#1-1
10月8日。
マガリダ市タマヨ町、トウカ大学付近。学生アパートの一室。
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ラムレアの手が布団から出る。彷徨う腕が目覚まし時計を掴み、けたたましく鳴るアラームを止める。寝惚け眼で時間を確認する。7時2分。
「ん」
もぞ、と寝返りをうち、隣で寝ていた少女、シェイランも目を覚ます。
「おはようございます」
「……おはよ」
シェイランは緩慢とした動きで布団から起き上がる。一糸纏わぬ、無駄な脂肪のないしなやかな肢体が露わになった。半端に染まった金髪が、窓から差し込む朝日に照らされる。
「朝ご飯、作ります?」
一方のラムレアもまた同様に裸であったが、布団から頭だけを出したままシェイランに問う。
「ううん。途中のコンビニで食べてく」
「薬は持ちました?」
「持った」
近くのクローゼットから下着と制服を取り出し、手早く着ていく。ラムレアはその光景をじっくりと観察する。今日は桃色。
「相変わらず、マジメですねえ、シーちゃんは」
「レーメもたまには大学行ったほうがいいよ。フラフラしてばかりいないで」
下に制服のスカートだけを付けた格好で、腰に手を当てながらシェイランが言う。布団の虫と化したラムレアを、呆れたような目で見下す。
「気が向いたら行きますよ」
「そう言って、また寝るくせに」
ブラウスに袖を通し、ヘアゴムを口に咥えながら後ろ髪をまとめる。
「昨日の夜の疲れが、まだ残ってるんですよ。腰とかに。ボクももう年ですかね」
「……腰……」
その言葉に何かを思い出したのか、シェイランは顔を真っ赤にして、手近にあったリモコンを投げつけた。
―――
同日、11時9分。私立ヤマノ学院、グラウンド。女子体育の授業中。
「ぶっちぎりじゃん」
1,000mを走り終え、グラウンドの隅で息を整えるシェイランに、背の小さいジャージ姿の女子が声をかける。クラスメイトのシヅメ=ミズノギだ。
「走るのは楽しいから」
そう応え、シェイランはふくらはぎを揉む。遠くでは、いまだに他の女子達がだるそうに走り続けている。
「陸上部、入ればいいのに。すぐスタメン入りだよ」
シヅメは身体が弱く、体育も休みがちであるが、その世話好きな性格から陸上部のマネージャーとして活動している。決して良い成績を残しているとはいえないヤマノ学院陸上部にとって、ずば抜けた走力を持つ“帰宅部”のシェイランは喉から手が出るほど欲しい逸材であった。
「ごめん。でも、夕方はなるべく早く帰りたいから」
「それって、もしかして誰かとデートとか?」
興味深げな笑みを浮かべるシヅメ。
「違うって」
シェイランは否定し、丁寧にストレッチをする。
「なに、今の間。あやしーなー」
身体を動かすこと、特に、走ること。四肢を思い通りに活躍させ、疲労するギリギリまで動かし続けるのは、シェイランにとって最も楽しいと思える瞬間だ。なぜそう思うのかはわからない。けれど“昔から”そうだった。
「でもさ、最近この辺、夕方にあんまり一人で出歩くと良くないって言うよ」
「そうなの?」
「ホームルームでクジャコ先生が言ってたじゃん。なんか昼から夕方くらいにかけて、変な人がこの辺をうろついてるって」
噂に詳しい友人の話を、シェイランは黙って聞く。
「大学生くらいの若い男でさ。毎日誰かを探してるみたいに、たまに院の中を柵の間から見たりしてさ。シェイランちゃんも気を付けたほうがいいよ。もしかしたら誘拐犯とか、痴漢かも!」
「大学生くらいの、若い男……」
「あとさ、近所で猫とか犬とかが消えてることがあるって。うちの隣の、ベルさんちの猫も、突然消えちゃったらしいの。もしかしたら、その犯人の仕業かも、とか思っちゃうんだけど」
「……」
「それで、夜になるといなくなっちゃうって。……そうだ! だから、シェイランちゃんも、いっそ夜になるまでの時間潰しで陸上部に入るとか……どう!?」
シヅメの提案をスルーして、シェイランは顔を曇らせた。
―――
同時刻。ヤマノ学院から少し離れた、小高い丘にある公園。
双眼鏡を持った男が一人。ラムレアである。
「やっぱり早いですねえ、シーちゃんは」
大学を華麗にサボり、時折こうしてシェイランの授業を観察するのが最近のラムレアの楽しみだった。体育の授業があることは、昨夜、カバンを覗き見した時に確認済だ。
「友達も出来てるようで、何より何より」
双眼鏡の向こうにいるシェイランは友人らしき女子と話し込んでいた。
途中、何があったのか、突然周囲を見回しはじめている。
この公園はラムレアのお気に入りスポットである。学院が見えるのもそうだが、遠くに見えるマガリダの市街を双眼鏡で眺めるのもラムレアの楽しみの一つだ。そのさらに遠くにはエンデ山麓の山並みが見える。手にした大きな双眼鏡は、いつの間にか部屋にあったものだ。いつからあったのかは知らない。“昔から”あった。
