22 小熊亭のプチ騒動
「え!? オーロラここに帰ってないの!?」
帝都トロプ城近くの小熊亭。主流の石造りに反した木造建築。外の光がよく差し込む造りと木材の温かな反射のおかげでロビーは穏やかな雰囲気になる。
ところが、ロビーのソファーに座るドナテラは、今起きたばかりの立ち尽くすアキヒサを睨み上げていた。ペトは本来の紫色の宝石に戻り、今は腰のベルトに悠然と光っている。
「日の出から二時間、オーロラは行方不明、ロバートは死んだように眠ったまま殴っても起きない。これはどういうこと?」
アキヒサは笑ってごまかそうとしていた。が、それでごまかせる事例はそうそう無い。
「行方不明って、ただここに来てないってだけだぞ。それより、起きないからってロブを殴る必要は無かったんじゃ……」
ドンっとドナテラが足を机に乗せた。普段より大きな態度で、早口に言葉を並べていく。
「オーロラが夜の街で危ない目にあってたらどうするの? それこそ、もしあの殺人鬼に狙われてたらいくら防御の魔術が使えるオーロラだって……」
「殺人鬼? いやでも、あいつに限ってそんな危険なことには。ほらどっか別なとこに泊まってるかもしれないし」
あまりデリカシーのある発言ではなかった。ドナテラの尊大な態度を剥がすには十分すぎて、立ち上がると机越しにアキヒサへ詰め寄った。その目はこらえきれずに涙が浮かべている。アキヒサは自分が思うよりも悪い状況にあると自覚した。
「今まで一度でもそんなことがあったか!? 言ってみろ、このノータリン! 近頃暴れてる殺人鬼に夜間の巡回兵だけでも六人は殺られたとパパ上は言った! ロバートだってオーロラの助けがないとあのままかもしれないし、お前がケガしたって誰も治せない! オーロラは私の友人である以上に、防衛の要なんだよ。だから……だから……」
ドナテラの肩が力なく落ちた。
アキヒサの本能はこう告げていた。「ドナテラの火が小さくなった今がチャンスだ」と。
「さ、探してみるから、待っててくれよ。すぐに見つけてくるから!」
観念して髪もぼさぼさのまま、逃げるように小熊亭を飛び出していった。
彼にとってみれば、あのしたたかなオーロラが何かの危険に巻き込まれるとは微塵も思えないし、考えすぎだろうとしか言えない。それよりも、まるであのサシャって娘と同じように眠ってしまっているロバートが気がかりだった。そのためにオーロラを探しに行くのだ。
一方、残されたドナテラも捜索に出ることを決めていた。最後にロバートがまだ眠ったままなのを見て、自分が王女だと気づかれないように帽子とサングラスをかけた。あてはないが、居ても立っても居られない。
母を早くに亡くし、父は政務に忙しく、姉との仲は悪くはないがそれほど良くもない。気のおけない友など学校では出来なかった。この身分のせいで、誰もが一線を引いたから。それは当たり前のことであり、自分でもそうするだろうと理解していても心は納得しないものだ。だから、そんなことをまるで気にせず自分を受け入れてくれたオーロラは特別な存在だった。その点ではアキヒサも同様だが、あれは正直身分の違いという意味を理解していないだけに思われた。それでもありがたいが、オーロラほどの信頼を置くには至っていない。
最近ドナテラは、自分がオーロラに依存しているのを理解していたし、それが友好関係にひびを入れることを恐れていた。しかし、どこかに居なくなってしまってはそんな心配も出来ないのだ。
玄関扉が閉まる音がして、ただ一人眠りに落ちるロバートしかいない静かな宿舎となった。
だがわずか十分後だった。
オーロラが小熊亭の玄関を開けた。うっかり朝帰りになったオーロラを探して二人が出払ったことを知らない当人は、テーブルに気まぐれで買った――と自分に言い聞かせた――新聞『日刊貴国』を雑に投げおいて風呂場に直行した。
脱いだ服を見ると、片目を閉じて「あちゃー」とポツリ。背中のほうに、千切れた葉っぱが結構まんべんなく付いていたのだ。草の上をごろごろしたときに付いた背中の草を払うのをすっかり忘れていたらしい。白い服には中々目立つ。これで街中を歩いてきたと思うと途端に恥ずかしくなった。「あのセオドールとか言うやつめ……」と軽く悪態をついて、そのことは忘れることにした。
シャワーを浴びると、髪まだも濡れたままソファーに仰向けになった。ブワッと茶髪が広がる。黒の服に赤いフリフリの膝丈スカート。綺麗な白い肌と濡れた茶髪は、実に艶めかしい女性をそこに生み出していた。ボーっと目を開けて呟く。
「天井……」
――ガタン――
玄関扉を開けてだらしない髪型のアキヒサが入ってきた。(寝癖くらいとかしなさいよ)と思っていると、その手に日刊貴国があるのが見えた。オーロラの頭に再びあの記者の顔が浮かび苦い顔になる。
アキヒサはオーロラを見ると「やっぱりお前だったか」と言って、その新聞をテーブルに放っ向いのソファーに腰かけた。オーロラは首だけアキヒサのほうに傾けた。
「何? どうしたの?」
はぁ~とアキヒサは深いため息をついて、事情を説明した。
「……と、そんなわけだ。そして思った通り、お前はこうして元気なわけだ」
「……そんなわけか。ドナテラも、もう少し私のこと信用してほしいんだけどなぁ。ごめんねアキヒサ。ドナテラもすぐに帰ってくるでしょ、先にロバートの様子を見なきゃ」
