#1-2
以前、ラムレアは、自分のどこが好きなのかと、シェイランに訊ねたことがある。
「前世の、そのまた前から、あなたとは結ばれることになっていた……みたいな気がする」
それが返ってきた答えだった。
そんな感じで、時折ぶちまけられる妄想癖を除けば、シェイランはよくできた彼女だ。
―――
10月10日、9時25分。トウカ大学、生物工学部校舎、B棟。
「珍しい、ラムレアだ」
一限の授業、神経学概論。多くの学生でざわつく講義室。その左後ろに腰掛けていたラムレアに、同学年の女子大生、ユエル=クエルが話しかけてくる。
「どうもです。……あ、ユエルさん、テキスト見せてもらえます? あと、筆記用具も」
「もしかして、手ぶらで来た?」
「ご推察の通りです。次から気を付けます」
「前もそう言ってなかったっけ」
ユエルはため息をつき、ピンク色のシャープペンシルをラムレアに手渡す。
チャイムが鳴り、教授が入ってきた。
ゼンダ=スルガ教授。“その道では有名な人物”らしいが、一体どの道なのか、ラムレアもユエルも、おそらくこの講義室にいるほとんどの学生は誰も知らない。ただ一つ確かなのは“眠りのゼンダ”という綽名だけだ。
抑揚のないリズムでテキストの解説をはじめ、小さな字で黒板に板書をはじめる。
元より丁寧に教えるつもりなど毛頭ないのであろう、その淡々とした講義に、学生たちは次々と眠りに陥っていく。隣にいたユエルも、最初は目を細めて黒板の文字を書き写そうとしていたが、やがて舟を漕ぎ出しはじめた。
ラムレアは眠ることなく、しかし目の前の講義を聞くでもなく、ただぼうっと、教授の小さな声だけが響く講義室を見渡す。
平和な日常である。講義室には怠惰な空気が流れ、居眠りしている者や机の下で個人端末を弄る者もいる。
(今日は確か、十七時にシーちゃんと駅前で待ち合わせでしたっけね)
スケジュール帳など持たないラムレアが、忘れないように頭の中で予定を復唱する。シェイランは時間に厳しい。遅れればしばらく不機嫌になる。どうせすぐ元通りになるだろうが、一応気を付けなければ。
「じゃ、答えてもらおうか。――ラムレアくん」
突然名指しされ、ラムレアは我に返った。普段は学生に答えさせることなど一切しないゼンダ教授が、たまたま、しかも自分を指したのだ。脇にいたTAがマイクを渡す。目を覚ましたユエルが、気の毒そうな顔でラムレアを見る。
「逆行性変性、です」
すらり、と言葉が口をついて出た。
ゼンダ教授は無言でラムレアを一瞥し、再び講義に戻る。どうやら正解だったらしい。
「ラムレア、もしかして、講義、聞いてたの?」
「いえいえ。たまたまですって」
―――
同日、13時17分。トウカ大学、西学生食堂。
学食内の大型テレビを食い入るように見ていた周囲の学生から、歓声が上がった。
「よっし! よし! 攻略した! 行った!」
「拠点オッケー! あの場所さえ落とせば、勝ったも同然じゃね!?」
「まだ油断できないっしょ」
「なあ、なあ。これで勝てば、次は食品が免税だろ。連勝! 連勝! ただでさえバイトのシフト減ってんだから、頼むぜ、おい!」
ラムレアはカレーを口に運びつつ、耳で会話の内容を聞く。
学生たちが見ているのは“政治交渉”の中継だ。
“政治交渉”。それはこの世界の重要な理。
勝てば周りの暮らしは良くなる。負ければ悪くなる。ラムレアの住む世界は“そういうことになっている”。
「勝つといいね、今回も」
トレーにサラダとヨーグルトを盛ったユエルが、そう言いながら隣に来た。
「今回も、ですか?」
カレーを完食し、湯飲みに注いだ水で薬を飲みながら、何気なくラムレアは問い返した。
「やだ。ラムレア、寝惚けてる? 前回はこっちがようやく勝って、念願だった燃料輸入出の条件を取り付けたんじゃない」
「これはご丁寧な解説、ありがとうございます」
「一大事件だったのに」
「すみません。興味のないことには疎くて」
