48 初手にして詰みの一手
オーロラは階段に足をかけた時、ギドが廊下の柵から見下ろしていたことに気付いた。話をいつからか聴いていたらしい。もう何かを話す気分ではなかったものの、無視するわけにもいかなかった。しかしギドは思った以上に冷静に物事を見ていた。
「あの青年のことはまだよくわからない。だけど、そういう違和感は放置しない方がいい。僕たちには力がある。彼が万一道を外れるようなことがあっちゃいけない」
「ご忠告どうも。でも大丈夫だと思うわ。それより……」
アキヒサは話題にしなかったが気がかりなことは他にもある。ギドはそれが懸念事項の最上位に来たと考えているようだった。すなわち、魔族の存在がもう隠せないということだ。ロバートのこと以上に、これが直近の問題である。もし事実を明らかにするタイミングを誤れば帝都は大混乱に陥る。心の荒みは生活の荒み。魔族が手を出す前に壊れてしまっては本末転倒なのだ。
勿論、ブレイカーズも渦中にいる。メンバーが明らかになっていなくとも非難の対象にはなる。オーロラは、ドナテラがそれに耐えられる気がしないことも心配だった。魔族の侵入を許した責任と討伐の責務。何より、魔族に同族を殺されているという事実は痛い。今日の所は、「爆薬を所持した狡猾な殺人鬼」として周知を行っているが……。
「もう一つ気になることがあるが、まあいい。僕は寝る。良い夜を、レディ」
「良い夜を、ジェントルマン」
とても静かな夜へ、二人とも眠りへ逃げるような気持でいた。
しかし、騒がしい朝はすぐにやってきた。小熊亭で浅い眠りにいた三人は喧騒に目を覚ました。まだ通りが賑わうには早すぎる。胸騒ぎに急かされロビーに集まり、ひとまず年長者のギドが様子見に外へ出た。間もなく、青い顔をして『日刊貴国』の朝刊を持ち帰った。記事はただ一つ、見出しは
『魔族侵攻! 皇帝に見捨てられた市民』
三人は恐怖を覚えながら記事に目を通した。そこには昨日の広場の一件が詳らかに書かれていた。寄稿者はピーター・セオドール。インタビュー記事として財務官や法務官のような帝都の重職に就いている者たちの名前も挙がっている。戦闘の場にいた帝都警備艇隊長のルー・ジャッドと二人の隊長補佐、帝都一の名医シド・ワトキンス、そして大商会長ジェロニモ・ペテルセンの名前もあった。
彼らは魔族の侵略を認め、皇帝の裁量に強く疑問を呈していた。さらに名前は出ていないが、ロバートとサシャの故郷であるアインプ村に軟禁され、何とか帝都に帰ってきたという者たちの証言まであった。魔族の肯定はもちろん、ブレイカーズ、特にドナテラにとってかなり都合が悪い証言があった。
読み進めていくとカロピタ教授の証言まで出てきた。「皇帝が多額の投資で兵器を開発させているが、科学の力では魔族に対抗するものは到底造れない。努力はしているが金と時間の無駄遣いになっている」とある。加えて、街の有力な経営者や職人による税制への不満を爆発させた記事も盛り込まれていた。
アキヒサの歯ぎしりはこの騒々しさの中でも二人の耳に届いた。
「騒ぎの原因はこれかっ!」
「商会と日刊貴国が結託してたとしても不思議は無いけど、他は一体……?」
二階に移動し、窓から目を凝らすと城の前に人だかりはグングン大きくなっていくのが見える。今や小熊亭の面する通りもぎっしり埋め尽くされた。
ギドは顎に手を当ててため息を漏らすと、ベッドに腰かけた。
「あの商人、そういうことか」
「あ? 何言ってんだ爺さん」
「すぐに分かる。もう僕らに出来ることはないよ。事は既に決定している」
「何言って――」
そこでアキヒサは口をつぐんだ。突然、民衆のざわめきが一気に静まったのだ。と言っても完全に静かになるわけはないが。
「あーもう! 今度はなんだ? 魔術――視覚強化、聴覚強化」
アキヒサは窓から屋根に上り、群衆の視線の先を追った。城の入り口で皇帝とペテルセンが対峙しているのが見えた。皇帝は険しい顔をしていて、背を向けているペテルセンの表情は分からない。きっと不敵にほほ笑んでいるだろうと勘繰ったが、皇帝の瞳に映るペテルセンは至って真剣な顔つきだった。
