幸せと希望を繋ぐ『ホット・ライン』
年明けのある日、ボクの住む家に年賀状が届いた。ボクの彼女である志帆さんがそれを取りに行ったあと、ざっと目を通した。その最中、ある一通を見て、リビングにいる彼女は突然ボクを呼んだ。
「ダイちゃん、ちょっとこれを見て。あの人からあなたにいてる年賀状よ」
ボクはすぐに部屋を出て、彼女から渡された年賀状を見た。そして、差出人の名前を見て、思わず顔がほころんだ。
「あ、エリカからだ。ボクのために年賀状を出してくれたんだ。うれしいねえ。もう何年も、誰からももらってないからな」
などと言っていると、横から彼女がボクを見つめながら、
「よかったわね。私のほかに、あなたのことを気にかけてくれる人がいて。これからもエリカのことを…… え?」
ボクと一緒にエリカが出した年賀状を見ていた彼女は、ある部分を見て、思わず声を上げた。
「えー、そうなんだ。エリカ、3月に結婚するんだって……」
それを聞いて、ボクは改めて年賀状をじっくりと見た。すると、『明けましておめでとう』の文字や印刷された絵の下には、以下の内容の文章が書かれていた。
-お元気ですか、ダイちゃん。志帆さんとはうまくいってますか? 私は、あなたならきっとうまくいくと信じてます。あとは大事なお話が二つ。一つは、3月に彼と結婚することが決まったこと、もう一つは、あなたに感謝の気持ちを目一杯に綴った手紙を送ったことです。サプライズがあるかも知れないので、楽しみにしてください-
あの……、ボクはダイキじゃなくてヒロキですけど……。メールで何度も伝えたはずですけど……
と突っ込みを入れてみたくなったが、すぐにやめた。ボクの名前は『大輝』と書いて『ひろき』と読むのだが、なぜか、エリカには初めて会った時からずっと『だいき』と呼ばれ続けていた。最初は呼ばれるたびに『ひろきです』と彼女に伝えたのだが、それでも呼ばれ続けた結果、言うのも面倒になり、彼女には『だいきと呼んでいいよ』と言った。それがいつしか、彼女から『ダイちゃん』と呼ばれるようになり、自分も気に入って現在に至っている。今では、付き合ってからずっと一緒に暮らす志帆さんに『ダイちゃんと呼んでね』とわざわざお願いするぐらいである。しかしこの内容だと、わざわざ年賀状でなく、メールで送ればいいのでは……、と思い、改めて年賀状を志帆さんに見せつつ、
「なあ、これって、メールで送ればいいと思うんだけど……。結婚の報告はともかくとして……」
と聞いてみた。すると志帆さんは、
「どうしたの? せっかくダイちゃんのために、エリカが出してくれたのよ。彼女は結構まめなところがあって、本当に大事だと思った時には、メールではなく、手紙や電話で伝えてくるの。この中に、あなたへの感謝を綴った手紙を送ったって書いてあるでしょう? だから、その手紙を楽しみに待ちましょう」
そう答えた。改めてスマホに入ってあるメールを見てみると、去年の11月に送られたメールの中に、近いうちに感謝の気持ちを込めた手紙を送る旨のメールが残っていた。それを読んだボクは苦笑いしながら
「そうだった。エリカって、結構手紙を出してくるんだった。すっかり忘れてたよ」
と話した。志帆さんは、ボクの後ろに回って、
「もう、ダイちゃんって、そういう抜けたところがあるんだから……。エリカも『もう少し周りを見て』って言ってたわ。それでも、初めて会った時に比べれば、かなりよくなった方だけど」
と言いながら、突然ボクを抱き締めた。彼女の大きな胸のぬくもりを感じながらも、
「ちょ、ちょっと志帆さん、いきなり何やってるんですか!?」
とあわてふためいた。すると彼女は、
「志帆ちゃん、でいいわよ。一つだけどあなたが年上なんだし。それに、この大きな胸のコンプレックスを取り去ってくれたのは、あなたなんだから……」
そう笑顔で答えた。
……胸のコンプレックス……?? そんなのあった……!? 普通、コンプレックスになるのは、小さい場合が圧倒的に多くて、大きいことがコンプレックスになるって話は、なかなか聞かないものだが……
ボクは、志帆さんの言葉に少々戸惑いながらも、
「いや、本当にテレるなあ。だけど、最初は何で志帆ちゃんが、ちょくちょく胸のあたりに視線を落とすのか、不思議には思ったけど」
こう話すと、志帆さんは、
「そうねえ。だけど、ダイちゃんは私のこの胸を、性的でもいじめの対象でもない、私のいいところとして見てくれたのよ。『人をなごませる』とか、『包容力がある優しい女性』だとか……。おかげで、今ではいろいろな人にもペットにも親しまれるようになったし……。ダイちゃんが私の店に来てくれて本当によかったわ」
そう言いながら、ボクの顔に胸を当てる形で抱き締めた。ボクは照れながらも、彼女の胸の、いや、それだけではない、心のぬくもりを感じ取った。そして、志帆さんと出会えて本当によかったと実感した。これが今の言葉でいう『リア充』なんだ、と……。しかし、志帆さんがいじめを受けてたって話、初めて聞いたよ。それにちょっと苦しいし……
ボクは、例の手紙が届いて来てないか、見に行こうとして立ち上がろうとした時、彼女は、
「あ、ダイちゃん、もう少しそのままでいさせて。私も、あなたの心のぬくもりをもっと感じたいの。だけど、あなたが苦しそうにしてるのに気づかなくてごめんね」
と言い、腕を少し緩め、背中をさすった。ボクも志帆さんを抱いて、しばらくの間、余韻に浸っていた。互いの表情が笑顔にあふれていて、本当に気持ちがよかった。いつまでもこの状態が続いてほしい、と思い始めた時、インターホンが鳴って、
「お届けものです」
という声が聞こえた。
「あ、はーい。今行きます」
そう言うと、志帆さんは玄関に小走りで駆け寄った。もう少し抱き合ったままでいたかったが、彼女が玄関に行ったのでは仕方がない。それにしても、お届けものが何なのかが気になるところだ……。なんて考えていると、彼女がお届けものを抱えながら、リビングに戻って来た。そしてこたつの上に置いて、
「ねえ、これを見て。エリカが私たちに届けてくれたものよ。開けてみましょう」
と言い、包装紙を破ろうとしたが、伝票に書かれてあるお届けものの内容を見てボクは、
「あれ? この中、衣類が入ってあるみたいだよ。じゃ、手紙は入ってないみたいみたいだね」
そう伝えた。すると志帆さんは、
「でも、この伝票には『衣類他』って書いてあるわ。開けてみないとわからないでしょう?」
そう問い返した。ボクは
「え? そうなの!?」
ちょっと驚いた感じで言った。彼女は、
「あらあら、また抜けちゃったわねえ。そういうところは、もう少し注意した方がいいわ。店でも、たまに確認不足などの不注意から起きるミスが出てるし」
ゆっくりと諭す感じで話したが、その表情は穏やかで、笑顔がにじんでいた。そして、おもむろに、包装紙を破って箱の中を開けてみると、
「あれ? 中に一冊のノートが入ってあるわ。えーと、なになに、『ダイちゃんと志帆さんに送る感謝の文集』……??」
その言葉を聞いたボクは、
「ああ、やっぱり来たんだ。本当に楽しみにしてたよ」
と、うれしそうに声を上げた。
……え? “文集”!? 手紙じゃなかったの……??
その事に気づいたボクは、
「エリカって、こんな文集とか送って来たっけ……?」
そう志帆さんに聞いた。彼女は、
「そうね……、ノートにして来たのは、私の知る限り、初めてじゃないかしら……。便箋で10枚程度まとめて来た例はあるけど」
首をかしげながら答えた。ボクはそのノートを取り、ページを開こうとしたが、ほかに入っているものを見た彼女は、
「これって、何?」
そう言って、袋の中にある衣類らしきものを取り出した。それを見た彼女は、顔をほころばせながら
「わあ、こういったの欲しかったんだ」
と言い、ボクにも見せた。彼女が両手に抱えているのは、温もりが感じられるマフラーと、動物の柄を模したようなデザインをしたタイツであった。
「ねえ、このマフラー、すんごくふんわりとしてるわ。ダイちゃんもちょっと触ってみて。どんな感じ?」
彼女はボクにマフラーを渡して、感想を聞いてきた。ボクは
「これいいねえ。ふんわりしてる上に、結構しっかりできてるね。どこで買って来たんだろう?」
そう彼女に聞き返した。彼女は
「私にもわからないわね。だけど、ものはしっかりしてるから、いいものだと思うわ」
と、少し考えながら答えた。その時、こたつの上にある紙を見たボクは、それを取り、目を通した。その紙にはこう書いてあった。
-いつも仲のいい二人へ
今回私は、マフラーづくりに挑戦してみました。彼のために何か作ってあげたいと考えてますが、あなたたちに感謝したい気持ちがいっぱいになったので、最初の作品は、志帆さんにプレゼントすることにしました。私なりにうまくできたとは思いますが、気に入ってくれるかどうかちょっと心配です。これから寒くなる季節ですが、体に気をつけて店の仕事を頑張ってください。今度ペットを飼った時には、必ずあなたたちの店に連れて行きます-
ボクはその紙とマフラーを持って、
「志帆ちゃん、これエリカの手作りのマフラーだよ」
と声をあげたが、全く反応が無かった。
「どこ行ったんだ? さっきまでここにいたはずなんだけど……」
ボクは首をかしげた。
「まあいいか。戻ってくるまで、駅伝見て待つことにしよう。多分トイレにでも行ってるだろうから……」
そう言って、リモコンを取ってテレビをつけてから、改めてマフラーをじっと見つめた。しばらくすると、志帆さんがうれしそうな表情をしながら、リビングに駆け込んだ。そして
「見て見て、ダイちゃん、この私のコーデ。似合う?」
と聞いてきた。ちなみに容姿に関しては、ボクも志帆さんも、ごく普通の現代の若者とさほど変わらない。ただ、志帆さんの胸が結構大きいこと(聞いた話ではGカップ相当)を除いて、である。ボクは少し驚きながらも、
「いいねえ。本当によく似合うよ」
そう笑顔で答えた。すると彼女は、こたつの上に置いていたマフラーを取り、それを首にかけて、
「このマフラー、私すんごく気に入っちゃった。寝る時につけてもいいぐらいなの。今はいてるタイツもいいし。早速エリカにお礼を言わないと……」
そう話しながら、ボクのそばへ寄って来た。
いやいや、マフラーは普通寝る時には外すでしょう?