「世界情勢とか事件とか、もっとそういうの気にしなくちゃダメだって。私達、大学生なんだからさ」
「じゃあユエルさん、今の外務大臣の名前、答えられます?」
ユエルが黙る。
「えーと。…………わかんない」
「ボクもです」
PPPPPPPP
突如、ユエルの携帯端末が鳴った。
「イーシャからだ」
友人からの電話らしい。
「もしもし。どうしたの、いきなり……うん、うん。え? え、え」
ユエルの顔が険しくなる。
「えーーーーーーーーーーーーっ!」
耳をつんざくほどの大きな声で、ユエルが驚きの声を上げた。声は食堂内に響き渡り、近くの学生が怪訝そうに目を向ける。
「ちょっと待って。待って。別れたって。だって昨日まであんなに……うそ、浮気?! アパートに、って……うん、うん……え、今から!? や、そっちの住所はわかるけど、だって私、まだ午後も講義が……でも…………わかった、じゃ、夕方ね。夕方、そっちにいくから。そこで待ってて。じゃ、切るよ。……はい」
電話を切り、ユエルは大きくため息をつく。
「大変そうですね」
「イーシャ、って、知ってる?」
「いえ」
「私の友達なんだけどさ。昨日、彼氏と別れたって。超へこんでた。あの二人、絶対別れないと思ってたのに」
食事をし終えると、ユエルは席を立ち、端末を見ながら駆け足で食堂から出ていった。
「大変ですねえ」
その後、ラムレアは午後の授業をサボり、一度アパートへ帰った。
―――
同日、17時0分。マガリダ駅前モニュメント“勝利の火”前。
数十年前の“初勝利”を記念して作られたというモニュメント。その下でラムレアはシェイランと合流した。
「待ちました?」
「ううん」
手を繋いで、歩き出す。
昨日の夜から、シェイランの様子が少しおかしかった。具体的に言えば、コンビニの前で何かを“思い出した”時からだ。いつもの妄想癖の産物だろうと思っていたが、どうも心に引っ掛かりがあるようで、今朝も妙に思いつめた様子だった。
「シーちゃん、お茶、飲みます?」
飲みかけのペットボトルを差し出すと、シェイランは無言で一気に飲み干した。
「具合でも?」
「……平気」
「それで昨日、その“思い出した”っていうのは」
「ごめん、レーメ。詳しいことはドクターのところに言って話す」
本当に大丈夫だろうか。
駅から徒歩十分。多くの店が並ぶ商店街を少し外れ、細い路地に入ったところにあるビル。一階。“ヴェクト・クリニック”。
受付の女性は二人の姿を見るや、黙って椅子に座るように促す。やがて時計の針が三十分を過ぎる頃、入口の自動ドアが閉められ、奥から二人の名を呼ぶ声がした。
「あーあーあーあー、どーも、どーもネ。お二人さん。相変わらず仲がよろしいことヨ」
白衣を着たドクター・ヴェクト=シラニが二人に声をかけた。医療用帽子とマスクの間にある眼はいかにも怪しげな光を放っている。年齢不詳。二人の“主治医”だ。
「今日もよろしくお願いします」
「ハイ、ハイ。そいじゃ、ラムレアくんから行くネ。で、相変わらず身体に異常はないことヨ?」
「はい。おかげ様で」
丁寧に答えるラムレアとは対照的に、横にいるシェイランはヴェクトに対しあからさまに不審げな視線を向けている。やはり様子がおかしい。
問診、胸部の聴診、口腔、瞼への検診を行い、ヴェクトはカルテにペンを走らせる。
「ハイ、異常なし、ネ。次はシェイランちゃん……シェイランちゃん?」
ラムレアの健診を終えたヴェクトに、それまで黙っていたシェイランがゆっくりと口を開く。
「ね、ドクター。聞きたいことがあるの」
「何か?」
少し間を置き、シェイランは俯いたまま低い声で答える。
「あたし達はもうずっと、一週間に一度、このクリニックに通い続けてる」
「ハイ、そうネ」
「それが当然だと思ってた。いつもみたいな定期健診。それで、あたし達は薬をもらって、また一週間後にここに来る」
「ハイ」
「でも」
シェイランが顔を上げ、そして言った。
「ドクター。――あたし達、いったい、何の病気でここに通ってるの?」