30 追憶の幻界
「……?」
チチチ……
「……鳥?」
(ここは? シュニャイクの子孫はどこへ行った? ……湖か? いや……)
「待ってよー!」
「やだよーだ!」
(なヌ? 子ども?)
そこへきてようやく、眼鏡幽霊は幻術の中に堕ちたことを悟った。
(チぃ、あのガキ。どうせ理屈が先だって動かないと思ったが、油断したわ。何を見せようと言うのだ……)
湖のほとりで、黒髪の少女が何かを持って走っていた。それをブロンド髪の少年が必死に追いかけている。
「それっ!」
少年が追い付いて少女の足に飛びついた。少年は一瞬勝ち誇った顔をしたが、足を掴まれた少女は勢いよく顔から転んでしまった。ボスっと鈍い音がして、少年の顔はみるみるうちに青ざめた。
(あ! あーあ、やっちまたなあのガキ。下は芝か、これ? でも痛いだろうな……って、何見入ってんだ! ……でもまぁ、ここまでしっかり幻術にかかったら抜けられないか。どうせ我死なないし)
突っ伏したまま動かない少女を見て、少年は更に顔を蒼くしていた。少年は恐る恐る屈んで、少女の顔を覗こうとした。
「お、お姉ちゃん? ごめん、そんなつもりじゃなくて、その……大丈夫?」
「んんんん」
「え?」
少女は両手をついて頭を上げた。その顔には千切れた雑草がいっぱいくっついて、泣きそうに膨れていた。
「大丈夫じゃない! 足なんかつかんだらこうなるのわかんないの!!」
(おぅ、そうだそうだ~)
「え、だってお姉ちゃんが俺のあげた指輪持ってっちゃうから……」
「なんで私にくれた物を私が持ってちゃいけないの!!」
少女はべそをかきながら全力で抗議していた。
(いや、全くだ。この坊主頭おかしいのか? ……ん? 坊主の下げてるあれはグリムの宝石……。これはあのガキの過去か)
「だから、それまだ未完成なんだってば!」
「どう見たって完成してるよ!」
少女はそれを確かめるようにまじまじと眺めた。指輪のようだ。少年はそれをひったくると、一気に走りだし、今度は少女がそれを追いかける。
「返せー!」
「すぐ済むから!」
(はぁ。ふっ、元気だねぇ)
やがて、少年は小さな祭壇まで来ると立ち止まった。汗だくでぜぇはぁ言いながら、腰に手を当て頭を垂れた。少女も息を切らせながら追いついた。
「も、なん、はぁ、ハァ……」
少年はちらと少女を見てから祭壇に指輪を置くと、目を閉じ手を合わせてお祈りをした。
そして今度こそ、少女にそれを渡した。
「ふぅ……。これで大丈夫。はい、お姉ちゃん!」
少女は指輪を受け取ったが、納得いかないようだ。
「何か変わったの?」
少年は満足げに頷いて見せた。
「もちろん! 陽姫様にお祈りしたもん! その指輪を、将来お姉ちゃんが大きくなったら、大事におもう人に渡すんだ。そしたら、お姉ちゃんは幸せになれるんだよ!」
少女は、よくわからないという様に首を傾げた。
「パパかママに渡せばいいの?」
「え? うーん、多分違うと思う。でもお父さんが言ってたんだよ、これが幸せの秘密だって」
ふぅん、と少女はそれを陽にかざして眺めてから、顔いっぱいに笑顔を浮かべた。
「ちょっと分かったかも! ありがとうね、ロブ!!」
(フフフ、微笑ましいな)
****
少しずつ空が白みだした頃、クルト号の甲板。しりもちを付きながら、震える手で長い銃を眼鏡幽霊に向けるドナテラ、直立して微動だにしない眼鏡幽霊、膝立ちで眼鏡幽霊を向いて目をギュッと閉じるロバート。
オーロラに治療され脳震盪を脱したアキヒサは、その奇妙な光景の答えを求めた。
「どう、なってるんだ、これ?」
オーロラはアキヒサを抱え起こしながら三者を睨み、棘のある声で返した。
「ロバートがあの幽霊に幻術をかけてる。でもどういう幻覚かは分からない。もう一分は固まったまま。ドナテラは……多分、心で負けを認めてしまったのね。顔に恐れしか見えない」
「そうか、急いであの幽霊を仕留めないと――」
そう拳を握りしめたが、オーロラはそんなアキヒサを制止した。
「待ちなさい。あの幽霊は殺す気で襲ってきてないわ。ロバートが何をしているの分からないけれど、彼に任せてみましょう。ドナテラはしばらく、あのままにしときましょう」
アキヒサはキッとなって反駁した。
「なぜだ!?」
オーロラはため息をついて、片手でアキヒサの両頬を掴んだ。
「ニャニヲスル……」
「あれが本気だったらとっくに死んでるわ、向こうの幻術にかかった時点で。いいから見てなさい。ドナテラにもいい薬になる」
****
(ふぅむ? 今度は森の中だな。月が出てるとは言え、暗くてよく見えん)
と、二つの影が幽霊の方に走ってきた。荒い息遣いだ。幽霊は目を凝らした。
(あの顔、ガキどもじゃないか。なるほど、成長したその後の二人ってことか)
女が手を引くようにして二人が幽霊の目前まで迫ったその時、空気の切れる音がした。すると、女がぐらりと地面に崩れ落ち、赤いものが広がりだした。幽霊はいつの間にか、血の垂れる青白い剣を持っていた。そればかりか、黒い鎧も身に着けている。
(な、なんだこれは! 我ではないぞ! 同族を手にかけるなど、こ……これまでだって命までは奪ってない。デュモンの領域を侵した者どもを撤退させただけで……。)
「姉ちゃん!!」
男は慌てて女を抱き起し呼びかけたが、微かなうめき声しか返ってこなかった。男の手を引いていた女の腕は肘の下から切断され、横腹も切られているようだった。
「……ぅ、……ハァ……ハァ…………」
二人とも、か細く壊れた呼吸音を漏らしている。男の髪の先がブロンドから赤に染まっていく。
(違う違う違う!)
幽霊の視線の奥から、黒い鎧を着たものが現れた。顔面の右半分が骸骨、左半分では黒い液体がうごめく魔族がじっと幽霊のことを見据えていた。
(気持ち悪い! やめろ、我は人間だ! 我は平和を作り、笑顔に囲まれ、幸せに死ぬことが出来たんだ! やめろ……)
****
「やめろーーー」
凍り付いていたクルト号の甲板に、絶叫が響き渡った。俺は呪いが解けたように現実に戻った。俺の目の前では、ドナテラがカタカタ震えながら幽霊に銃を向けていた。幽霊は後ずさり、俺を見た。その顔はもう無表情ではなかった。悪い夢から覚めた、子どものような顔。
「…………今見せたのは、貴様の記憶か?」
俺は黙って頷いた。俺は幽霊の五感を完全に奪うために、自分の記憶をそのまま映しこんだ。見せる記憶は何でも良かった、精巧に再現出来ればよかったから、すぐに思い出せる印象深い記憶が選ばれていた。姉ちゃんと遊んだ記憶と、あの夜の記憶。
「……そうか。もういい。お前らの勝ちだ、我はもう戦えない……。着いてこい」
幽霊は沈みきった声で敗北を宣言した。辺りにようやく陽の光が差し、ボロボロで今にも消えそうな幽霊はまるで召されるかのように、ユラユラと浮かび進みだした。