そう言おうとしたが、なにぶんボクは着るものに関しては、ほとんどセンスや関心が無かったぐらいで、志帆さんのアドバイスなどにより、ようやく、着こなしのレベルが多少は上がったほどである。エリカにもその辺りは何度か指摘されたことがある。だから、服装や着こなしについては、今でもほぼ志帆さんに任せきりの感じである。さすがにそのままではいけないのだろうけど……
ボクがマフラーのことを言おうかどうか迷っていた時、彼女は、
「あら、どうしたの?」
と首をかしげた。ボクはちょっと慌てた感じで、
「いやいや、特に何もないけど……。あ、そういえばそのマフラー、実はエリカの手作りの作品なんだ。この紙に書いてあったんだ」
そう答えて、こたつの上に置いてあった紙を志帆さんに渡した。すると、彼女は驚いた表情をしながら、
「本当に!? エリカって、これだけすごいもの作れるんだ。あの時のエリカと同じ人なのが信じられないぐらいに成長したのね……。私、本当にうれしいわ……」
最後は涙ぐむ感じで、紙を持ちながら両手を胸に当てた。その彼女の姿を見たボクは、そっと彼女のもとへ近づき、
「そうだね。ボクも志帆さんと同じ気持ちだよ」
こう述べた。すると彼女は、
「あらあら、“志帆ちゃん”でいいのに……」
と答えたあと、何かに気づいた感じで、
「そういえばダイちゃん、あの例のノート、私が着替えに行った時に見てみた?」
こうボクに聞いてきた。ボクは
「あ、まだ見てないね。見るつもりだったけど、あのちょっと……」
答えが途中から何となくしどろもどろになっていた。その様子を見た彼女は疑問に思い、
「ダイちゃん、何かあったの? 別に言葉につまるような質問じゃないのに……」
そう答えた。ボクは
「いや、そうじゃなくて、あの、マフラーがよかったから、じっと見つめて……」
それ自体は事実なのだが、もはや答えになっていない感じだった。それを聞いた彼女は、
「……言い訳するのね。私、そういったことに関しては、ちょっと厳しいから」
そう断った上で、
「ダイちゃん、言い訳はなくしていった方がいいわ。言い訳ばかりしてると、人からの信用が無くなるわよ。私たちの仕事は、その信用や信頼といったものが大切なの。それはいつも頭の中に入れておくべきね」
厳しい口調で、ボクに話した。ボクはその間、何も言えなかった。その様子を見た彼女は、
「それでも、ダイちゃんだって、初めて会った時からは大分成長してるわ。最初は、『本当にエリカが“私を救ってくれた恩人”という人なの?』と思ったけど、あなたと過ごして行くうちに、“優しさ”というものがひしひしと伝わってきたわね。言い訳に関しても、以前に比べれば少なくなってきてるし、ダイちゃんの成長ぶりは、お客さんもわかってるから」
先ほどとは一転して、穏やかな語り口でボクに伝えた。ボクは、
「そう言ってくれてありがとう。今の自分があるのは、志帆ちゃんのおかげでもあるから」
と彼女に伝えた。すると彼女は、
「それはお互い様でしょう? 私もダイちゃんと一緒にいたから、ここまでやっていけたのよ。長い間悩んできた胸のコンプレックスもなくなったし……」
そう笑顔で答えた。
よかった……。志帆さんも同じ気持ちだったんだ……
ほっとするボクであったが、実はずっと心に引っ掛かっていることがあった。それは、自分の家族のことであるのだが、エリカにも深く関わることなので、なかなか言い出せずにいた。いずれは志帆さんにも話さないといけないと思っているのだが、なかなか言い出せないまま、ここまできてしまった。本当は、心の中にノートの読むのをためらった部分があったのだが、何か踏ん切りがつかなかったために、言い訳じみた答えが出てしまったのだろう。
などと、いろいろ考えていると、志帆さんが、
「ねえダイちゃん、エリカが書いたあの文集、一緒に読みましょう。私も見たいから」
そう言って、あのノートをボクのところに持ってきた。ボクは少しためらいながらも、
「そうだね」
と一言、うなずきながら答えた。それを聞いた志帆さんは、早速ノートを開いて、ボクに一緒に見るように促した。その時、ノートに挟まっていたであろう、便箋らしきものがヒラヒラと落ちてきた。そこには、こう書かれていた。
-このノートには、ダイちゃんと志帆さんに対する感謝の想いを、できるだけふんだんに詰め込んでいます。私が『冷たい人だ』と一方的に思って避け続けた時にも、ひそかに私のために涙を流してくれた志帆さん、そして、私と同じ恥ずかしがり屋でありながら、私の命を、心を救ってくれた恩人であるダイちゃん、二人との“ホットライン”があって、今の私の幸せがあるわけです。ぜひ一緒に読んでください-
これを見た彼女は、
「本当にここまでたどり着けたのね……。一昨年の夏の時は、私もどうしていいかわからなくなったほど、ひどい状況だったし……」
そう感慨にふける感じでつぶやいた。ボクは、ただうなずきながら、彼女の言葉を聞いていた。そして彼女は、改めて最初のページを開いていたノートをボクの前に置いた。そのノートは、以下の文章から始まっていた。
-ダイちゃん、志帆さん、お元気でしょうか? この度、来年の3月に結婚することが決まりました。あ、このノートが届く時には、もう今年になってますね……。お相手の方は、厳しい一面がありますが、私やダイちゃんのような人を理解してくれる方です。そういえばダイちゃんは、彼と幾度かお会いしたことがありましたよね。彼も、あなたの力添えをしたいと言ってました。私を救ってくれた恩人としてだけではなく、あなたの優しさを感じ取ってたのでしょう。それと、ダイちゃんが歴史に興味があるということで、『機会があれば、歴史に関する新たなグループを作って君を誘いたい。できれば志帆ちゃんも一緒に』と言ってました。彼も志帆さんがいれば、お互いが成長できると感じてます-
あれ? 『感謝の想い』という割には、何か違うのでは、というより、こんなことを書いて本当に大丈夫なの……?? と思いつつも、続きを読んだ。
-前置きが長くなってごめんなさい。改めて、ダイちゃんと出会った時からのことを綴ります。
ダイちゃん、初めて出会った時は、お互いに散々な状況でしたね。あの時の私は、生きることに絶望してるような状態でした。志帆さんと連絡もせず、ひたすら避け続けた日々、そして、職場や家族の誰からも助けてもらえずにひたすら苦しみ続けた私は、去年の秋、職場の人たちと女子会で飲んだ、いえ、飲まされたあと、帰りの駅のホームで、何度も吐いたあと線路に落ちそうなところを、あなたに助けられ、心配までしてくれました。それなのに、帰りの電車の中では、互いに気まずい雰囲気でほとんど何も話せず、終点で降りたあとはあなたに文句をいい続け、『死なせて』と何度も言いながら、逆にあなたにつかみかかる有り様で……。今思えば、本当に大変なことをしてしまった、そんな気持ちです。それと同時に、そんな私を見捨てずに、優しくしてくれたダイちゃんや、ずっと見守ってくれた志帆さんには、感謝の気持ちでいっぱいです-
これを見た志帆さんは、
「ダイちゃん、これって本当なの?」
と聞いてきた。ボクは、
「いや、実は正直に言って、エリカを助けたことと、彼女とスマホのメアドを交換したこと以外、その時の記憶が無いんだ。他に自分がやったことや、エリカがどんな姿をしてたのかさえ、ね。今思えば、あの時はボクも人と、特に女性と一緒にいると居心地が悪い感じがしたし、本当は何をやりたいかが、いや、自分が何を話せばいいかもわからない状況だったんだ。そんな状況でよくメアドの交換ができたな、と思ってるよ」
そう答えた。すると彼女は、
「そうだったの……。その話は初めて聞いたわ。あなたも、エリカと同じかなりの恥ずかしがり屋だったことを知ったのは、私のところに来てからしばらく経って、お客さんの一人に『この人、恥ずかしがり屋じゃないの?』と聞かれてからだったし……。そのお客さんがあなたと以前に関わりがあった、ということも私はびっくりしたけど……。エリカに関してももっと早く、恥ずかしがり屋の線を考えていれば、彼女をあそこまで追い詰めずにすんだかも知れないし……」
顔をうつむいて、そのように話した。ボクはその間、彼女の話を聞くだけだった。彼女は一息ついたあと、
「それでも、ダイちゃんがエリカとアドレス交換できたのは、二人にとって、この上ない幸運だったと思うの。おそらくエリカもそう感じてるわ。だって、それが二人をつなぐ“ホットライン”になってるでしょう? 少なくとも、エリカはあれで心と命を救われたのだから」
こう話した。ボクは、それに同意するように、
「ああ、ボクもそう思うよ」
とうなずきながら答えた。そして、
「早く続きを読もう」
そう志帆さんに促した。それに応えた彼女は、再びノートをボクの目の前に置いて、ボクと一緒に読み始めた。
-エリカが書いた文集にのってあった“散々な状況”とはどういうことなのか? 大輝とエリカが初めて出会った時から、しばらくあとまでの、二人を中心とした状況はこれから書くような感じで進んでいた-
ある秋の夜、作業着を着た男性・大輝が駅のホームで待っていた。足取りがいつもとは違う感じで顔が赤くなっていた。どうやら、仕事が終わったあと、誰かと飲みにいった帰りのようだ。夜も11時を回ったのか、ホームにいる人はまばらであった。そんな中で、スーツ姿の女性・エリカが、ふらふらになりながら、階段を降りてきた。明らかに酔っているとわかる感じで、きれいな姿が台無しになるほど顔が青ざめていた。そして、ホームの端まで歩くと、その場でうずくまって、いきなり線路に向かって吐き出した。そして何度も吐いたあと、しばらくその場を動かなかった。その姿を見た大輝は、心配なったのか彼女に近づいたものの、どうしていいかわからず、ただおろおろしていた。まもなく、電車の到着の合図が鳴り響いた。それを聞いたエリカは立ち上がろうとしたが、足がもつれて、ホームから転落しそうになった。その状況を見た彼は、すぐさま彼女を後ろから抱きかかえた。その時、二人はもつれるように後ろに倒れた。それから、彼が彼女を横から抱えたところで、電車が駅に停車した。二人はすぐにその電車に乗った。もし大輝が、エリカが転落することに気づくのが遅ければ、彼女の一生はここで終わっていたかも知れない。
二人が椅子に座ろうとした時、
「……痛い……」
とエリカが右足を押さえた。見ると、黒いストッキングがすれていて、そこから血がにじみ出ていた。これを見た大輝は、
「あの……、ケガは、大丈夫……? それと、顔色も悪いよ」
そう言って、彼女のもとに近づいたが、彼女は
「……大丈夫だから来ないで……」
と、顔を背けながら、体を横にして言った。明らかに、誰が見ても大丈夫そうには見えないのだが、彼もそれ以上は何もしなかった。いや、できなかった。それから数分間、両者は無言のままで、気まずい雰囲気が漂っていた。その後、沈黙を破る感じで大輝が、
「あ、あの……、ボクは大輝と、言います……。ぜひ、スマホのメアドを……、教えて……ください」
と言い、『新川大輝』という名前と、彼の持っているスマホのアドレスが書かれている紙を、無言のままの彼女に渡した。普通は、初対面の人に対して相手の自己紹介すら聞かず、いきなり一方的にアドレス交換を求めることはしないのだが、この時の彼には、そこまで考えが回らなかったと思われる。というのも、彼の話し方がぎこちなく、アドレス交換に必死だった様子からもうかがえる。どうやら、彼は結構な恥ずかしがり屋のようである。その様子を横目で見たエリカは、迷いながらも、まだふらふらの状態で起き上がったあと、紙を受け取り、カバンの中から、一枚の名刺とペンを取り出した。そしてスマホを確認しながら、名刺の裏にアドレスを書いたあと、
「……これ」
と半ば無愛想で、かつ自信なさげな感じで、彼に渡した。彼はそれを受けとると、ポケットに入ってあるスマホを取り出した。そして名刺を確認した。表には彼女が働いている会社や、『高津エリカ』という彼女の名前などがのっていたが、ちょっと目を通したあと、すぐに裏を見て、慎重にアドレスを登録した。そして、そのアドレスに『アドレス交換ありがとう』という言葉と、自身のスマホのメアドと電話番号をのせたメールを送って、彼女にお礼を述べた。しかし、そのあとは、二人とも無口になったまま、互いが目を合わせようともせず時間だけが過ぎ、気まずい雰囲気のまま電車は終点に着いた。エリカも大輝と同じ、恥ずかしがり屋のようだ。
電車が着いたあと二人は一緒に降りたのだが、エリカの方は、相変わらず足がふらついていた。心配になった大輝は、彼女を右から抱え、左腕で二人のカバンを持った。そして、二人一緒に改札口を通り、駅を出たあと、近くのベンチで彼女を休ませ、自身は彼女の隣に座った。すると彼女は突然起き上がって、
「ねえ、あなた『だいき』っていうの……?」
と彼に問いかけてきた。彼は、
「いや、ボクは『ひろき』、ですよ……」
となぜか自信なさげに答えた。彼女はそれを全く無視した感じで、
「どうしてあの時……、私を助けたの……? あの時、私に一体何をやったの……!?」
そう彼に聞いた。彼は
「ええ!?」
一瞬言葉につまったあと、
「ええと、あの時、エリカさんが駅のホームから落ちそうになったから……、それに気づいて……。ええと、もしかして、そのことに気づいてないの……!?」
少し驚きながら逆に彼女に聞いた。彼女はなぜか怒りだし、
「どこで私が落ちそうになったの!? 失礼なことを言わないで」
そんな言葉を彼にぶつけた。どうやら彼女は、ホームに転落する時の記憶が無いか、もしくは曖昧になるほど酔っていた様子だ。彼は、
「あの……、帰りの電車に乗った駅のホーム……、だけど……。……本当にエリカさんが助かって、よかったよ……」
そう言って、彼女を抱き締めた。すると彼女は、
「ちょっと離して! だいき、あなた何やってるの!?」
