46 地下牢の二人
……。座り込み、足を延ばし、抱え、また伸ばし。石の床の冷たさが伝わってくる。
暗闇にずっといるせいで、目が死んだんじゃないかと思う。時間感覚もない。あの魔族が去ってから、グリムと少し会話をした。けどグリムのやつ、俺のことなんて嫌いらしい。しばらくしたら会話を辞めて俺の意識の奥に潜り込んでしまった。こんな時に限って、俺の意識は途切れることが無かった。これまではグリムの意思が奥に消えると気絶していたのに。理由は分からないけど、俺も耐性が付いてきたってことかもしれない。……今更だ。
今頃、姉ちゃんもこんな暗闇の中にいるんだろうか? いつ醒めるとも知れない無意識に飲まれて……オーロラは何年も待たなければいけないかもしれないと言った。悪夢の中にいるとしたら、それはあまりに苛酷だ。せめて完全な無意識か、楽しい夢を見ていると思いたい。そういえばあの小さい箱、クルト号の机にしまったままだったな。もし帰れたら、今度は中を検めてもいいかな。
みんなはどうしたろう? 魔族の言い分を信じるなら襲われずに城には着けた、はずだけど。希望的にそれを信じたとしても、あのよく分からない症状が治ったのかどうかって問題がある。オーロラだけでも良くなってくれれば紺碧の宝石が今度こそみんなを助けられるだろうか?
俺は何をすべきだろう。思考がループしている。脱出する術がないから、過去を漁りツヅケタ。グリム曰く、この格子も壁も内側から壊せない。大声を出しても、周囲にいると思しき囚人は無関心の境地に達している。この空間がそれさせると気づいた瞬間、絶望さえ消えていく。
「グリム!!!」
大声で叫んだ。今や俺には彼しかいない。
「グリーム!!!」
「(なんだやかましい)」
彼は呼びかけに応えてくれた。
「俺は逃げ出したい、やっぱり! どうしたってこれはおかしいじゃないか……。あいつら昔倒した連中なんだろ、なんとか出し抜けないのかよ?」
「(はっ、馬鹿者め。今のやつらと昔のやつらじゃ根本から違うんだよ。それに言ったろ、手段はないと。この空間は魔素を反射するバリアで囲われてる。何をやっても返ってきちまう)」
「でも俺の体は弾かれないよ?」
暗闇の中で鉄格子を掴み、腕を伸ばしてみせた。
「お前の説明じゃ、その魔素ってやつは俺の体内にも流れてるんでしょ? それがまぁまぁの量だったから俺だけは身体の中が狂わなかったって」
「(狂わない程度の量だったに過ぎない。魔族のそれと比べたら雀の涙よ。だがそうだな、そう言われれば一つだけ手段がある)」
「グリム……、もっと早く思い付いてほしかったよ。どうすればいいの?」
「(お前の体を圧縮するのさ)」
どういうことかと言えば魔法で体を縮ませる、ということらしいが。お前は最悪死ぬことになる、なんて言われたら眉も顰める。
「(魔法は万能ではない。貴様のような軟弱な体に直接負荷するにはこの魔法はあまりに重いと言うことだ。我も貴様に死なれては困る)」
「でも、ここに監禁されたままでいるわけにもいかないでしょ? 試すしかないんじゃないの?」
「(貴様、この短期間でやけに上からな物言いをするようになったな、小賢しい。だが貴様が死なないのではないかと思える理由に心当たりもある。試してみよう)」
「うん、わかったから。……何その心当たり?」
でも、その答えは聞けなかった。体の主導権を奪われ、自分に向けてその魔法をかけている。体が、縮んでいく。なんて実感している余裕はなかった! 酷い激痛が全身を包む。これは強引にギュウギュウ押し込まれているような感じで、全身の筋やら骨やらイカれていく。折れてる折れてる!! すごく、吐きそう……内臓潰れたんじゃ? 脳、目、陰部、とにかく全てが悲鳴を上げ……――
* * *
どこかの地下牢。三人の男。そして私──サシャ・レバーク。
見下ろしてくる冷淡な目も、息の詰まる狭さも、酷い頭痛も、今の彼女には問題では無かった。様変わりした彼――ロバートのことが、あまりにもショックで。完全に拒絶されたことが、あまりにもショックで。殺意を向けられたことが、あまりにもショックで。
「あんたと殺人鬼の関係はなんだ?」
そんな冷たい声さえ、心地好いほど。
「あの方、力を……ロブを護るための力、渡してく……。歌を私に……クレイグに捕まったの、を、救い出して……」
言葉の最後まで声が保たない。訊かれるままに記憶をなぞり、何を間違えたのか、探っていた。徐に髪を結んでいたベージュのリボンを手に取った。スラッグから贈られた物だ。
「初めて出会ったのはどこだ?」
「クレイグに捕まった檻。みんな、檻の中に、死んで……」
質問してくる男に、別の男が何やら耳打ちしている。「もしやツェンのとこの話では?」って。なんだろう、それ。あの時、サシャに選択肢は無かった。
「あんたは奴から逃げたりしなかった。さっきの広場にも率先して来たようだった。なぜだ?」
「師匠、魔族だから。可哀想な魔族だから。私、助けて、強く……なって! ロブを支えて! 師匠も元に戻って! きっと、心で……ぅぅ」
嗚咽が漏れて、語気が強くなった。この世界は間違っている、そう言ってスラッグは真相を見せた。それは受け容れがたいものだった。自分には注ぐことの出来ない罪であり、赦しがたいサイクル。スラッグは更に言った、
『クーラに罪は無い。でもでも、それを背負い償うのは君たちなんだよ。理不尽なもんだが、この世界のシステムじゃあそうなっちゃうんだ』
と。それが真実だという証拠はない。しかし、それを示唆するものがこの世界にはあった。なまじ教養があったから、彼女は信じられてしまった。
「お前、歌を歌ったな。なぜだ?」
「私の力は歌。生体干渉の魔術。メロディも歌詞も自然に浮かんできた。ロブと師匠が傷つけあうのを止めたかった」
そしてそれはなった。何も、何も間違わなかった。それなのに、
「それなのに! ロブは私の話を聞かなかった。師匠がくれた名前に怒って、私を蔑んで、殺そうと……」
ああ、そうか。ふと、彼女は気付いた。段々と呪縛が解けていく。ずっと靄がかっていたような頭が晴れて、つぅーっと涙が頬をなぞり、罪を知った。
「私、人殺しちゃった……? 師匠の言葉を、ぜんぶ、信じて。でもロブは……。世界平和より、大切なこと、あったのに。う、うぁぁあぁぁぁぁ」
クーラという人格、思想この時死んだのだ。スパーカーが常備していたヤカラベの花には少しの幻覚作用があった。少しだ。しかし、彼女の意思を操るにはそれで充分だったのだろう。彼女に選ぶ権利は無かった。恐らく、運命を変える決断を下せたのは島を出たその日だけだった。戻れない時間を悔やんで、悔やんで。
サシャの心は今度こそ自由な意思で崩壊を始めた。