チャイムが鳴り響く。女子体育の時間が終わったようだ。
「さて、夕飯の買い物にでもいきますか」
大きな伸びをして、ラムレアは公園を後にする。
涼しい秋風が、平和な住宅街を吹き抜ける。
「わぷ」
丘を降りた頃、突然、一枚のチラシが風に乗って飛ばされ、ラムレアの顔に張り付いた。
人生は一つじゃない 辛いのは一人じゃない 迷える人に 新たな道が拓けます
―世界救済機構 ヒノト支部―
「?」
新手の宗教勧誘か何かだろうか。
ラムレアは丁寧にチラシを折り、近くのゴミ箱に捨てた。
―――
同日、17時30分。マガリダ市タマヨ町、商店街。アパートに向かう、いつもの帰り道。
シェイランがため息をつく。
「本当に、今日という今日はどうなっちゃうのかと思った。要注意人物と一緒に帰ってるなんて噂が立ったら、もう学院にいけない」
スーパーの袋を片手に持ったラムレアに、低い声でシェイランが言う。
「たまに大学行けば、って、今朝も言ったばかりなのに。いつから、周りをうろつくようになったの」
「うろつくだなんて。散歩してるだけです」
ラムレアはそ知らぬ顔で隣を歩く。夕飯は肉じゃがだ。
「ろくなことしないんだから」
ぶつぶつと零しながらも、シェイランはラムレアの手をしっかりと握っている。
「あと、一応聞くけど、犬とか猫とか、捕まえたりしてないよね」
「そんなことするわけないじゃないですか」
横断歩道を渡る。電柱には“猫を探しています”の貼り紙。
確かに、最近多いらしいとは聞く。物騒なこともあったものだ。もしかしたら本当に不審者がうろついているのかもしれない。
「でも、例えばボクじゃなくて、本当の不審者が現れても、シーちゃんならすぐやっつけちゃいそうですよね」
何気なく“余計な事”を言うラムレアに、シェイランは目を細める。
「レーメ。それ、どういう意味」
「その脚でキックとかしたら、並大抵の男じゃ耐えられないかなー、とか……痛たたた!」
握られた手に、万力じみた力が加わる。シェイランは細身であるが、ほとんどが筋肉で構成されている(“それなりに大きな胸”を除く)と言っても過言ではない。さながらネコ科の野生動物の印象だ。
「ここに“並大抵の男”がひとり」
ぎりぎりと締め上げられる手。
「ぼ、暴力はダメです、暴力は! ほら、豆腐が落ちちゃいます!」
ラムレアは涙目で抗議する。
「本来なら、レーメがあたしを守ってくれるはずなのに」
「それ……“前の記憶”ってやつですか」
握られた手が緩む。
「うん。本当なら、レーメはどんなことがあってもあたしを守ってくれる人なの。ずっとそうだった。分かってるんだから」
またぞろ不可解なことを言うシェイランではあるが、ラムレアは特に気にしていない。
「努力しますって」
「信じてない?」
「信じてます」
「じゃあ、もうちょっと、ちゃんとして。変なことばっかしてないで」
「でも、恋人の顔を見続けたいって思うのは、いけませんかね」
その言葉にシェイランは俯き、小さな声で呟く。
「う、また、そういうこと言って、はぐらかそうと……」
声に覇気がなくなる。だいたい機嫌が悪くなった時は、こういう事を言えば大人しくなる。それなりに長い付き合いの中、ラムレアはこの“ネコ科の野生動物”の扱い方を心得ていた。
いつものように、コンビニがある十字路を通り過ぎる。
コンビニの入り口には“戦勝セール“と書かれていた。
「……ううん。でも、やっぱり今日はダメ。いつも調子のいいこと言って、次の日には元通りなんだもの」
きっ、と睨みつけられる。
「明日からちゃんとします。許して下さい、シーちゃんさん」
「だめ」
「じゃ、どうすれば、許してくれます?」
するとシェイランは手を離し、走り出した。
過ぎたばかりの十字路に引き返し、コンビニを指差す。
「甘いものが食べたい」
「いいですね。甘いもの?」
「……チョコレート」
「や、もっと豪勢にいきましょうよ」
「プリン」
「ケーキ」
「タルト。果物がのったやつ」
「もう一声」
「……いちごパフェ」
「いいですねえ」
……。
珍しいこともある。普段、シェイランは献立や好みに関してほとんど物を言わない。おそらく興味がないのだろうと思っていたが。
ラムレアが財布の中身を確認しながらシェイランに近寄る。
「シーちゃん? で、パフェでいいんです?」
「……」
コンビニを見つめたまま、シェイランが固まっていた。
「もしもし?」
ぼそぼそと何かを呟いている。
「?」
耳を澄ませる。どうも、今のやり取りを復唱しているらしい。
やはりタルトと迷ったのか。それとも初めに浮かんだチョコレートには抗えないか。間をとってチョコケーキはどうだろうか。何でも好きなものでいいですよ、とラムレアが言いかけたその瞬間、シェイランが勢いよくラムレアに向き直った。
「シーちゃん?」
「あたし。なんか、覚えてる」
「?」
「――このやり取り……昔、した覚え、ある」