そう言いながら体を振りほどいた。そして、
「もう変なことをしないで。何かおかしなことを考えたんでしょう、あなた」
怒りをぶつける感じで彼に言った。それに対し彼は、
「いや、ボクは、そんなこと全く考えてないよ。ただ、エリカさんが助かったから、うれしかったし……。それにあのまま電車にひかれるなんて、そんな人を放っておけないよ……。あと、ボクはひろきですし」
そう彼なりに、はっきりとした口調で答えた。ところが、
「そうなの……。だったら、私なんか助けてくれなくてよかったのに……。何で余計なことをしたの……!?」
と、意外な答えが返ってきた。
おそらく、この場にいたとすれば、ほとんどの誰もが予想できなかった答えであろう。大輝も、この言葉を前にして、ただうろたえるしかなかった。そんな彼を尻目に、彼女は、
「どうして私を悪者にしようとするの!? 私が何かやったの!? 何で私ばかり何度もひどい目に遭わなければいけないの……!? もう、ここで死にたい……。私、これ以上生きて行けない……」
もはや支離滅裂としか言いようが無い感じで、ひたすら彼に怒りをぶつけ、さらには彼につかみかかり、
「ねえ、私をここで死なせて。もう私にかまわないで」
そう叫んだ。幸いか不幸か、二人の近くには誰もいなかった。
「痛い痛い。ちょっとエリカさん、一体何やってるんですか!?」
必死に振りほどこうとする彼だったが、なかなか振りほどけなかった。どうやら、エリカの方が大輝より力が強いようだ。そんな彼の状況などお構い無しに、彼女はしばらくの間、『死なせて』と何度も言いながら、彼を揺さぶった。そのあと彼を突き放して、ベンチに座り込んだ。呆然とした彼と共に、そのまま時間だけが過ぎていった。十数分後、エリカは無言のままベンチから立ち上がって、近くにある自分の家に帰るため駅を後にした。その表情から、後悔している様子が浮かび上がった。それから数分経ったあと、大輝も駅から去った。ただ彼は、自分が今どうしていいのか、全くわからない状況だった。ちなみに彼の実家も、最寄り駅やエリカの家からそう遠くに離れてはいなかった。
それから数日後、休み明けで会社に出社したエリカは、元気が無さそうな感じで、周囲の人たちも首をかしげるほどであった。そんな時、職場の先輩の一人が、
「先週の女子会どうだったの?」
と聞いてきた。周りの人が慌てるように
「ちょっと、さすがにそれはまずいわよ」
と、その先輩社員をたしなめるように言った。それでもエリカは、
「ええと……、楽しかった……です」
そう先輩に伝えた。この先輩社員は、仕事では着実に実績を上げており、仲間うちではちやほやされる存在であったが、時折、このような場違いな発言をすることがあった。それに実のところ、エリカは内心では彼女を嫌っていた。以前、彼女にアドバイスを求めたことがあったが、彼女からのいい返事やアドバイスが無かった。また、例の女子会でエリカに酒を飲ませたのも、この先輩である。そのせいで、エリカは危うく命まで失いそうになった。彼女にとっては、楽しいどころか、ひどい目にあわされたことになる。普通なら、もう二度とあの時のメンバー、特にその先輩とは一緒に行きたくないはずであるが、彼女に嫌われたくないがために、エリカは『楽しかった』と伝えたのである。彼女以外にも、例の先輩社員を嫌っている人はいたのだが、エリカ同様、その事を言えなかった。現にその先輩に嫌われたために、会社を辞めることになった人もいた。
さて、エリカに『楽しかった』と言われた先輩は、
「そうよねえ。エリカならそう言ってくれると思ったわ。また一緒に行きましょう」
エリカの肩を軽く叩きながら、弾むような声で話した。彼女のことなどお構い無しである。それを聞いた彼女は、
「ええ……、また、一緒に行きたいです……」
そう答えた。その時、始業のベルが鳴り響いた。話をしていた人たちも、全員自分の席に座った。エリカの仕事ぶりはというと、実績では社内でも上位に入るほどであったが、彼女自身、充実感を感じられないままであった。それに、悩みを打ち明けられる人もいなかったので、いつも不安に苛まれたり、悩みを抱えて苦しむ状況が、表情からも読み取れた。
その日もエリカは、例の先輩社員を中心としたグループから、あれこれといびられ、ひたすらそれに耐え続けた。そんなことがかれこれ数ヶ月前から続いたため、彼女はいつうつ病になってもおかしくない状況まで追い込まれた。しかし、そんな彼女を気にかける人はいた。彼女の大学時代に知り合い、今はペットショップをやっている碓井志帆という女性で、エリカを精神面で支えてきたのだが、7月に入った辺りから、突然エリカとの交流が途絶えた。電話やメールすら繋がらなくなった。その原因は、しばらく前からエリカが志帆のことを『冷たい人間だ』と感じ始め、それが高じて、一方的に志帆とのやり取りをやめるようになったことによる。7月以降も、志帆はエリカに幾度となく、励ましや忠告のメールを送っているが、返信も電話もほとんどない状態であった。この時の彼女は、エリカのことについて、さじを投げそうになるほど悩んでいた。それでも、エリカを信じる決心をして、メールを送り続けた。
その日、家に帰ったエリカは、思い悩んでいた。数日間の連休中、ひたすら絶望にとらわれ、『死にたい』と思い続けた彼女だったが、女子会の帰りに自分の命を救ってくれた大輝のことが、心の片隅に残っていた。何度か、彼が送ったメールやアドレスなどをすべて消去しようとしたが、どうしても彼のことが気になって仕方がなかった。また自分自身の彼に対する行動の面での後悔もあり、結局踏ん切りがつかずにそのままにしていた。同様に、一方的に避けたはずの志帆のメアドや電話番号も、なかなか消去できずにいた。絶望と後悔と、この時点では全くといっていいほど意識が無かった『希望』の狭間で、エリカは迷い続けた。
一方の大輝も、あの日からずっと悩んでいた。人助けをしたのに、どうして、あれほど文句を言われなければいけないのか、彼にとっては全くわからずじまいであった。それに、悩みを打ち明けようにも、この時の彼にはできなかった。というのも、小さい時から家族や周りの人から責め続けられ、さらには誰もが彼の助けになってくれなかった。それはこの時働いていた職場でも、ほぼ同じ感じであった。この時の彼は、コミュニケーションがほとんど取れない状態で、さらにいえば彼の心は不信感と不満に溢れていた。また、あの日に飲みに行ったのも、職場の人たちに半ば強引に誘われてのことであった。断ると、周囲から嫌われるのが怖かったこともあって、彼にとっては嫌々ながらも行くことになった。ちなみに、飲みに行った翌日の自分の休日、彼の母親からは快く思われず、散々文句を言われ、エリカを助けたことも全く信じてもらえなかった。彼もまた、生きることに苦しんでいた。
二人が出会って10日ぐらい経ったあと、エリカは思いきって大輝にメールを送った。そのメールにはこう書いてあった。
-私を助けてくれただいきに改めて感謝します。あの日、私はあなたに助けてもらったにも関わらず、散々文句を言い続けてしまいました。あの時の私は、絶望の気持ちでいっぱいでした。あれから悩み続けてきましたが、どうしてもあなたのことが忘れられず、死ぬのを思いとどめてくれたお礼をしたいと思い、このメールを送りました。それと、今度の日曜日にあなたとデートがしたいです。もしよければ、私にメールを送ってください-
このメールが入っていることをに気づいた大輝は、仕事帰りに悩みながらも、彼女に返信のメールを送った。
-……こんなボクを誘ってくれてありがとう。日曜は休みだから、ボクは大丈夫です。それで、どこに集まればいいのでしょうか? それとボクはひろきです。間違えないでください-
彼も本当は誰かと付き合いたいのだが、自分が恥ずかしがり屋のせいで、なかなか人を誘えなかった。そればかりか、以前にこのような感じで女性に誘われ、騙された経験があったために、メールを返信すべきかどうかで悩んでいた。ちなみに騙された時も、誰も相談に乗ってくれなかった。しかし今回の相手はエリカであり、彼女も『お礼がしたい』と言っていることから、彼もデートに行くことに決めた。その後、彼女からのメールが入ってきた。
-……よかった。それなら今度の日曜の10時に、駅の広場で会いましょう。だいきとのデート、楽しみに待ってます-
これを見て彼は、
-わかりました。日曜日よろしくお願いします。ちなみにボクは“ひろき”ですよ……-
そう返信した。彼にとっては、『今度こそ』の思いがあった。もしこれを失うことになると、誰も信じられなくなるほどのダメージを受けることになるだろう、そう感じていた。とはいえ、何を着ていくといいのかがわからなかった。小さい時から、着るものに関してはほとんど興味が無いようで、ほとんど自分で服を買わなかった。最近少しは買うようになったものの、出かける時の服装については、何度もあれこれ言われていた。これは、多少なりとも着こなしのレベルが上がった今でも続いており、以前ほどではないものの、何度かエリカや志帆に指摘されたことがある。それもあってか、現在に至るまで服装に関しては、一緒に暮らしている志帆に大部分を委ねている状況である。もっとも彼自身、このままではいけないとは感じているのだが……
デートの当日、彼は緊張した面持ちで、ちょっと不機嫌そうに家を出た。彼が不機嫌なのは、服装に関してはこれダメ、あれダメと言われ、嫌々ながら着替えたことによる。そして、エリカが待ち合わせ場所に指定した駅の広場に着いた。そこで着信が入ったので、スマホを見ようとすると、誰かが手をふる姿が見えた。振り返ると、
「だいき、こっちよ~」
という声が聞こえた。エリカのようだ。その声を聞いた彼は、彼女のもとに駆け寄った。そんな彼に、彼女はいきなり抱きついて、
「会えてよかったわ。私の『希望の星』に……」
そううれしそうに話した。ボクは慌てふためいて、
「ちょ、ちょっと、エリカさん……、いきなり……」
と、困惑する感じで言った。すると彼女は、
「もう、だいきって、『恥ずかしがり屋』なんだから……」
彼の背中を軽く叩いて、弾むような声で言った。ただ、見る人が見れば、なんとなく無理をしている感じに映ったであろう。自身も恥ずかしがり屋であることを隠して、無理に明るく振る舞っている感じがにじみ出ていた。そんなことを知るよしもなかった彼は、どうしていいのかわからなかった。そんな彼を見た彼女は、悩みながら、
「……どうしたの? だいき」
と聞いてきた。彼は、
「……いや、あの時と……、違うかな、って……」
そうもじもじする感じで答えた。すると彼女は、何故か顔を曇らせながら、
「……そう、なの……」
と、トーンを下げて言った。その後、しばらく沈黙の状態が続いた。そのために、二人の間に気まずい雰囲気が漂いはじめていた。
二人が何も話さなくなって20分ぐらいが経った時、沈黙を破るように大輝が、
「ねえ……、本屋に行かない? ボクは、本を読むのがとても好きなんだ……」
そうエリカに問いかけた。彼女は、
「そうね……。このままいても、仕方がないから……」
多少ためらいもあるような感じだったが、結局彼についていくことにした。そして、駅から歩いて10分もかからずに、街の中心部にある本屋に着いた。実は彼は本人が言った通りのかなりの読書家で、特に休みの時は家で本を読むか、出かける時は図書館に行くのが彼の行動パターンであった。ただ、あまり他人とは関わりたくない性格のため、図書館内ではいつも一人で座っていた。また、家にいるより、図書館にいる方が気持ちが落ち着くことが多かった。さて、本屋に入った二人は、あれこれ回って、いろいろな本を探した。デートをしているのを忘れたかのように……。
本屋に入って1時間あまりが経ったところで、彼は一冊の本を手に取って読んだ。恥ずかしがり屋のことについて書いた本だった。この時の彼は、自分のお金を自由に使えなかったために、あまり本を買えなかった。実はこの当時、彼のお金については、親がほぼ強制的に管理していて、彼は原則として小遣い名目で、月に一定額という形でしか使えなかった。これは後に問題を引き起こすきっかけにもなったことである。この時も、手元にはあまりお金がなかったが、彼はあの本をどうしても買いたくて迷っていた。駅の広場でエリカに言われた言葉が、心に引っ掛かっていたし、何より読んだら、気に入ったからである。とりあえずその本を持って、エリカを探すが、彼女がなかなか見つからなかった。悩んだ末に、その本を買って店を出た。すると彼女は、
「待ってたわよ。どうしたの……?」
と、少し心配そうに言った。彼女も何冊か本を買ったようだ。彼が何か言おうとすると、
「せっかくだから、私の家に寄って行かない?」
こう彼に打診してきた。彼は少し悩みながらも、一言、
「うん……」
そう答えた。
さっきの本屋から歩いて10分弱で、エリカの家に着いた二人は、早速靴を脱いで、リビングに入った。見ると、部屋がきれいに片付いてあった。これを見て大輝は、
「ここ……、きれいだね……」
緊張した面持ちでそう言った。彼女は、
「ありがとう。これもあなたのおかげよ♪」
うれしそうに答えた。これを聞いた彼はほっとしたのか、その場に座り込んで、先ほど買った本を読み始めた。台所にいた彼女は、
「何か飲みたいものはある?」
そう聞いてきた。彼は、
「……本当にいいの……? ボク、何か迷惑かけてない……!?」
悩みながら答えた。彼女は驚きながら、
「ええ!? 突然何を言い出すの……!?」
と言ったあと、首を横に振り、
「そんなこと、全然気にしなくていいわ。それに、だいきの役に立てるからうれしいし……。だけど、あなたの言ってること……、私にも思い当たる節があるわね」
そう話した。彼は、
「よかった……。それなら、オレンジジュース、を……」