押し寄せた市民が固唾を呑んで見つめる中、皇帝の口が動いた。その声は凄みがあり、静かな怒りが混じっていた。下の窓から頭を出している二人にも分かるように、アキヒサは聞いた言葉を復唱していく。
「何のつもりだペテルセン。こんな記事を書かせて民衆を扇動して」
「それはこちらの台詞ですジャック。解決の糸口も持たずに防衛壁が効力を失っていることを伏せた……私たちを謀ってきたのはあなたのほうではありませんか?」
後ろの民衆がペテルセンに同意するヤジを飛ばした。だが彼はそれを手を挙げて制した。皇帝が反論する。
「確かに魔族が領域を侵しだしていることは事実だ。そこは認めよう。だが解決策はある。我々には――」
「魔族殲滅のための組織・ブレイカーズがいる。そう言いたいのでしょうか? ですが第二王女に権限を放任し、その実、根本的な解決には程遠い」
群衆のあいまを縫って、一人の男がペテルセンの横に並んだ。群衆がざわめき、皇帝の顔が渋くなる。少し居心地悪そうに民衆に振り返ったのはワトキンス医師だった。
「ドナテラ様の部隊は魔族に対抗しうる特別な力を有していると聞いています。ですが、防衛壁の向こうに出れば戦う以前に病気を患ってしまうようで……ここ数日の報道は真実を含んでいたと言うことです。幸い、ドナテラ様方は私が治療することが叶いましたが、現状では魔族がこちらに攻め入ることが出来ても、人間が魔族に攻め入ることは現実的じゃないと言わざるを得ません。つまり、今回のようにただ殺されるだけだけということです」
意図的か強められた語気に群衆が再び不愉快な音を鳴らした。ソフィとドナテラはこの騒ぎの中城からは出てこない。その代わりに、反論しようと口を開いた皇帝の背後に現れたのは、彼に刃を向けるルーの姿だった。眉間にしわを寄せる彼はどこか苦し気に訴える。
「私たちは市民を守らなくてはなりません。盗賊から、詐欺師から、殺人者から、空賊から、強姦から、魔族から! 共通しているのは、どれも市民を傷付けているということです。昨日の一件を見て私の……いえ。我々帝都警備隊の意向は固まりました。これ以上、あなたの振るう剣でいることは出来ない……」
「ならば、どうしようというのだ? 俺に何を望む!?」
その答えを、ペテルセンの突き放すような冷たい声が帝都に木霊した。
「国家元首を降りて下さい、ジャック・トロプ。我々民衆に政治をさせるのです」
それは要求というより宣言に聞えた。刹那の静寂の後、一人の町人がそうだ!降りろ!と叫び、瞬く間に伝染病のように蔓延していった。
筵の針とはこのことだ。誰も皇帝を援護しようという者は現れない。
アキヒサはもうほとんど我慢の限界だった。屋根を伝えばあの場まで行けるのではないかという考えが掠めたが、それを察したのかギドが半ば叱りつけるように釘を刺す。
「アキヒサ、絶対に介入しようと思うな。僕たちは過程を見ているのではない、結果を見せられてるんだ。言わば手品の種明かしだな」
「どういうこと?」
オーロラが首をかしげた。その目は普段あまり見せない不安に淀んでいる。
「とっくに駒は裏返っていたんだよ。トロプ家の味方をする社会的地位や武力を持った連中はもはやいない。そして裏返った駒を率いるのが」
「ジェロニモ・ペテルセンなの?」
「そういうことだろうね、色々合点のいかない点もあるけど。今トロプに味方すれば、この人垣を全て敵にするという意思表示になりかねない」
努めて冷静なギドに、屋根の上からその光景を眺める大男は怒声で返した。
「だったらなんだ!? このままじゃ俺たち部隊の存続も、ドナテラだってどうなるか分かんねーぞ!」
「それはどうだろうな」
意味ありげに言うと、じっとその視線の先にいるであろうペテルセンを睨んだ。デュモン家はあまりトロプ家を好いていなかった。トロプを終焉させるとすれば、それは自分たちの役割だとさえ思っていたのだ。この日、ギドは心の底からトロプ家を蔑んだ。もはや皇族ではなくなったその一族を。