二つのプロローグ
これはこれは、どうも初めまして。下に出てくる書斎の主です。
こちらを読むときは
部屋を明るくして、目の負担を軽くして読んで下さいね。
それでは
【A面】
窓からうっすらと木漏れ日が差す薄暗い書斎。本棚には書物がぎっしり詰め込まれていて、宗教学、社会学、言語学、物理学、医学、神経学……、という具合であらゆる学術書が揃っている。数が多すぎて本棚だけでは足りず、部屋の壁に沿って重ねられて第二の壁が完成していた。おかげで小さめの書斎が余計に小さく映る。だがそれでも、不思議と整理された印象を受けるのは全ての本が丁寧に扱われているからかもしれない。
そんな学問のオードブルの中、男はふかふかの二人がけソファーに座ってコーヒーを口に含む。大して美味しくもないが、それが日課だったので気付いたときにはこうなっていた。目にはどうも精気がなく、意味もなくカップを揺り回す。揺り回すのに夢中で、書斎に入ってきた女には一瞥もくれない。人形のような男の有様に、とうとう女は参ってしまった。意を決して大きな声を上げた。
「制御装置の点検完了しました、いつでも再始動出来ます!」
女のいつも以上に陽気な声での報告に、男は少し戸惑ってしまった。そこに居たのは気配で分かっていたので驚かないが、むしろ心配になってしまった。
「え、あ、そうかい。え、何? その感じ」
「テーマは元気印の女の子! ですよ。どうです?」
「どうと言われてもな」
思惑が外れ、女はムスッとして男の右側をこじ開けてボフッと腰かけた。その顔がそのまま男の横顔を捉える。
「お気に召さないと? 本当わがままなんだから。私のこの努力を返してくださいよ」
「えぇ……いやまぁ、よかったよ」
「はぁ。退屈なのはわかりますが、そう顔に出されてはこっちまで退屈になってしまいます。退屈の2乗ですよ極大ですよ無限大ですよ!」
手をばっと挙げてのオーバーアクション。男は口を開きかけて、閉じた。
しかし女は自身の存在がこの男の退屈をどれだけ救っているのかなどまるで理解していなかった。いつに間にか男にとって、女との時間が唯一の楽しみになっていたのだ。それを思うと、男は何とも言えない気持ちになるのである。
「あ、なんか今楽しそうな顔しましたね」
男はすぐ顔に出る。いや、女がよく見ていると言った方がいいだろう。
「ん? あぁ、ルーシーといるのは楽しいな、と思ってね」
「もう、からかってるんですか?」
そう言われた女――ルーシーは伏し目がちになった。窓から差し込む光が彼女の頬を照らすと、それは決して創ることの出来ない代物だと感じる。
男の口から、諦めとも疲労ともつかないため息が漏れた。
「そんな嘘は不要だ。しかしあれは……どうせ今回も似たようなことになるんだろ。もう辞めたいよ」
いつの間にやら空になったカップを小っちゃなテーブルに置いて、ソファーに身を委ねた。楽な姿勢であっても気疲れまでは癒えないのだから困ったものだ。
「あなたに憧れてここにいる私の目の前で、それを言いますか……」
また不満げな顔を見せたルーシーは少し思案した後、おもむろに男の腕に絡みついた。普段、そういうことはしないくせに。
「先生、一緒にしてほしいことがあるんですけど」
「何だ?」
少し、声が緊張している。男もわずかに緊張が移った。
「あのですね――」と、何事か耳打ちした。それを聞いた途端男は目を丸くし、思わずルーシーの顔を覗き込んだ。
「お前、それ本気で言ってるのか」
「本気です。それに私の夢でもあります。お願いです、先生」
当人たちにとって、それは信じがたい提案だった。暗黙のルールを破るものであり、それはある種、自分たちの存在否定とも言えるものだった。
だが男は、それが己の内で何かを脈打たせ、全身に味わったことのない電撃を走らせたことを自覚せずにいられなかった。
「お互い、追放されることになるぞ」
「その時は一緒に新しいことを探しましょう。先生の退屈を私に壊させてください」