ほっとしつつも、言葉にはぎこちなさが感じられた。そして本を読む傍ら、横目で少し恥ずかしそうに彼女を見つめた。駅で初めて彼女に出会った時は、どんな姿だったのか覚えていなかったし、この日もお互い本を探すのに夢中で、実際に彼女をじっくり見るのは、この時が初めてであった。すぐに彼女が二人分のオレンジジュースを持って、リビングに入ってきた。改めて見ると、“知的な美女”といった感じで、今着ている服がお似合いであることが、彼にも感じられた。ちなみに、二人共にメガネはかけていない。その姿に見とれた彼は、何故か再び緊張し始めた。それを見た彼女は、
「どうしたの? だいき……。緊張しちゃって……。それとも、私の顔に何かついてるの……?」
首をかしげながら彼に問いかけた。彼は、
「あ、いや……、別に、そういったのじゃないけど……。あの、ボクはひろきですよ」
と手を振って否定したあと、
「ええと……、エリカさんって……、美しい、よね。その服も本当に似合うし」
そう答えた。確かに、ファッション雑誌に載っているモデルと比べても、そう差はないぐらいの美女である。すると彼女は、顔を赤くして照れながら、
「もういやよ……。本当に恥ずかしいから、そんなこと言うのやめて……。私なんて、そんな美人じゃないから……」
彼の背中を軽く押しながら言った。本当はほめてもらってうれしいはずなのだが、何故か照れてしまう。そしてつい否定する自分に気づいたのか、彼女はいきなり頭を抱えた。それを見た彼は、
「何かボクと同じような感じだね……」
そうつぶやいた。その声を聞いた彼女は、
「……そうかも知れないわね。だいきを見てると、何か他人事とは思えないの……。似た者同士っていうのかな……」
こう語ったあと、
「ちょっと、服装の方はどうかな、って思うけど、あなたのことは、嫌いじゃないから……。それに、今はあなたの役に立てることで、調子もよくなったし」
彼の目を見つめて、こう話した。その言葉を聞いた彼は、急に黙り込んだ。その姿を見た彼女は、
「どうしたの? 何か悪いことでも言ったの……!?」
首をかしげながら、彼に問いかけた。しかし、彼は本を読んだまま何も話さなかった。彼女も、どうしていいのかわからず、ただ時間だけが過ぎていった。
それから1時間近くが経過した時、エリカが突然大輝の隣に座り、
「……ごめんなさい、だいき。あなたの役に立ちたいのに、どうして、あなたをこんなことに……。本当にごめんなさい……」
涙ながらに話したあと、
「ねえ、まだ帰らないで……」
そう言いながら、彼に抱きついた。彼は、
「あ、あの……、エリカさん……」
少し困惑気味の様子だった。すると彼女は、
「まだあなたにお礼を言ってなくてごめん……。あの時、私の命を救ってくれてありがとう……。あなたがいなければ、今頃、私……」
どうやら、途中で言葉につまったようだ。そして、その時の彼女の両目には、涙が浮かんでいた。一方の彼は、
「……いや……、ボクは、ただ放って置けないと思っただけで……」
なにやら言葉足らずな感じであったが、彼女は、
「ううん、理由なんて何でもいいの。私を助けてくれた上に、アドレス交換までしてくれて……。あれから、あの日のことをずっと考えてたの。私を助けてくれたのに、『私はだいきになんてことをしたの』と、後悔し続けたわ。あれでは嫌われて当然よね、普通……」
そう話したあと、さらに、
「それでも、こんな私と付き合ってくれるなんて……、本当にうれしいわ……。それとあなたのメアド、消さなくてよかったわ」
こう言って、彼に感謝した。彼も、
「本当によかった。エリカさんまで失わずに……」
そう言って、彼女に一礼した。それから、夕方まで二人は、今日買った本の話を続けた。
夕方になって、エリカが
「だいき、時間は大丈夫?」
と聞いてきた。大輝は時計を見て、
「あ、もう帰る時間だね」
そう言って、帰る準備を始めた。彼女は、
「今日は本当に楽しかったわ。こんな日はもう何ヵ月ぶりね。今度は一緒に遊びに行こう」
笑顔でそう答えた。彼もその言葉にうなずいたあと、エリカの家を後にした。
ところが、帰り道での大輝の気持ちは複雑であった。エリカとの楽しかった一日と、服装に関して文句を言われた思いと、家族に対しての怒りなど、いろいろな思いが入り乱れていた。そして帰り道、突然怒りを爆発させて、パニックになったかのように八つ当たりを始めた。ゴミ箱を蹴ったり、木の枝を折ったり、あるいは人や動物に当たり散らすなど、周りがびっくりするような行動を取っていた。そんな時、首輪をつけた犬が一匹、彼に近づいてきた。彼は追い払おうとしたが、それに構わず、彼になついてきた。突然のことに彼は戸惑いながらも、八つ当たりをやめ、その犬をなでた。前方から、飼い主であろうスーツ姿の女性が、彼の元に来て、
「もうダメでしょう。側を離れちゃ……」
そう言いながら犬を抱き上げ、持っていたリードを首輪につけた。そして彼に対し、
「ごめんなさいね……。ウチのワンちゃん、ダックスなんだけど、この子ね、優しい人にはよくなつくのよ……」
ちょっとすまなさそうな表情をして、彼に謝った。彼は、
「あ、あの……、すみません……」
多少ぎこちなく話したあと、
「ええと、本当にきれいな方ですね……。若く見えますね……、20代の後半に……。それで年齢はおいくつでしょうか……?」
こんな質問をした。その質問を聞いた女性は、
「あなたね、聞いていいこととよくないことの区別もわからないの……!? 今の質問は、女性に対して失礼にあたるわ。言葉遣いには気をつけなさい」
彼に厳しく注意したあと、
「でも、『20代に見える』と言ってくれてうれしいわ。あなたって、優しい方なのね……。それで、私はいくつに見えるの?」
逆に彼にこう問いかけた。彼は
「ええと、27歳……、ですか?」
そう答えた。彼女は、
「全然違うわ。私は40代半ばよ♪」
楽しそうに言った。彼はびっくりして、
「ええ? 本当ですか!? 全然そう見えないですよ」
そう声を上げた。それを聞いた彼女は、彼を抱き締めて、
「本当にありがとう。あなたは『優しさで人を元気づける』という素晴らしい素質を持ってるわ。それと、動物はちゃんとあなたのことを見てるから。ただ、今はその素質は花開いてないみたいね……。どうやら、何かそれを阻む重大な心の問題が、今のあなたにはありそうね」
こう話したあと、彼から離れて、ポケットの中から名刺を取り出し、それを彼に手渡した。見ると、結構な会社の役員をしていることがわかった。ちなみに彼女のこの言葉が、後に大輝を救うことになるとは、この時点では、彼自身知るよしもなかった。そして、
「私の名前は、宮田遥。名刺に書いてある通り、会社の役員をしてるわ。ところで、あなたの名前はなんて言うの?」
と彼の名前を聞いてきた。彼は、
「ボクですか!? ボクは新川大輝と、言います……」
そう答えた。彼女は、
「もし何か私に聞きたいことがあったら、この名刺に書いてあるアドレスにメールを送って。それと最初にメールを送る時は、あなたの名前をフルネームで書いてね。タイトルでも本文中でもいいから、必ずね、ひろき君。私が間違わないためにね。あなたにできる限りのアドバイスをしてあげるから。なんだったら、あなたと付き合ってもいいわ……、って、それは冗談だけど♪ 今は独身でもね……」
楽しそうに話したあと、
「それじゃ、また会えるのを楽しみにしてるわ。あなたの家は駅の近くでしょう?」
最後にこう聞いてきた。彼は
「そうですけど……」
と答えた。すると彼女は、
「わかったわ、ひろき君。これからもがんばってね。それと今度会う時は、『遥さん』でいいわ。あと、アドレス帳にちゃんと登録しておいてね。それとね、あなたと一緒で、私も駅の近くに住んでるわ。もし道端などで会ったら、また一緒にお話しましょう」
そう言って、彼と別れた。すると彼は、何故かため息をついた。どうやら緊張していたようだ。そして、家に着いた時、車がないのに気づいた。他の家族の人は出掛けているようだ。とりあえず、家の鍵を置いてある場所から鍵を取り、玄関の鍵を開けて家に入った。そして、先ほど遥からもらった名刺を見ながら、彼女のアドレスを登録したのち、感謝のメールを送った。そしてエリカとのデートの時に買った本を読み始めた。しばらくして、家族の人たちが帰ってきたが、彼はこの日の出来事を話さなかった。実は、残りの家族の人たちは、彼に内緒で外食や買い物に行っていたのだが、後にこの時を含めたある事実が発覚することによって、大騒動が起こることになる……
-一方、例の文集を読んでいる大輝と志帆は、どうしているのだろうか……? 再び二人がいるリビングに話を戻す-
ボクたちが文集を読み始めてからしばらくが経った時、ちらっと時計を見た志帆さんは、
「ねえ、ダイちゃん、そろそろお昼にしない?」
そう聞いてきた。ボクは、
「そうだね、何か頼もうか」
と答えた。志帆さんは首をかしげながら、
「あれ? 今日もうどこか開いてるの……!? まだ店は休みだと思うけど……」
と言い、
「それなら、昨日や朝の残り物でいい?」
と聞いた。ボクはただうなずいた。それを見た彼女は、
「わかったわ。早速レンジでおかずを温めるから」
そう言って、台所に行った。ボクはその間、文集を読み続けた。
-先日、志帆さんから、ダイちゃんが、ある会社の役員の女性を勇気づけたと聞いて、改めてダイちゃんが優しい人なんだと、自分のことのように思いました。実は、私のところにもその女性からのメールが来て、彼のためにできることを一緒に考えてくれました。そして、『彼のお陰で失いかけた自信を取り戻し、会社のお役に立てた』と私に話してくれました。今度結婚する彼にもその話をすると、彼も喜んでました。あの時、彼から課題を『突き付けられた』ことで、改めて私も自分の身勝手な部分や足りないところと向き合い、志帆さんや、遥さんという会社の役員の女性の助けを借りて、なんとかある程度は克服できました。そのお陰で、ひとまず彼の信頼を取り戻すことができました。ただそのために、ダイちゃんたちには大きな迷惑をかけることになってしまいました……。今度はダイちゃんのために、ご恩をお返ししたいと思います。それともっと彼のために、自分のために、足りない部分を直していきたいと考えてます-
この文章が書いてあるページを見たボクは、
「ん? 『課題を突き付けられた』って、どういうことなんだ……??」
ちょっと考え込んだ。その時、志帆さんがご飯とおかずを持ってきた。そして考え込むボクを見て、
「あら、どうしたの? 考え込んで……。ご飯なら持ってきたわよ。文集を見るのは食べてからにしましょう」
そう言いながら、こたつの上に置いた。そして、すべて並べたあと、
「だけど、ダイちゃんがエリカ以外の女性を元気づけたって話、実際に本人が私の店にくるまで、全然わからなかったわ」
こう述べた。そしてボクと志帆さんは、昼飯を食べ始めた。ボクは、
「正直言って、エリカもそうだけど、遥さんに会ってなければ、ボクは今頃、どうしていいのかわからなかったと思うね。遥さんって、50に近い年齢で会社の役員をしてる上に、20代後半ぐらいに見えるほどの美人で……」
話を続けようとした時、志帆さんが、
「ダイちゃん、女性にいきなり年齢を聞いたって……!?」
何故か怒り気味に、ボクの話を遮った。それに驚いたボクは、
「まあ、そうなるけど……。でもあれはまだ、自分が『恥ずかしがり屋』だった時の話で……。遥さんには後で厳しく怒られました……」
自分としては、必死に説明したつもりではあるが、言い訳に取られてもおかしくなかった。それを聞いた志帆さんは、
「……そうね。それでは、彼女に怒られても仕方ないわね。それと、会った時のことは遥さん本人から聞いてるわ」
こう話したあと、
「私も、ダイちゃんの言う通りだと思うの。正直言ってあの人は、あなたにとっての恩人であると同時に、私にとっても『先生』みたいな人なの。ほら、以前にあなたが、遥さんとメールのやり取りをしてる話をしてたでしょう? あれが、あなたと遥さんにとっての『ホットライン』だと私には思うわ」
笑顔で答えた。その時、ボクのスマホのメールの着信音が鳴り、こたつから出て確認すると、遥さんからのメールが入っていた。そのメールを見ると、次のような内容が書かれていた。
-明けましておめでとう、ひろき君。あなたが励ましてくれたお陰で、去年は充実した一年を過ごすことができたわ。あなたと初めて出会った時は、夫を病気で亡くして、私自身これからどうすればいいのか、いろいろと迷っていたの。その時に、偶然出会ったあなたが『20代の美人に見える』と言ってくれたことは、私にとってものすごい励みになったわ。その言葉で、私の夫が亡くなる直前に『遥が心も体も20代のままだったから、ここまで生きていけた』と言っていたことを思い出したの。それで改めて、会社では若手の社員との交流を増やし、美しさや心の面では、私の娘と競いあうことで、いろいろ若い年代の考えや感覚を取り入れることにしたの。そうすることで、次第に自分や自信を取り戻すことができ、会社で業績を上げるだけでなく、有望な若手を育てることができるようになったわ。あと娘からは、『私と変わらないぐらいキレイ』とうらやましがられたわね。本当にありがとう、ひろき君。それともうひとつ、あなたにお知らせしたいことがあるわ。実は、春に再婚することになったの。お相手は一回りぐらい年下で、再婚同士だけど、お互いに『この人ならば一緒についていける』という存在で、本当にいい人なの。娘も彼に会って、私の夫になることを喜んでくれたの。式は開かないつもりけど、パーティー形式であなたたちを呼びたいと考えているわ。近々、招待の知らせを送るから、その時を待っててね。文章が長くなってごめんなさい……。改めて、お礼の手紙を出すから、それも待っててね-
これを見たボクは、
「本当によかったね……」
