47 妙な状況
目の前に草原がある。何が起きたのか、記憶が吹き飛んだかのようで呆然とした。そんな阿呆もどきの顔に、一匹の純白の蝶がとまった。驚いて情けない悲鳴を上げて仰け反った。
──ゴチン!
岩に頭をぶつけた! なんて間抜けなんだろう。孤独に初めて感謝してしまった。
片目を閉じてたんこぶを抑えながら周りをよく見た。やや背の高い草原。見たことのない純白と漆黒の二匹の蝶が飛んでいる様は不思議で、不安を煽る光景だった。
俺は足を延ばしているし、たんこぶ岩に寄りかかっていたらしいが。ここはどこだ?
「(気を付けろ。また気絶する気か?)」
グリムの静かな叱責を受けた。今更ながら、自分の口から他人の言葉が出るのは妙な感じだ。でもそうか、生きてる。あの苦痛がもう体に無いのは良かったけど、安堵するにはまだ早い。脱獄がいつばれるか分からないんだ、その前に魔族の領域から逃げなくてはいけないはずなのだ。
だがグリムの意見は違った。敵の拠点に乗り込もうと言うのだ。耳を疑った。散々してやられて今こうなっている! どこに勝算があるって言うのかさっぱり。
しかし抗議は退けられた。已然として体の主導権はグリム、草むらを小走りで駆けだした。
──三時間も足を酷使したところでようやく建造物が視界に入ってきた。高い城壁がどこまでも続いているようだ。周囲を警戒しながら更に近づいていくが、付近に魔族の気配は無い。
「ここらは一応安全か。なぁ、本っ当に行くの?」
「(五月蠅いやつめ。知るべきことがあるんだ。ロバートがいる限り、最後は全て上手くいくんだ。貴様はきっと……)」
最後は言葉を濁した。そして初めてかもしれない、グリムの感情が俺に流れてきた。それは羨望や嫉妬の様でもあったが、大部分は恐怖だった。妙な自信を持つこの居候が一体何を恐れるのかあまり想像はできなかった。
「(それに脱出したいと言ったが、そもそもこの大地を出る方法に宛てはあるのか?)」
「そっ、れは……」
無い。そう、無いのだ。半ば自暴自棄な見切り発車だった。飛空艇の在処を探して強奪するのが現実的な唯一の手段だが、そのためには結局その要塞に侵入するしかないわけで。情報の一切ない状況は手段を与えてくれない。思えば、クルト号がここへ船首を向けたのもそれが理由だった。なら、俺だけでもその目的を果たすべきじゃないんだろうか。もし、なんとか帰れたとして、魔族のロクな情報を持ち帰らなかったら?
「――ポンコツ、紛うこと無き役立たず」
挽回しなくては。
それにしても、魔族の領域は正直暮らしやすいというか便利だ。お腹が全然減らないし、喉も乾かない。今だって、何時間も走ったのに何ともない。理由はなんとなく分かっている。恐らく魔素だ。空気中に混じるそれを取り込んで動力にしている(気がする)。グリムに主導権があるとは言え、それでも確かに魔素に動かされてる感覚があるのだ。今なら、きっと強い幻術も使えるだろう。魔族の目を誤魔化すのに使うことになるはずだ。
城壁に近づいてみても、どこにも入り口らしきものはない。ここで選択肢は二つだろう。一つはこのどこまで続くとも分からない城壁に沿って入り口を探す。もう一つは壁を登る。石のブロックを積み上げたような感じになっていて、不可能ではないように見える。落下したら、途中で見つかったら、ってリスクを考えるとあまり気が進まないけど。
「(いや、ここを登る)」
そう告げられるのも意外ではない。俺の思うベストと、グリムの考えるベストは違う。
それは方法の違いから来ている。グリムは手をかけた瞬間から実にスイスイ登っていくが、落ちる心配はないらしい。手と壁の隙間の空気を魔法で移動させ真空を生み出している。手は吸盤となり、安定していた。自分の命を他人に預けているのはいい気分ではないが、俺に魔法が扱えても同じことは出来ないと思った。怖いから。
