第一章 オルレアンの包囲
ロイドの死から数百年が経った。もはや世を去った王子のなど、記憶する者は誰もいなくなった。
そして時はいくつもの通過点を通り、途切れる事無く無限の旅路を進み続ける。幼いヘンリー六世とシャルル七世の対立の時代。これもまた一つ通過点であった。
百年戦争の真っ直中、イングランド軍は次々都市を占領し、フランス軍はロワール川以南へ追いやられていた。トロワ条約により、ヘンリー五世はフランスのかつてのイギリス領を奪回し、シャルル六世の娘を妻にしてイギリスとフランス両国の王となっていた。しかしシャルル六世の息子、シャルル七世はトロワ条約を無視してフランス王を名乗り、反イングランド勢力との同盟を結んで戦を始めた。しかし戦況はフランス側にとって好ましいものではなかった。十月、イングランド軍はオルレアンに攻め込み、周囲に砦を築いて街を包囲した。包囲は冬を過ぎても続いていた。
三月の肌寒さが残る曇天の空の下、しばしば吹く風がより寒さを増さしていた。オルレアンの街の前を流れるロワール川の北岸を守るため、イングランド軍は砦の建設にオルレアン市民を従事させていた。砦はオルレアンと橋によって結ばれている。中でもトゥーレル砦はひと際大きく、いくつものカノン砲が顔を出している。その灰色をした要塞は、天にすらもその存在を刻み付けていた。
一方オルレアンの街中では、市民が駆り出されたために静まり返り、まさに静寂といった言葉がよく似合っている。そこへ馬を駆ける音が刻々と迫って来た。イングランド軍の中尉アランとその部下である。もちろん上官であるアランが先頭に立っていた。二人は将軍に呼び出され、町の中心部へと向かっていた。あちこちに矢や砲弾の残骸が残る街角を曲がると、白い大きな建物が目の前に現れた。その建物だけは破損が少なく話し合いにはもってこいであった。二人は馬を降りると建物の中へ入って行った。
中は見違えるほど手入れが行き届き、白塗りの壁は窓から射し込んだ日の光と見事に調和している。しかし上段に置かれたオルレアンの領主が座る椅子には、イングランド軍の総司令官、ポール将軍が腰掛けていた。
「中尉、今の状態を王のところへ報告に行って来て欲しい」
「承知しました」「すでに包囲砦も完成しつつある。ここを物資調達の拠点として、次はブールジュを攻めようと思う」
アランは将軍に近づいて言った。
「しかし逃がした防衛軍が南岸に潜伏しています。攻め時を間違えますと奪還されます」
「分かっておる。こっちにも作戦がある。それに大将の階級は伊達ではない」
ポールは自信満々の表情だが、中尉は不安を覚えていた。
日が傾き辺りが暗くなってきた。ロワール川の南岸に逃げたオルレアン防衛軍は、成す術もなくテントに引っ込んでいた。防衛軍の隊長であるレイモンド中佐は頭を抱えて、そばにいる兵長と話していた。
「これだけの残存兵では奪還は無理です。援軍は来ないのですか」
「そうは言ってもな。どの都市も似たようなもんさ。自分らで手一杯だろうな」
「くそ!どうにもならないのか!」
兵長は悔しそうに、握りしめた拳を地面に叩き付けた。
「まあ今は変に動かん事だ。そうすれば良い知恵が回るかも知れんし、その内に援軍が来るかも知れん」
レイモンドは横になり自分の腕を枕にして眠った。兵長はランプの火を消してからその場を去った。
次の日の朝、一人の騎兵が馬に股がり駆けて来た。そしてまっすぐにレイモンド中佐のところへ向かって行った。見張りの兵に呼ばれた中佐がテントから出ると、騎兵は馬を降りて息を切らしていた。よほど飛ばしてきたと見え、馬も肩で息をしている。
「で、伝令!デュノワ将軍率いる数千ものフランス軍勢と少女が数日後に到着する見込みです!」
疲れと上官を目の前にしての緊張のせいか騎兵はたどたどしく言った。だが意味は十分伝わったようで、二人に希望の笑みがこぼれた。
「これでイングランドの奴らに一泡吹かしてやれる!ところでその少女というのは…」
「はい、詳細は分かりませんが、王も信用しておられます」
中佐には胡散臭い、いやただ正体が分からない人物の話を聞いて、軍人特有の疑り深さが表情に出ている。
「そうか。とりあえず兵長らにその事を伝えよう」
それだけ言うと、中佐はふと空を見上げた。
昨日から続く曇天の空から一つ、二つ光が漏れていた。防衛軍の絶望の空にも、まだ光はあるのだろうか。光芒の中を横切る鳥の姿を見て、中佐の表情は和らいだ。