一言そうつぶやいた。そして、このメールを志帆さんに見せると、彼女も喜んでいた。それから昼飯を食べて、彼女が皿を下げに行った時、インターホンが鳴った。ボクが玄関に向かってドアを開けると、
「明けましておめでとう、ひろき君」
遥さんが来ていた。そして、ボクが玄関を出るなり、彼女はいきなりボクに抱きつき、
「ひろき君、元気にしてた? あなたに会えて本当にうれしいわ♪ それと私が出した課題、ちゃんとクリアできてる?」
そう問いかけた。ボクは、
「ええと、まだ、できてないです……」
正直に答える他なかった。実際には、最近の課題のことはほとんど全く頭になかった。それを聞いた彼女は、
「そうなの……。だけど正直に話したのはえらいわ。あなたには、言い訳が多いという欠点があるから、それが出てくると心配してたの。それと、他人任せな部分もあるわね。もう少し自分と向き合って、周りで起きている物事を、自分のこととして考えることが必要ね。だけど、あなたが志帆ちゃんという女性と出会って、着実に成長してるのが見て取れるわ。私の子供じゃないけど、本当にうれしいわ。一度あなたを娘に会わせてあげたいわね」
まるで、自分の子供を扱うかのように、ボクの頭をなでていた。その時の彼女は、笑顔になっていた。ボクも、このような女性に出会えて、本当によかったと心から感じた。それから彼女は、
「ねえ、今志帆ちゃんは中にいるの?」
と聞いた。ボクがうなずくと、
「これから入ってもいい?」
と聞いてきた。ボクは、
「でしたら、一緒に中に入りましょう。外は寒いですから」
彼女に中に入るように促した。彼女は笑顔で中に入り、ボクは、
「志帆ちゃん、遥さんがきたよ」
と叫んだ。すると志帆さんは玄関に駆けつけて、
「明けましておめでとう、遥さん。これからも、私やダイちゃんを鍛えてください。それで今日は……」
と聞いてきた。遥さんは、
「まあ、特にこれといった用事はないけど、あなたたちのことがちょっと気になって、訪ねてみたかったの。時間は大丈夫?」
そう答えた。
「もちろん、大丈夫です」
偶然にもボクと志帆さんの声が重なった。それを聞いた遥さんは、
「あらあら……、二人とも息がぴったり合ってるわね。本当に仲が良いのね」
笑顔でそう話した。
話が終わったあと、遥さんが志帆さんの家に上がり、ボクと一緒にリビングに向かった。志帆さんが、
「飲み物はどれにします?」
と訪ねてきたが、遥さんは、
「お気遣いありがとう。でも、今は遠慮しておくわ。何か飲みたくなった時に、改めて頼むから」
そうやんわりと断った。その間ボクは、こたつに入って遥さんを横目で見ながら、例の文集の続きを読んでいた。その様子に気づいた遥さんは、
「どうしたの、ひろき君? 何か気になることがあるの?」
ボクにこう問いかけてきた。ボクは、
「遥さんって、改めて見ると美しい女性なんだな、って……。本当にすごい人に気にかけてもらえたんだって、ボクはそう感じたんです……」
正直に今の彼女を見た感想を述べた。確かに、今の遥さんは、気品に溢れている感じで、なおかつ、『自分と遥さんは同年代ですよ』って周りに説明しても、全く違和感を感じない。ボクの感想を台所で聞いていた志帆さんは、
「もうダイちゃん、何言ってるの!? 恥ずかしいことをしないで。遥さんも困ってるでしょう」
遥さんを見ながら、申し訳なさそうに言った。その様子を見た彼女は、笑みを浮かべながら、
「いいのよ、志帆ちゃん。そこがひろき君のいいところなの。彼にあそこまで言ってくれて、私は本当にうれしいわ。それと私はね、彼はもっと人や動物を元気づける人になるべきだと思ってるの。彼のような人が多くなれば、恥ずかしがり屋の人も少なくなってくるわね」
そう話したあと、
「だけどね、志帆ちゃんが言いたいことはよくわかるわ。『場の状況や相手のことを考えて、話す言葉や話題を考えなさい』ということでしょう?」
と、志帆さんに問いかけた。彼女はただ一言、
「そうです」
はっきりと答えた。遥さんは、
「まあ、これはいろいろな人と会話をして、多くの経験を積まないといけないところがあるし……。彼も今、あなたの店でその経験を積んでる最中でしょう? だから、その辺りはフォローしてあげて。だけど、してはいけない行動に対しては、もう少し厳しく言ってもいいと思うの。今の彼なら大丈夫よ。私が保証するから」
そう言ったあと、
「そうそう、お土産を持ってきたのを忘れてたわね。あなたたちが好きなクッキーの詰め合わせ、今こっちに持ってくるから、少し待っててね……」
そう言ってリビングを出て、玄関に向かった。志帆さんは、
「ねえダイちゃん、せっかくだから例の文集、遥さんにも見せよう。3人で一緒に続きを読もう」
笑顔でボクにお願いした。ボクも一言、
「いいよ」
うなずきながら言った。
遥さんがリビングに戻って来て、
「これ二人で食べて。なかなか手に入りにくい人気店のクッキーで、とてもおいしいの。娘の美郷も気に入ってるし」
そう言って、クッキーの入った箱を持ってきた。ボクは、
「ありがとうございます、遥さん」
彼女にお礼を言った。そして、
「志帆ちゃん、一緒に食べよう」
と言った時に、志帆さんは、
「あの……、遥さん、ちょっと言いにくいのですけど……」
申し訳なさそうに言ったあと、遥さんの元に寄って、
「……右足の方、タイツが破れてます……。それだけじゃなく、何ヵ所も穴が開いてます……」
と小声で知らせた。すると遥さんは右足を見ながら、
「あら、いやねえ。全然気づかなかったわ。せっかくのお気に入りのデザインのタイツなのに……。それと大きな穴まで……。これじゃ、また美郷に言われるわね。『母さんって、本当にドジなんだから』ってね……」
苦笑いしながら話したあと、
「ありがとう、志帆ちゃん。早速着替えてくるわね」
そう言って、再びリビングを出た。ボクは、
「遥さんって、こんな面があったんだ……」
考え込みながらつぶやいた。志帆さんも、
「本当ねえ。私も知らなかったわ。ほら、遥さんって『完璧な人』という感じでしょう? もう何でもできるっていうぐらいに……。でもさっき、『また言われる』って話してたわね。だけど私から見ると、彼女がそんなにドジだとは思えないわ」
ボクの言ったことに共感する感じで、疑問も交えながら答えた。それからまもなくして、遥さんが、
「待たせてごめんね」
そう言いながら戻ってきた。その姿を見た志帆さんは、いきなりボクのところに来るや否や、
「悔しいけど、ダイちゃんの言った通りよ。遥さんって、本当に美しいわ……。私だって平均以上って、友達から言われるけど……。あの着こなし、私じゃなかなかできないわ。それとあのタイツ、今彼女が着てる服にぴったりなの」
うらやましそうに遥さんを見つめていた。そんな二人の状況を見た彼女は、
「どうしたの、志帆ちゃん? 私を見つめて……。さっきみたいなことでもあるの?」
首をかしげながら聞いてきた。志帆さんは、
「いえ、何でもありません。ただ、遥さんがそれだけ美しいのがうらやましいと……」
そう答えた。すると彼女は、
「そうだったの……。まあ、あなたの気持ちはわかるわ。だけどこれは私の実力じゃないの。モデルをやってる美郷がいるから、ここまで着こなしのセンスが上がったと思うの。よかったら、二人も美郷のレッスンを受けてみない? 娘には、『私を励ましてくれた人への恩返し』とでも言っておくわ」
笑顔でこう話した。
それからしばらくの間、ファッションについての話をしていたが、肝心なものを忘れていることに気づいたボクは、
「あ、そういえば、エリカの文集を読んでる最中だった。早く続きを読もう」
こう言って、最後に読んでいたページを開いた。すると志帆さんは、
「ダイちゃん、ちょっと待って」
一旦ノートを閉じてから、
「遥さんも、エリカが書いた文集、一緒に読みましょう」
そう彼女に勧めた。彼女は少し驚いた様子で、
「エリカちゃんが!? あの子、こんな才能があったの……」
感心するように答えた。志帆さんは首を横に振りながら、
「いえ、彼女はただ、筆まめなだけで……。それでも、文章を書くのは好きですよ」
そう説明した。それを聞いた彼女は、
「そうなの……。それなら、早速見せて頂くわね」
と言い、置いてあったノートを取って読み始めた。ボクは、
「あの……、遥さん、ボクたちもまだ読んでる途中なので……。15ページあたりまでに……」
彼女にお願いした。彼女は、
「わかったわ。ちょっとどんな感じなのか見たかったから……。それとこれ、あなたたちへの感謝の気持ちでいっぱいね」
うなずきながら、笑顔で答えた。ボクは、
「そうですね。遥さん、これからボクや志帆さんと一緒に続きを読みましょう。すごく楽しみです」
と言いながら、ノートを開いた。
改めて、昼飯を食べる直前に、最後に開いたページから読み始めた時、遥さんは、
「本当にダイちゃんって、優しい人なのね……。 ……え? ところで『ダイちゃん』って誰なの!?」
首をかしげながら聞いてきた。ボクは、
「実はそれ、ボクのニックネームみたいなもので、志帆ちゃんやエリカがボクのことをそう呼んでるんです。自分の名前は“ひろき”なんですけど、エリカには、会った時からずっと“だいき”と呼ばれ続け、それがいつしか“ダイちゃん”と呼ばれ、自分も気に入って今にいたってます。だから遥さんも、ボクのことをそう呼んでください」
そのように答え、遥さんに『ダイちゃん』と呼ぶように勧めた。彼女はうなずいて、
「そうねえ、あなたが望んでるのなら、そうさせてもらうわ。ダイちゃん」
と言ったあと、
「本当に驚いたわね、あの時は……。あなたから『エリカを失った』というメールが来た時は、ただ事ではないと思ったわ。それにしても、エリカちゃんも結構大胆なことをするのね。頑固というのか、まっすぐというのか……。彼氏の翔梧もいろいろ悩んだと思うわ。ただ私は、彼がダイちゃんやエリカちゃんのようなタイプの人を理解する人で、本当によかったと思うの……」
そう話した。これを聞いた志帆さんは、
「そうですね、私もダイちゃんと一緒に彼に会った時、そのようなことを話した記憶がありますね」
そう言った。その間ボクは、遥さんから頂いたクッキーの箱を開け、何枚か食べた。その様子に気づいた志帆さんは、ボクの側に寄って、
「もうダイちゃん、フライングしないでよ。私と一緒に食べるんじゃなかったの!?」
軽くボクの右腕を握った。ボクは
「ごめんごめん。一つ食べたらおいしくて、つい何枚も……」
頭をさすりながら苦笑いした。その様子を見つめていた遥さんは、
「おいしいでしょう? その店のクッキー、『一枚食べると何枚も食べたくなる』という味で評判になってるの。志帆ちゃんも食べてみて」
そう言って、志帆さんにも食べるように勧めた。彼女も一つ食べてみると、
「おいしい! これ、また食べたくなりますね」
顔をほころばせながら言った。そして、
「ちょっと飲み物を持って来ます。それから、文集を一緒に読みましょう」
台所に行って、3人分のジュースをコップについで、リビングに戻ってきた。それからボクたち3人は、再びノートを読み始めた。
-エリカが突き付けられた“課題”とは何だったのか、また、大輝が『エリカを失った』という意味は、遥が話した『エリカの彼氏』という翔梧とは……。そして、二人はどう変わっていったのか……。大輝が初めて遥と出会ったあとの物語は、以下のように進んでいった……-
遥と出会って以降、大輝も少しずつではあるが、エリカと初めて出会った時よりは元気を取り戻しつつあった。相変わらず、普段の時はほとんど変わらなかったが、エリカや遥とメールをやり取りしている時や、二人と会った時には、イキイキとしていた。そんな日がしばらく続いた12月の始めの休みの日に、エリカを家に迎えることになった大輝は、珍しくリラックスしていた。おそらく彼自身、これまで誰かと話す時に体験していなかったであろうことである。実は、エリカが家に来ることは、家族の誰にも知らせていなかった。この時点では、まだ彼には家族に対する不信感が今以上に強かった。それと、当日は一緒に住んでいた他の3人が仕事などで帰りが遅くなることもあり、彼女を迎えやすい状況ではあった。そして10時前にインターホンが鳴り、
「だいき君、おはよう」
エリカの声がした。それを聞いた大輝は、
「いらっしゃい、エリカさん。上がってきて」
そう言って、彼女を家の中に入れた。彼女は入るなり、
「だいきくーん、会いたかったわ!」
そう言いながら、彼に抱きついた。そして、
「あなたのお陰で、少しずつだけど勇気が出てきたの。徐々にだけど、生きる希望も生まれてきたわ。何より、あなたに会えることが本当にうれしいの。ありがとう、だいき君」
うれしそうに彼の手を握った。彼は驚きながらも、
「ええと……、ボクの部屋に、行こう」
と言って、彼女と一緒に2階にある彼の部屋に向かった。
部屋に入って大輝が、
「何かジュースとかいらない?」
とエリカに聞いた。彼女は、
「コーヒーがいいわ。砂糖は抜いてね」
自分のスマホを確認しながら答えた。彼はうなずきながら、
「わかった。ちょっと入れてくるよ」
そう言って、部屋を出た。彼女は、スマホに入ってある一つのメールを見ながら、
「だいき君も、私を誘えるようになったのね……。元気を取り戻してくれて、うれしいわ。それと、ここの部屋ってきれいね」
笑顔でそうつぶやいた。彼女が他のメールを見ている最中に、
「エリカさん、コーヒー持ってきたよ」
彼が部屋の扉を開けて、コーヒーとジュースを持ってきた。そして、それらをテーブルの上に置いて、
「調子はどう? エリカさん」
そう彼女に問いかけた。彼女は、
「エリカでいいわ、だいき君。それと調子の方は、以前に比べてよくなってるわ。あなたのメールが励みになってるから……。優しいのね、だいきって」
こう答えた。すると彼は、