でも俺は俺でただボケっとしてるわけでもなく、意思を持った存在を探した。幻術を使う前段階のこの魔術は地味に便利だ。近づく敵がいないか、壁の向こうに誰かいるのか。それを探っていた。何となく、コンビとして成立しつつあるのも複雑だ。
何百メートルとあった壁の頂上に手をかけたのは登り始めて十五分ほどしてからだった。魔法は本当に何でもありだ。魔族が本気を出せば、人間なんて一日で滅びるだろうと思うと背筋が凍る。
◆ ◆ ◆
小熊亭は綺麗に手入れされていた。掃除は行き届き、いつでも使える状態にされている。
「ブレイカーズは滅多にここを使わないし、もう少しざるな仕事でもいいだろうに」とアキヒサは言ったが、ソファに座る紺碧の宝石の持ち主に嘲笑を以て否定されてしまう。
「普段気を抜いてたらいざって時に苦労するでしょうが。それに見合うだけの給金も出てるはず。仕事ぶりに感嘆して感謝するのが紳士的な発言なんじゃない?」
「ご、ごもっとも……」
あまり機嫌のよくなさそうなオーロラに萎縮してか、反論するという考えすら浮かばないらしい。既に外は暗く、ギドは眠りについていた。彼は市中を適当にぶらついてから小熊亭を訪れ、軽く会話しただけでベッドへ向かった。貴族育ちのギドがこの宿舎で満足しているのは意外に思われたが、それだけ疲れているのかもしれない、そう思うアキヒサも疲れた顔で向かいのソファに腰かけ本題に入った。自分たちがどう動くか、である。
「ロバートの手掛かりはあったか? 俺も色々聞いて回ったがなんかこう、どれも違う感じだった」
「そ。一応それらしきものはあったよ」
「本当か!?」
アキヒサはガッと身を乗り出した。その顔がやたらと苦しそうで、オーロラはわずかに目を逸らした。
「クルト号の管理をしてた人にね、夕方くらいの言伝をしてたらしくて。『自分はやることがあるから四人でサゴ・ムクナに向かってほしい。その時には必ずワトキンス医師に会うこと。時間があまりないから急ぐように』だってさ。顔も見せず、何のつもりかしらね。……どうしたの?」
今度は驚いたようなバツの悪そうな顔をしていた。コロコロ表情が変わって忙しい男である。
「いや、なんでも。ワトキンスって俺たちを治療してくれたやつだな。会うだけ会いにいくか」
「お礼も言ってないしね」
「あ、確かに。それともう一つ聴いてほしいことがあるんだ。ルーが捕まえたサシャのことなんだが――」
厳密にはサシャのことではない。ロバートが彼女に殺意をむけたらしいこと。ルーから聞いたロバートの態度。みんなの話に出てくるのロバートは、アキヒサの知っている男ではなかった。本来の彼はどこか弱腰というか曖昧で、それでも優しさがあった。でも伝聞からはそれが全く……。加えてサシャがこの帝都にいる事実。これがとてつもなく胸騒ぎを誘うのだ。
アキヒサの話を一通り聞き終えたオーロラは少し思案顔になってから、一つため息をついた。そして彼女にしてはかなり柔らかい顔になって口を開いた。
「私たちが気絶してる時になにかあったのかもしれない。この帝都か、帰還するまでのクルト号で彼を変える何かが。彼は若い。悩んで、苦悩して、攻撃的になることもあるかもしれない。アキヒサ、あなたもそうだったでしょう?」
母親が子どもに言い聞かせるように。ドキリとして、大男は肩を落とした。弟と悲しむ両親の顔が、頭の中にありありと浮かんでいた。オーロラの言う通りかもしれないと思った。
「少し時間が必要なのかも。信じてみましょうよ」
「……わかった」
「それじゃあ、明日はワトキンスさんのところへ行きましょう。私はもう寝るね」
「あぁ、おやすみ」