シャワーを浴びたばかりで地味に力の入らないオーロラは、アキヒサに引っ張られてソファーから立ち上がった。神妙な面持ちで階段を上り、二人は未だ眠るロバートの部屋に入った。オーロラは無表情に、眠っているロバートの顔を眺め、そして腕輪を着けた右手をロバートの体の上にかざした。
「魔術――治癒」
しかし宝石は何も反応しなかった。アキヒサが眉をひそめてオーロラにグイっと寄った。
「どういうことだ? その宝石の魔術で治せないものなんて無かったろ?」
オーロラも顔をしかめた。
「なんでだろう、私にもわからないわ。あの女の子みたいに死にかけの人を治癒するとこうなることはあったけど、これはよくわからない。ケガでも病気でもない。クルト号での魔族との戦いで何か……。ほら、起きなさ~い、ほら、ほら」
ロバートの顔を何度かペチペチと叩くが、やはり起きる気配がない。
「あぁ、ロブ。どうしちまったんだ……」
「これも含めて博士と相談しましょう。――それから、アキヒサ!」
と、突然とげのある声になる。
「な、なんだ?」
「あなたもロバートも鼻が曲がるほど酒臭いわ。今すぐシャワーに入って。こいつもあんたが洗ってやりなさい」
「わかったよ……」
今日はよく非難されるなぁ、と愚痴りながらロバートを抱えたアキヒサの朝だった。
***
オーロラは少しそわそわしながら日刊貴国を読んでいた。記事自体には大した魅力はない。興味を上手く煽るような中々巧い記事ばかりだが、どうでもいいものはどうでもいいのだ。新聞には例えばこんな記事。
『殺人鬼 闇夜に舞う! またも被害者発生。今朝早く、トロプ233号地区にて若い夫婦が無残な姿で発見された。身元は判明していないもののその服装から観光客と見られており、治安当局が調べを進めている。殺人鬼に関する有益な情報はまだ掴めておらず、帝都住人からは夜警体制の甘さについても非難の声が上がっている。帝都の皆さん、観光客の皆さんも夜間の外出にはくれぐれもご注意を。』
そこまで読んで二人が浴室から出てきた。
アキヒサはロバートを向かいのソファに寝かせて、自分はオーロラの右隣に座った。
「これでいいんだろ?」
「うん、シャンプーのいい匂いになったわ。にしても、ロバートはこれでも起きなかったのね」
二人は心配そうにロバートを眺めた。苦しそうなことも無いが楽しそうなわけでもなく、まるでマネキンのように眠っている。
「俺もシャワーかけられたら起きるかと期待したんだが。ところでドナテラはまだ戻らないのか?」
そう言った時、日刊貴国を持った金髪の少女が息も絶え絶えに玄関扉を開けた。噂をすれば何とやら。
「……ハァ……い、いた…………ハァ……」
「ただいま、そしておかえりなさい」
汗だくになったドナテラは顔を真っ赤にしてツカツカとオーロラに近づき、テーブルに三部目の日刊貴国を叩きつけた。
「心配……ハァ……したでしょ! ……ハァ」
しかしオーロラは固い表情で目を上げ、ドナテラをキッとにらんだ。それにドナテラはわずかに怯んだ。
「ドナテラ、何が心配だったの?」
ドナテラはガンとテーブルに手をついてオーロラに顔を突き合わせた。じりじりとアキヒサが距離を取る。
「夜の帝都で襲われたんじゃないかって、それが心配だったの!」
「ふぅん。あなた、この私がそんな致命的な失敗をするかもしれないと、本気で思ってるの? アキヒサはその点、信用してくれてたけど」
「何それ! 私はリーダーなの! 常に色んな可能性を見てるのよ! なんで楽観的になんか、なれるわけ……ないでしょ」
ドナテラは俯きながら手をギュッと握りしめ、プルプルと震えていた。
オーロラが新聞を置いて、今度はドナテラを大事に抱きしめて囁いた。
「全くもう、あなたは私がいなくなるのが心配だったのよ、リトルクイーン。私が襲われたなんて露ほども思ってなかったくせに」
「え?」
一人、流れを読めない男は思わず声を上げる。見えない深層心理の駆け引きが二人にはあるようだ。
「心配しなくても、私が何も言わずにいなくなることは絶対にない、約束」
その言葉が、小さな体が抱える暗い何かを決壊させた。胸に顔をうずめた金髪の少女の小さな嗚咽が宿舎に溶けていく。
「だよね……ごめん。……私、リーダーなんだから、もっと強く構えてないといけないよね」
「そういうこと。汗まみれになっちゃて、シャワー浴びてきなさい」
「……そうする」
上げた顔は明るさを取り戻していた。
彼女が静かにお風呂場へ消えていくと、アキヒサは安堵したようにソファに座った。向かいのロバートは静かなものである。
「いつも思ってたけどお前、あいつの母親みたいだな」
そういわれて少し寂しそうな顔になる。
「母親……か。ドナテラはなんだかほっとけないの、わかるでしょ?」
「まぁな」
「母親かぁ~~~」
グーっと両手を伸ばして、ソファーに落っこちるように座り込んだ。
「何だ、ひょっとして気に障ったか?」
「いやぁ。ちょっと昔を思い出したってだけ。私少し寝るから、行くときになったら起こしてね」
そう言ってそのまま目を閉じた。
左ポケットに移し替えられたボロ人形が強く握りしめられていたことには、誰も気付かない。