「よかった……。ボクもエリカがいるから、何とかやっていけるし。あの……、いや、もういいや」
首を振りながら言った。さらに、
「ボクのこと、“だいき”と呼んでいいよ、エリカ……。何度訂正しても変わらないし……」
最後は半ばため息をつく感じで話しを続けた。すると彼女は、
「わかったわ、だいき。それとここの部屋、きれいに片付いてるわね。誰が掃除してるの?」
そう答えた。それを聞いた彼は、ちょっと苦笑いしながら、
「ここ、自分でやってるんだ」
と答えた。
それからしばらくは、とりとめのない雑談を続けていた。大輝にとっては、この段階ではエリカ相手に限定されるとはいえ、成長の手応えを感じ取っていた。そんな中、彼女が彼の側に寄って、
「ねえ、だいき、大切な話があるの。聞いてくれる?」
そう聞いてきた。彼は、
「どうしたの、エリカ。何か顔つきが違うけど……」
疑問に感じながら答えた。彼女は、
「私ね、今の仕事を辞めようかと思うの。あの先輩の元では、もう耐えられないし……、このまま、彼女の気に入るように自分を……変え続けるって……。それと、会社では相談したくても、誰も……」
話の最中に突然泣き出した。そして、彼に抱きつき、
「でも、今はあなたがいるから……。私を救ってくれただいき、いえ、ダイちゃんがいるから……、私、ここまで頑張っていけたの……」
涙ながらにこう話した。彼は、
「ちょっとエリカ、いきなりどうしたの? 『会社を辞める』なんて言い出して……。お金とか、あとのことは大丈夫なの……」
彼女の背中をさすりながら、心配するように言った。すると彼女は、
「……お金の件なら大丈夫よ。私もあまりお金は使わない方だし、今は結構たまってるから……。それよりも、ダイちゃんの方はどうなの? 仕事とか、何か変わったこととか……」
彼から離れたあと、こう聞いてきた。彼は考え込んだあと、
「仕事の方は、エリカと似たような感じだね。あの時に比べて少しはましになったという程度かな……。あの……、それと、遥さんという会社の役員をしてる40代後半の女性と、メールのやり取りをしてるんだ。いろいろと話を聞いてくれるし、またお会いしたいし……。今度、彼女にエリカのことを紹介してもいいかな?」
こう話した。すると彼女は、驚いた感じで、
「ええ!? 40代の方に恋をしてるの!? ダイちゃん、それはちょっと早いと思うわ」
と言った。彼は手を横に振りながら、
「いや、そういったのじゃなくて……。そりゃ、確かに遥さんは20代並に美しい人だけど……。ほら、何というのか、まあ、ボクにとって『よい相談相手』という関係なんだ。ボクの近所に住んでるし、初めて会った時に、ボクのことを『優しさで人を元気づける』って言ってくれたんだ。エリカにとっても、いい相談相手になると思うよ」
こう話した。彼女は、
「そうよねえ、大切な私を見捨てる人じゃないわよね、ダイちゃんは。私もね、遥さんが言ってくれた通りだと思うの。あなたって、そういう感じがするもの」
笑顔でそう言った。彼は、
「ありがとう。そういうことを言ってくれるのは、君と遥さんぐらいだよ。親にも言われた記憶が無いんだ……」
うれしそうに答えた。そして、
「改めて今度、遥さんに君を紹介するよ」
と言った。彼女は喜んで、
「私も遥さんに一度お会いしたいわ。ダイちゃん、彼女に私のことについてメールを送ってね。私のアドレスを伝えてもいいから。番号の方はまだダメだけど……」
彼に伝えた。彼はうなずきながら、
「そうだね。遥さんに伝えておくよ」
と言った。さらに、
「そういえば、エリカ、さっきからボクのことを『ダイちゃん』と呼んでない……?」
彼女に問いかけた。彼女は、
「ええ、そうよ。『だいき』よりも『ダイちゃん』の方が親しみやすいと思って……」
彼の肩を軽く叩いて、弾むような声で答えた。彼は、
「いいね。これからはそう呼んでね、エリカ」
喜んで彼女の両手を握って、軽く左右に振った。
それから、二人でDVDを見て、1時間ほどが経過した時、大輝が、
「もう昼になるけど、何か食べる?」
エリカに聞いてきた。彼女は考えた末に、
「ごめんね、今日大切な用事が入ったの。もう少し一緒にいたかったけど……。気持ちだけでも受け取っておくわ。私のこと、遥さんにちゃんと伝えてね」
そう答えた。彼は、
「わかった。早速伝えておくよ。それと、仕事の件も遥さんに知らせておくよ。辞めるかどうかは、遥さんの意見を聞いてからでも遅くはないんじゃないかな……」
彼女に提案した。すると彼女は、
「実はね、私が働いてる会社の同僚のひとりが、私の様子を見かねて、カウンセリングを受けるように予約を取ってくれたの。これまでそんなことはなかったけど……。それで、今日はカウンセリングを受ける日なの。もうすぐ家に帰って準備しないと……」
そう言いながらも、
「ダイちゃんの気持ちはわかったわ。とりあえず、これから行くカウンセリングと、遥さんの意見を聞いてから、結論を出すことにするわ。今すぐ辞めるわけじゃないし……」
と伝えた。疑問に感じた彼は、
「あれ? さっき、『誰も助けてくれない』と言ってたけど……」
彼女に聞いてみた。彼女は、
「そうねえ、その女性も私と同じように悩んでたの。少し前に、思いきって彼女の話を聞いてあげたら、『一度カウンセリングを受けてみたら』と言って、自分の名前で予約してくれたの。口には出さなかったけど、私の変化を感じ取ってたの」
そう答えた。彼は、
「そうか、味方はいたんだ……」
と言ったあと、
「わかった。それじゃいつ会えるか、早いうちにメールで伝えるよ。今度はもっと一緒にいよう」
そう伝えた。彼女は、
「ええ、そうね。今度は二人一緒に遥さんとお会いしましょう」
笑顔で答えながら、大輝の家を後にした。
エリカが帰ったあと、大輝は部屋を片付けてすぐに、以下の内容のメールを作成した。
-……遥さん、こんにちは。今回はあなたにお知らせしたいことがございます。先日、ボクが駅で助けたエリカという女性についてのことです。実はその人とは、あなたと帰りに初めてお会いした日に、デートをしてました。そのデートの後親交が深まり、今ではお互いに『かけがえのない人』というぐらい、大切な存在になっています。そこでお願いがあります。現在エリカは、今の会社を辞めようかどうかで迷っているところです。何か彼女にアドバイスできないでしょうか? あなたに彼女のアドレスを送ります。それと今度、ボクとエリカ、二人であなたにお会いしたいです。休みや予定の方はどうなっているのか、あるいは、あなたが住んでいる場所を許せる範囲でお知らせ頂けると幸いです-
この内容と共に、彼の住所や12月の自分の休日と、エリカのスマホのアドレスを付け加えて、遥に送った。しばらくして、遥から返信のメールがきた。
-よかったわね、ひろき君。あなたの優しさはエリカにちゃんと伝わってるわ。私が思った通り『優しさで相手を元気づける人』ね。それで休みの方なんだけど、あなたと一緒になるのは、今月は19日だけね。だけどその日は、何の予定も入ってないから問題はないわ。具体的な住所は今のところは教えてあげられないけど、私は図書館の近くにあるマンションに住んでいるの。私が家にいる日に会いたい時は、図書館に着いた時点で私にメールを送ってね。すぐに迎えに行くから。エリカには、『何か困ったことがあったら相談して』と伝えておくわ。彼女には19日のこと、早く伝えてあげてね。それと、私があなたに会いたい時があれば、必ずその都度あなたに伝えるわ-
このメールを見た大輝は、早速エリカに電話をかけた。すると彼女が電話に出て、
「ダイちゃん、どうしたの? 突然私に電話かけて……。何か大切な話でもあるの? あと10分ほどで始まるから、手短にお願いね」
こう話した。彼は、
「わかった。すぐに話すよ」
そう言ったあと、
「遥さん、19日なら大丈夫みたいだよ。その日はエリカも休みだよね。だったら、その日の10時に図書館で待ち合わせしよう」
彼女に聞いてみた。彼女は喜んで、
「19日の10時に図書館で待ち合わせね。わかったわ、こっちも大丈夫よ。あなたと一緒に遥さんに会えるのを楽しみにしてるわ」
その声を聞いた彼は、彼女に『わかった』と伝えたあと、電話を切った。そして、遥に19日に二人で彼女に会いに行くことを知らせた。
一方、エリカは、数日前に彼女の同僚が予約を取ってくれた、近所の病院で順番を待っていた。大輝からの電話に出て、二人で遥と会う約束をしたあと、病院内にある本を読んでいると、
「25番の札をお持ちの方、お入りください」
助手である女性が、札を持ちながら番号を呼んだ。それを聞いた彼女は、本を直して、カウンセリングルームに入った。部屋の中には、先程の助手と、『鶴居』という名字が書いてある名札をつけた先生がいた。見たところ、エリカとあまり年齢は変わらない様子である。実は彼こそが、後にエリカが結婚を予定している相手となる、鶴居翔梧その人である。
カウンセリングルームの中では、翔梧がエリカに紙を渡し、
「この紙に、これから行うテストや質問の答えを、正直に書いてください」
そう言って、カウンセリングを始めた。エリカは内心では『本当に私のことがわかるのかしら』と思いながらも、テストを受けた。テストや質問が一通り終わったあと、翔梧は彼女に対し、
「テストの結果は、次回来た時にお渡ししますが、ちょっと気になる点がありますね」
そう言ったあと、
「どうやら高津さんは、恥ずかしがり屋の性質をお持ちのようですね。恐らく、以前にも指摘を受けたことがあるでしょう」
考えながら話した。彼女は、
「いえ、実際にそう言われたのは、今回が初めてだと思います」
右手を横に振りながら答えた。すると彼は、
「ところで、これまで生きてきた中で、あなたが信頼できる人はいますか?」
彼女にこんな質問をした。彼女はすぐに、
「ひとりいます。私を救ってくれたダイちゃんという男性です。優しい彼がいるから、少しずつ立ち直れました。ですが、彼に出会う前はいませんでした……。もちろん、今働いてる会社の中にも……」
そう答えたあと、
「ええと……、ひとつお願いがあります。今度、ダイちゃんをお連れしますので、彼のカウンセリングをお願いできないでしょうか? 彼も、私と同じような感じの人みたいです」
彼にこう問いかけた。すると彼は、
「……ふむ、あなたの気持ちはわかりますが……」
考え込んだあと、
「……そうですね、今のところは余裕があるので、あなたとその『ダイちゃん』という人が一緒に行ける日がわかり次第、早めにこちらに連絡して頂ければ結構です。それと、個人的ではありますが、あなたたちに興味がありますので……」
と言って、彼女に名刺とスケジュールを書いた紙を渡した。彼女はそれを受け取って、
「ありがとうございます」
とお礼を述べた。そしてカウンセリングルームを出て、会計を済ませようとした時、一枚の紙が落ちた。彼女はそれを拾って、ポケットに入れようとすると、
「あれ? これって何!?」
ふと彼女が紙を見ると、それがATMでお金を引き出した時の領収書であることがわかった。恐らく大輝の家を出る際に、何らかの理由で偶然拾ったものらしい。その名前と金額を見て彼女は驚いた。その領収書には、大輝の名前と、15万円の金額の数字がのっていた。しかも、引き出したとされる日付は、彼女が大輝と初めてデートした前の日であった。疑問に思った彼女は、会計を済ませたあと、財布の中に入れた。そして、
「あとでダイちゃんに聞いてみようかしら……」
そう思いつつ病院を後にした。
それからしばらくたった19日の10時頃、図書館の前で大輝とエリカが話を交わしていた。両者共に、10時の数分前にはすでに図書館に着いていたが、大輝が遥に連絡したところ、『もう少し準備に時間がかかるので、終わったら連絡する』と言っていたので、二人共しばらく待っていた。その際エリカは、
「ねえ、ダイちゃん、今度の休みはいつなの?」
と聞いてきた。彼は、
「うーん、次は27日で、残りは最後の二日間。来月はまだ決まってないねえ」
と答えた。彼女は、
「それじゃカウンセリングは来年、というわけね」
考え込みながら、そうつぶやいた。それを聞いた彼は、
「どうかしたの?」
彼女に問いかけた。すると彼女は思い出したように、
「そうそうダイちゃん、来年1月の休み、わかったらすぐに私に連絡して。あなたにカウンセリングを受けて欲しいの。私が受けたところを紹介するから。それと、その病院の先生、あなたに興味があるみたいなの」
彼にそう頼んだ。さらに、
「それとね、もうひとつ……」
話を続けようとしたところ、
「あ、遥さんからだ。もしもし」
彼に遥からの電話が入った。連絡が終わったあと、
「もうすぐ遥さんが来るよ」
そう彼が声をかけた。そしてほどなく、
「待たせてごめんね。二人とも、私について来て」
遥が図書館に現れ、3人は彼女が住むマンションへ向かった。
図書館から歩いて2分ほどのところにある25階建のマンション、その19階に遥は住んでいる。入口はオートロック方式のため、住人でないとまず入れない。それゆえに大輝には、会いに行く時は必ず連絡をしてほしいと伝えていた。さて、遥の家に着いた3人は、彼女が入ったあとに二人が入り、手を洗ってからリビングへ向かった。そして椅子に座るなり、エリカが大輝に対し、
「ダイちゃんの言った通りよ。遥さん、本当に『私達と同級生です』と言っても、全く違和感が無いぐらいきれいな人ね」
小声でささやいた。彼も一言、
「そうだね」
うなずきながら答えた。ほどなくして、遥がカップに入ったコーヒーとお菓子を持ってきた。そして、
「ひろき君、来てくれてうれしいわ。ところで、今あなたの隣にいる人が、以前メールで紹介した……」
その時、エリカが立ち上がり、
「エリカです。高津エリカと言います」
軽くお辞儀をしながら自己紹介した。一方遥は、
「よろしくね、エリカちゃん」