気付くと男は笑っていた。どうしようもない、抑えられない笑顔。こんな自然で好奇心に溢れた笑顔がいつ以来なのか、男には思い出せなかった。
「いいだろう」
「ありがとうございます!」
ルーシーは満面の笑みで男に飛びついた。同じ笑顔で、今まさに心が通い合っていた。一つの禁忌を犯そうというのに、高鳴る情は全てを肯定した。空っぽのカップに残る水滴が、二つの笑顔をを映している。
【B面】
気持ちのいい夏晴れの日の夜。帝都から遥か遠く離れた浮遊小島の村では、今年もお祭りが催されていた。このお祭りは湖への感謝のお祭りだ。村の西にある森にある清らかな水を湛える湖は一度も枯れたことがない。無限の水は村に豊かさをもたらす大変ありがたいものなのだ。その年も例年通りの賑わいを見せた。
ドルド夫妻はそんな祭りを楽しむ村人の一組だった。白と茶色の地味なペアルックで、湖を抜けた先にある、簡素で小さな祭壇にお参りを済ませたところだった。
「さて、向こうに戻るか。まだ飲み足りないし」
「ちょっとレオ、まだ飲むの? いくら酒強いからって限度があるでしょうに」
「いいだろフルー? ……それにしても祭壇に人が居なさすぎる。何の祭りだと思ってんだ」
酒臭い口で愚痴ったその時、急に湖のほうが騒がしくなった。何事かと音の方を向いた。
「……? 何あれ!?」
フルーは驚愕し、上を指さした。
そこには湖から何本もの水柱が高く噴き上がっていた。理解を超えた光景に呆気に取られていると、その水がシュワー-! という豪快な音と共に、まるで蛇のようにドルド夫妻のいる方に伸びてきた。水柱は腰を抜かしたドルド夫妻の脇をかすめて、祭壇に吸い込まれた。そしてあらかた水が吸い込まれたかと思うと青い強烈な閃光が放たれ、夫妻の視界を奪った。
驚きはまだ続いた。じんわりと視界が戻ると、祭壇に安らかな顔をした色白な赤ん坊が眠っていたのだ。安らかな顔で眠るその赤ん坊は、首から美しい翡翠の宝石があしらわれたペンダントをさげていた。
するとレオが慌ててその赤ん坊を抱きかかえ、人目の届かない森の茂みへ逃げこんだ。後ろについてきたフルーは激しく狼狽していた。
「レ、レオ!? なんで連れてきちゃったの!?」
「俺にも、わからない……けどなんだかそうすべきと思ったんだ。そう……」
レオも混乱していた。この赤ん坊の正体もわからないというのに、何をしているのか。「誰かに見られたかな」と、挙動不審に目を泳がせる。
「きっとみられたわ。ねぇ、早く返しにいかなきゃ」
しかしそれはもう無理そうだった。さっきの閃光に釣られて、閑散としていた祭壇に人が集まりだしている。(調子のいいやつらめ!)と、レオは心の中で吐き捨てた。あの中に子無しの夫妻が赤ん坊を抱えていけば、ドルド夫妻を知る村人から誘拐に思われたって仕方ない。
「明日、村長に話そう。うん、それがいい。それがいいとも」
結局レオは自分と妻を強引に納得させ家に帰った。人目を避けて森を歩いて。
翌朝早く、夫妻は村長の家に赴いた。石畳の道、道脇にそよぐ柔らかな雑草、レンガの外壁、赤茶色の屋根。見慣れた風景がやけに居心地悪く感じる。しかし二人はフルーの腕でスヤスヤと眠る赤ん坊を見て、意を決して村長宅の玄関を開けた。
村長にことのあらましを話すと、信心深い村長は「きっと湖の神様が敬虔なドルド夫妻への感謝の印としてその子を授けたのだ!」と養子にすることを勧めた。恐ろしい想像をいくつもしていた二人にとっては拍子抜けだった。そんなにあっさりと決めて良いのか? と夫妻は思ったが、実際こうだから良いのだろう。
フルーは昔、病気のために子宮を摘出しており子は望めなかった。夫妻にはその赤ん坊を引き取ることに抵抗もあったが結局は、他の誰かに渡すくらいなら自分たちの手で、という気持ちが勝ったのだった。
赤ん坊はロバートと名付けられた。一度は諦めた我が子。その喜びは大きかった。その出生から奇異な目で見る村人もいたが、大抵は優しかったことに安堵し、心から感謝した。
と、これがロバート出生の秘話と題して再三聞かされた物語である。この話が嘘だとは、彼は全く思っていない。