そう言いながら、一枚の名刺を渡した。それを受け取った彼女は、
「遥さんって、会社の役員をしてるんですね」
感心しながら答えた。
それからしばらくは、遥の会社のことや、彼女たちのファッションについての話、初めて大輝と出会った日の話で時間が過ぎていった。その間、何度か大輝は怒られていた。そして、おもむろに遥が、
「そう言えばエリカちゃん、『会社を辞めたい』って、私にメールを送ってきたわよね?」
エリカにこう問いかけた。彼女は、
「はい。その件でお伺いしたいことがございます。それともう一点、カウンセリングの結果についてです」
そう遥に伝えた。大輝は、
「あれ? 結果って、そんなに早く出るの?」
首をかしげながら言った。するとエリカはため息をつきながら、
「あのね、ダイちゃん、あれから二週間経ってるのよ。それに、その間にもう1回カウンセリングを受けたから……」
こう答えた。彼は頭をさすりながら、ただ苦笑いをしていた。改めて彼女は、遥に対し、
「実は、現在働いてる会社では、相談できる相手がいませんでしたが、最近になって、ようやく私のことを気にかける人が出てくれました。カウンセリングを受けたのは、その人のすすめです。ただそのために、以前よりも職場で嫌がらせを受けるようになりました……。今の会社に入社した時から、職場の先輩を中心として、私はいろいろなことをされてきました。正直言って、私はもう耐えられません……。私が耐えていけば、事態は好転かも知れないとも思いましたし、ダイちゃんの励ましもあって、ここまで辛抱してきました。だけど……、このことを訴えても、取り上げて、くれないし……」
話を伝えている最中で突然涙ぐんだ。その様子を見た遥は、
「なるほどね……。聞いた限りでは、職場の人間関係は、あなたにとってかなりひどいものになってるわね……。恐らく、カウンセリングを受けた病院の先生も、似たようなことを言ってると思うわ」
そう言ったあと、
「私個人としては、今の会社はすぐにでも辞めた方がいいと思うわ。あなたはよくここまでがんばったし、これ以上いると、あなたがダメになってしまう可能性が高くなるわね」
こう伝えた。それを聞いた大輝は、
「エリカって、本当にすごいんだよな」
感心しながらこう話した。すると遥は、首を横に振りながら、
「……ひろき君、気持ちはわかるけど、今はエリカちゃんと大切なお話をしてるところなの。そこは考えた方がいいわ。それと、あなたには、無理やり会話に割り込むくせがあるみたいね。今度私がちゃんと指導してあげるから……。それと言いたいことがあったら、エリカちゃんとの話が終わったあとで聞いてあげるわ」
彼を諭す感じで言った。彼はうつむきながら、ただ黙っているしかなかった。再び遥は、エリカを見ながら、
「ごめんね、ちょっと邪魔が入ったみたいで……。ええと、どこからだったかしら……」
考え込んでいると、エリカが、
「カウンセリングの結果について、ですね」
と答えた。そして、
「結果の方ですけど、『恥ずかしがり屋』と診断されました。それも、度合いが強いと……。ただ病院の先生は、私たちのことに興味を持ってくれてるみたいで、『ダイちゃんのことを一度診断してみたい』と言ってました」
こう遥に伝えた。彼女は考え込みながら、
「そうだったの……。だけど、今のエリカちゃんを見ると、とてもそんな感じには見えないわね……。先生もそう思ってるんじゃないかしら……」
エリカに疑問を投げかけた。彼女は、
「はい。それと先生は、『よくここまでひとりでがんばったね』とねぎらってくれました。私は本当にうれしかったです」
はっきりとした口調で答えた。遥は、
「“ひとりで”って……、あなた、もしかして家族と……」
思わず口に手を当てながら、言葉をつまらせた。エリカは少し顔を曇らせながら、
「ええ、あなたが想像した通りです。私は、親には小さい頃から期待をかけられてはいましたが、失敗した時は何度もそのことを責められました。それと、何の理由もなく怒られたことも度々あったり、困った時も相談にのってくれなかったし……、今考えると、自分は本当に親に愛されたのか、わからない感じがして……」
そう話したが、言葉に力がなかった。その様子を見た遥は、
「そういったことがあったの……。つらい思いをしてきたのね……。だけど、よくここまで立ち直れたから、あなたは本当にすごいわ。私にはそこまでできるかどうかわからないわね……。それと、これは私個人の考えだけど、エリカちゃんは、あなたのような人間を助け出す、もしくは何らかの形でサポートをする人になった方がいいと思うの。あなただからこそそれができると私は思うわ」
エリカを励ましながら、新たな道を勧めた。話を聞いたエリカは、
「……ありがとうございます、遥さん。私、自分のやりたいことが見えた気がします。それと、これでようやく決心がつきました」
力強く答えた。その表情には覚悟が感じられた。その様子を見た大輝は、何か話そうとしたが、また遥に怒られそうだと感じたのか、そのまま口をつぐんだ。遥はエリカの姿を見て、
「あなたの決意は十分感じたわ。だから、自分が考えた通りにやってみなさい。何かあったら、私はあなたの味方になってあげるわ」
そう話した。それを聞いたエリカは、涙を流しながらも、表情は笑みで溢れていた。そして、涙を拭いて遥にお礼を言おうとした時、一匹の黒いクリームみたいな毛色をした犬が突然彼女の前を横切った。そして大輝のところに来ると、激しくしっぽを振りながら何度も吠えた。彼がその犬を抱くと、顔をなめはじめた。その様子を見た遥は、
「あら、ひろき君が気に入ったのね、リオン」
笑顔でそう言った。それを聞いたエリカは、
「かわいいダックスですね。それにしてもダイちゃんって、いろんな動物に好かれる人なんですね」
感心しながら、遥に伝えた。一方の大輝は、
「あの、ちょっと……、くすぐったいよ……。遥さーん、このダックス、何とかしてくださいよー!」
あまりにリオンが彼になつくため、彼は悲鳴に近い叫び声をあげて、遥に助けを求めた。彼女がリオンを抱いて落ち着かせた。その間に彼はハンカチで顔を拭いたあと、
「そのダックスって、そんなになつくんですか!?」
驚いた様子で彼女に尋ねた。すると彼女は、
「あら、もう忘れたの!? あなたと初めて会った時に、私が一緒に散歩に連れていった犬よ、リオン君は」
そう答えた。それを聞いたエリカは、
「『リオン』っていうんですね、そのダックス」
と聞いた。遥は、リオンを床に降ろし、
「ええ。それとこの子、優しい人によくなつくの。例えば、そこのひろき君のように、それこそ激しいぐらいに動くこともあるわね」
笑みを浮かべながら答えた。その時、リオンはエリカのところに近づき、しっぽを振りながら彼女の右足に抱きついてきて、すぐさまなめはじめた。彼女は、
「ちょっとやめて、くすぐったいわ……。ああ、買ったばかりのデザインストッキングが破れてしまう……」
気持ち良さと困惑ぶりが混ざった感じになってしまったようだ。それを見た遥は、リオンをエリカから引き離したあと、
「どうやら、エリカちゃんも、ひろき君と同じ優しい人みたいね」
笑顔で話した。
その後も3人は、いろいろな話などで盛り上がった。また、昼に遥が作った料理は、簡単なものではあったが、なかなかの味だった。充実した時間が過ぎていき、夕方になった。そして大輝とエリカが、
「今日はありがとうございました。本当によかったです」
二人同時にお礼を述べた。それを聞いた遥は、笑顔で二人を見つめていた。そして、彼女の家を出た二人は、そのまま家に帰ろうとしたが、突然の雨で図書館に立ち寄った。とはいえ、図書館は既に閉まっていたので、入口で雨宿りすることになった。暗くなった空を見ながらエリカは、
「ねえ、ダイちゃん、私初めて知ったの。あなたがあそこまで動物に好かれるって」
そう大輝に話した。彼は、
「いや、そう言われると、ちょっとテレるな……」
そうは言いながらも、声は弾んでいた。彼女はいきなり真顔になり、
「ちょっと話を聞いて」
と彼の顔を見つめながら言った。彼は驚いた表情をして、
「いきなりどうしたの!?」
と、彼女に聞いた。彼女は一枚の紙を見せて、
「ダイちゃんって、自分でお金を引き出せるの?」
こう質問した。彼は首をかしげながらも、
「いや、自分では引き出せないよ。今は親が管理してるから。だから、買いたいものがあっても、辛抱するしか……」
うつむきながら答えた。それを聞いた彼女は、
「そうなの……。わかったわ、ありがとう。それと近いうちに、私の知り合いにダイちゃんのことを紹介するわね。ダイちゃん、今日は本当に楽しかったわ。また一緒に遥さんのところに行きましょう。それと来月の休み、わかったら、すぐ私に教えてね」
そう言って、彼と別れた。いつの間にか雨は止んでいた。それを見て、すぐに彼も図書館を後にして、家に帰った。ただ帰りの道では、ずっと首をかしげ続けたままだった。
それからしばらくたった年明けの仕事始めの日の帰り、エリカは先輩社員たちに呼び出され、会社の近くにある居酒屋に行くことになった。そこに向かう途中でエリカは、
「あの、吉井さん……、私お酒は飲めません……。以前にもひどい目にあいましたし……。それに、新年会はまだですよね……?」
困惑気味に言った。同僚のひとりが、
「何言ってるの……!? わざわざ奈々先輩が、アンタのために誘ってくれてるのよ。感謝しなきゃ! 断ったら大変なことになるわよ」
と、エリカを牽制するように“忠告”した。その言葉を聞いた彼女は、腹をくくった感じの表情をしながら、奈々たちと一緒に、居酒屋に向かった。
居酒屋に入り、一通り注文を済ませたあと、奈々がエリカに、
「ねえ、アンタ会社を辞めるって、本当なの……? 今のアンタに、他に働ける場所があると思ってるの……!?」
冷ややかな目で見つめながら聞いてきた。エリカは深呼吸しながら、
「心配してくれてありがとう。でも、それは私が決めることではないと思うの。やりたいことを見つけたし、今は私の味方になってくれる人がいるから……。それで、あなたにひとつお願いがあるの」
淡々と答えた。それを聞いた奈々は、
「はあ? “お願い”って、アンタ一体何考えてるの!?」
いぶかしげに言った。エリカは奈々の横に座って、
「あなたにカウンセリングを受けてほしいの。これは、私なりのあなたへのお礼よ。あなたには、私を立ち直らせたところを紹介してあげるわ」
そう言ったあと、彼女が通っている病院のことが書いてある紙を、奈々に手渡した。奈々は顔色を変えて、
「エリカ……、なんで私が、カウンセリングなんか受ける必要があるわけ……!? 私のことバカにしてるの!? ふざけないで! アンタ何様なの!? 本当に頭どうかしてるわ!」
周りの状況などお構いなしにエリカに怒りをぶつけ、さらにつかみかかろうとした。慌てた周りが奈々を止めに入り、ようやく落ち着いた。それからすぐに、注文したお酒や料理が来て、飲み会が始まった。ただ、この日の飲み会は、エリカと奈々があれだけもめたこともあり、あまり会話もなく、早めに切り上げることになった。
飲み会が終わったあと、奈々とエリカは、帰りの駅で二人きりになった。互いの帰りの方向は違うが、奈々が半ば強引にエリカを引き留めたために、彼女も帰るに帰れない状況になった。そんな中で奈々は、
「エリカ、アンタいつから私にたてつくようになったの……!? そんなに私のことが気に入らないの……!?」
今にも吹き出しそうな怒りを抑えつつ、エリカに問いかけた。彼女はただうなずいたあと、
「ええ、その通りよ。今のあなたは、他の人をおもちゃかロボットみたいに扱ってるから、私は嫌いよ。だけど、そんな奈々さんを見てると、悲しいし、放ってはおけないから……。私は、そんなあなたを助けてあげたいの。……結果的だけど、私を立ち直らせるきっかけを作ってくれたし、今はもう、あの時私にお酒をたくさん飲ませたことは許してるから……。だから、お願い……」
きっぱりと話し、奈々を抱き締めた。奈々は、
「アンタって、本当にバカな人ね……。私はアンタをいじめ続けたのよ。アンタを死ぬ直前にまで追い込んだのよ。ふつうは、私に憎しみを持つでしょう? でも、これだけ人が変わるなんて全く想像できなかったわ……。私の負けよ。アンタの言う通り、カウンセリングを受けてあげるわ」
半ばあきれながらも、エリカの願いを受け入れた。それを聞いた彼女は、
「ありがとう。それと誰かをいじめるのは、私で最後にして。あなたが、そういった卑怯なことをやめれば、きっといいリーダーになれるから……」
笑顔でお礼を言った。奈々は、
「そんなこと言ってくれたの、アンタが初めてよ。アンタをそこまで変えた人の顔を見たくなったわ。あ、それと、カウンセリングの費用、アンタ持ちだからね。私に払わせるのはなしよ」
エリカに釘を差すように話した。彼女は笑みを浮かべながら、
「ええ、もちろんよ。そして、これがカウンセリングを受けるためのお金よ」
と言い、奈々にお金が入った封筒を手渡した。そして、
「奈々さん、私にいろいろなことを気づかせてくれて、ありがとうございます。これからもリーダーとして、頑張ってください」
そう言って、帰りの電車に乗った。エリカを見送った奈々は、
「本当にバカな人ね……。だけど、本当にありがとう……」
こうつぶやいた。その瞳には、涙が浮かんでいた。
それから、またしばらくたった1月の終わり、大輝とエリカの休みが重なった日のこと、二人は例の病院に来ていた。一緒にカウンセリングを受けるためである。ただ、大輝は体調を崩していた。朝体温を測ると、39度近くにあがっていた。せきが止まらなかったこともあり、急遽病院に行くことを会社に連絡した。実はこの日は、彼の会社では全員出勤することになっていて、既に彼の部署にも1週間あまり前に通知が来ていたのだが、何故か彼だけは、前日になるまでその事実を知らなかった。彼自身何度かリーダーに聞いたが、部署の人たちは彼に何も伝えなかった。その時も彼は何も言えず、ただ休みの変更に応じるだけであった。
自分にとって大切なことがあるのに……
さすがにその時はショックを隠せなかった。彼自身、会社では人間関係に苦しんでいたが、このようなことをされるとは、全く思っても見なかった。病院の入口で、エリカにそのことを伝えると彼女は、
「そんな会社、すぐに辞めてしまいなさい! これがいい機会よ。これ以上そこにいる必要なんてないわ」
怒りに震えながら彼に叫んだ。彼が倒れそうになって、慌てるように彼を支えたあと、
「大丈夫!? ちょっと、熱があるじゃない! 早く中に入って……。でもこれじゃ、カウンセリングは無理ね……」
そう言って、一緒に病院に入った。彼は、
「それでも、カウンセリングを、受けたいよ……」
と言ったが、その言葉には元気が感じられなかった。彼女は首を横に振って、
「ゴメンね。ダイちゃん、体調が悪いみたいだし、今回はやめた方がいいと思うわ。だけど、あなたのことは必ず先生に紹介するわ」
そう伝えた。彼はためらいながらも、
「わかった……。そうするよ……」
と答え、風邪を治すために、内科に向かった。それを見て彼女は、カウンセリングルームに入った。
カウンセリングルームに入ったエリカは、先生が来るまでの間、部屋にある本を読んでいた。ほどなくして、先生が入ってきた。その様子を見た彼は、
「久しぶりですね、エリカ君。今日はひとりですか?」
そう聞いてきた。彼女は、
「はい。残念ながら、ダイちゃんは風邪で体調を崩して、ここに来てません。ただ、病院には来てますので、せめて先生に彼を紹介することだけでもできないかと……」
お願いをする感じで答えた。すると彼は、
「翔梧でいいですよ、エリカ君。それと先程、『ダイちゃんが風邪で体調を崩してる』と言ってましたね。まあ、後で彼の様子でも見ましょうか。彼には、早めにこちらに通える日を伝えてください。早く風邪を治して、彼の話を聞いてみたいところですね。今回は話を聞けなくて残念ですけど……」
そう言った。それから、
「それと、別の先生から話を聞きましたが、その先生が担当した人の中に、あなたに感謝する人がいたと……。『カウンセリングを受けて本当によかった』とも言ってたようですね」
その話を聞いた彼女は、
「よかった……。奈々さんがそう言ってくれて……。これで奈々さんもいいリーダーに歩み出してくれるみたいね……」
笑みを浮かべながら言った。彼は驚いた様子で、
「まさか……、君がそこまで……」
そう言ったあと、さらに、
「エリカ君に大切なお話があります。後程電話でお話することになるので、カウンセリングを受けたあと、改めて電話番号を確認させてほしいのですが、よろしいでしょうか?」
彼女に問いかけた。それを聞いた助手の女性は、
「鶴居先生、それはちょっと……」
と、やめた方がいいという感じで彼に伝えた。彼は、右手を軽く横に振ったあと、
「いや、これからの治療の方針と、今日ここに来る予定だったダイちゃんという男性についての話をしたいと思ってね……」
こう答えた。助手は、
「先生、治療のお話はここでした方がよいと思いますが……」
そう聞いた。彼は、
「君が言いたいことはわかりますよ。ただ、しばらくは十分な時間も取れない状況ですし、話を聞いた限りでは、むしろダイちゃんという男性の方が心配ですね、私としては……」
助手の問いに答えた。そして、エリカのカウンセリングが始まった。同時に彼女は、この部屋に入る前に大輝が話していた内容も翔梧に伝えた。それを聞いた彼は、大輝にできるだけ早く病院に来るように伝えることを彼女に指示して、カウンセリングを続けた。
しばらくしてカウンセリングが終わり、エリカが部屋を出ると、診察を終えた大輝が待っていた。次の患者が来るまで間があるということで、翔梧も彼の様子を見に来た。エリカが彼に、
「ダイちゃん、先生が来たよ」
と伝えたが、彼は何も答えなかった。彼女が事情を聞くと、
「実は、さっきインフルエンザって診断されたんだ……。だから、会社にそれを報告したんだけど……」
せきをしながら、元気なく答えた。彼女が何か言おうとした時、翔梧がさえぎる感じで前に出て、
「君がダイちゃんですか?」
そう大輝に聞いてきた。彼は一呼吸置いて、
「……はい。それと、ボクはひろき、と言います……。ええと……」
こう話していたが、せきが続いて、かなりつらそうだった。それを見た翔梧は、
「インフルエンザですか……。わかりました、手短に用件だけ伝えましょう」
そう言ったあと、一枚の紙を渡して、
「あなたには、すぐにでもカウンセリングを受けてほしい。エリカ君の話を何度も聞いて、私はそう思いました。インフルエンザを治したあとになりますが、病院に行ける日時をこちらにお知らせください。こちらに来る際、お渡しした紙を見せていただければ、優先してカウンセリングをします」
大輝に伝えた。彼は、
「え!? ボクなんかに……、ですか……」
恥ずかしそうに答えた。その様子を見た翔梧は、顔色を変え、
「相当なレベルのようですね……。念のため、あなたの連絡先をこちらに伝えてほしい。できればでいいですが……」
と言った。エリカは、
「ダイちゃん、私は伝えた方がいいと思うわ。彼は本当にあなたのことを思ってるから」
大輝に勧めた。彼はうなずきながら、
「わかった、そうするよ……。後で伝えてね……、エリカ……。そろそろ家に帰るから、ゴメンね……」
そう言って、重い足取りで病院を後にした。大輝を見送ったあと、彼女は翔梧に、大輝の電話番号を伝え、しばし話をしてから病院を出て行った。
病院を出て、家に帰ったエリカは、ある人に以下の内容のメールを送った。
-本当にごめんなさい、志帆さん。私のわがままでずっと連絡を断って……。……私はある男性に命と心を救われました。その人は、動物に好かれるという性質を持ってます。近いうちに、あなたに彼を紹介したいと考えてます……-
しばらくたったあと、次のようなメールが返ってきた。
-エリカ……、あなたが立ち直ってくれて、本当にうれしいわ……。このまま、あなたが大変な目にあってしまうんじゃないかと思って、心配で心配で……。でも、あなたを信じてよかった……。これからも連絡を取り合いましょう。これまでのことは、もう全然気にしてないわ。だって、あなたが元気を取り戻したから……-
そのメールを見たエリカは、うれしさのあまり、しばらく涙が止まらなかった。その後志帆とは、以前にも増して仲が深まった。
一方の大輝は、重い足取りのままでコンビニに寄ったあと、家に帰った。その後、母に診断書を見せて、部屋に入ってそのまま寝込んだ。ところが、夕方になって何故か母に怒られ、その際、診断書を破られてしまった。実は診断書は、大輝が帰りにコンビニに寄った時にコピーしたものであった。彼が病院から出る時に、エリカがアドバイスしてくれたために、会社に提出するものは破られずにすんだ。ともあれ、インフルエンザのために、数日間は仕事に行けなくなった。その間、家族からいろいろと言われ、つらい気持ちでいた。その後も、インフルエンザで休んだことに関して、職場の人たちからも冷たい視線で見られ続け、気にしてくれた人がほとんどいなかった。それどころか、以前にも増してつらい目にあわされるようになった。
しばらくたった3月のある日、エリカと翔梧は、図書館にいた。エリカは2月いっぱいで退職して、翔梧のもとでカウンセリングについて学んでいた。二人で大輝について話をしていたさなかに翔梧は、
「ところでエリカ君、改めて君にとって、ダイちゃんとはどういった存在かな……?」
突然の質問の内容に戸惑ったエリカは、しばし考えながらも、
「ええと、ダイちゃんは、私の命と心を救ってくれた恩人です。それと、恋人ではありませんが、互いに理解しあえる人どうしだと思ってます」
そう答えた。それを聞いた彼は、
「そうですか……、わかりました」
と言って、一呼吸おいたあと、
「エリカ君、改めて君と二人でお付き合いしたい。もっと君のことを知りたくなったし、何より、もっと側にいたい」
改まった感じで彼女に話した。それを聞いた彼女は、驚いた表情をしながら、
「ええ!? 私なんかでいいの!? 私よりいい人がいるでしょう? それにダイちゃんのことはどうするの……!?」
あわてた素振りで混乱気味になっていた。それを見た彼は、
「もちろん、ダイちゃんのことは気にかけますよ。彼は何かいいものを持ってますけど、今抱えている心の問題を解決してあげないと、なかなかその力が発揮できない状況ですからね。協力は惜しみませんよ」
そう言ったあと、さらに、
「それでも、私は君のことが好きだ。君もダイちゃんと同じように、心の優しい性質を持ってる。それに君は十分魅力的だ。だから、私のアシスタントをやってほしい」
こう付け加えた。彼女は照れながらも、
「そんなことを言ってくれたのは、あなたが初めてよ……。本当にうれしいわ……」
彼を抱き締めながら、笑顔で話した。
一方大輝は、インフルエンザにかかってから、家でも職場でも居づらい状況になっていった。そんな彼を支えていたのは、実質的にエリカひとりだけであった。遥とはメールで相談をするものの、彼女の仕事の事情で、会って話ができなかった。無論、彼女も大輝のことを心配していて、必ず1日に最低でも一度はメールのやりとりをして、可能な限り、彼に電話をかけていたのだが……。そんな中で、大輝が3月のある休みの日に図書館に行った時のこと、彼が何気なく本を読んでいると、偶然エリカと翔梧が一緒にいるところが見えた。気になって耳をすますと、何かを話していた。そんな時、エリカが、
「あなたと交際を始めることになるなんて、ちょっと前までは想像がつかなかったわ。だけどあなたといると、私も意欲がわいて来るの。だから……」
話を聞いている途中で、大輝はイスから立ち上がって、持ってきた本を片付けもせず、そのまま図書館から出てしまった。それから、近くの公園に行って、おもいっきり泣いた。ちなみに二人は、彼が図書館にいたことに全く気づいていなかった。
それから数日後、追い打ちをかけたかのように、大輝は会社から『もう来なくてもいいよ』と伝えられた。つまり、クビになったということである。彼は仕事ぶりは真面目で、懸命に働いていた。ただ、破損こそ出さなかったものの、ミスが他人よりちょっと目立っていたのと、他人とのコミュニケーションがなかなか取れない点がネックとなっていた。直接の原因は、特に破損させてはいけない類の商品を彼が破損させてしまったということなのだが、実は後に破損をさせたのは、別の会社の人であることが判明している。それなのに、会社には大輝を守る人がいなかった上に、責任まで取らされた。彼は途方に暮れた。そしてその日は家に帰ることなく、会社に行く最寄り駅の近くにあるネットカフェで一夜を過ごした。
夜が明け、家に帰った大輝は、彼の母から、
「昨日なんで家に帰ってこなかったの!? 何かあったのなら連絡ぐらいしたらどうなの……。今日仕事あるでしょう」
と聞かれた。彼はうつむきながら、
「……ごめんなさい……。昨日、会社をクビに、なったよ……。それと……、商品の弁償を、しないと……」
ぼそぼそと小さな声で話し、『弁償額50000円』と書かれた書類を母に渡した。それを見た母は、
「出て行って、この家から……、今月中にね。この家にはもうお前は必要ないから……。他の人にも言っておくから」
突き放すかのように彼に言った。彼はショックのあまり、そのまま部屋にこもってしまった。そして、遥に一通のメールを送った。
-……ボクはエリカを失いました……。大切な彼女を、大切な人を……。さらに仕事も、住む場所まで……。どうしていいのか……、もう、何もわかりません……-
この時の彼は、これまでの希望がすべて打ち砕かれ、計り知れない絶望の淵に落とされた気分になっていた。会社も、家族も、そして、エリカまでもがみんな敵に回ったと思いながら……。しばらくして、遥からメールが届いた。
-ひろき君……、今日の夜7時に私のマンションの前まで来て。詳しく話を聞かせて。それと早まったことはしないで……。私はいつでもあなたの味方よ。だから、ここ私に任せて。必ずあなたを守るから……-
しかし、このメールが読まれたのは、送った日からしばらくたったあとだった。約束の時間になっても大輝が現れなかったために、ただならぬものを感じた遥は、何度も彼に電話をかけ、辺りを探し回ってみたが、結局何の反応もなかった。それから数日間、大輝は誰とも話をせず、スマホの電源も切って、部屋から一歩も出なかった。
そんな大輝の事情を全く知らないエリカは、彼の親にどうしても会いたいと考えていた。あることを確かめるためである。その話を聞いた翔梧は、彼女に考え直すように伝えたが、頑として聞かなかったため、彼女に同行することを条件に、行くことを認めた。そんな彼女を見た彼は、何か言い知れぬ不安や違和感を覚えていた。彼には、何かいつものエリカとは違う感じがしたようだ。
ある日の午前、エリカは翔梧と共に大輝の家に向かった。彼が大輝の家に一緒に行こうとすると、彼女は『心配しないで』と言って、ひとりで家に来た。そして、一呼吸置いて玄関のドアホンを押した。それを聞いた大輝の家族と思われる人が玄関から出てきた。どうやら彼の弟のようだ。エリカは、
「すみません、ダイちゃんはいますか? 私はエリカといいます。どうしてもダイちゃんに会いたいです。それとひとつお伺いしたいことがあります」
そう大輝の弟に伝えた。彼はいぶかしげな表情をしながら、
「『ダイちゃん』って、兄さんのことか?」
と聞いた。彼女がうなずくと、中に入るように言って、大輝を呼びにいった。しばらくたって大輝の母が来て、
「あれから何日も部屋から出てこないのよ。早く家から出したいけど、何とかならないかね……」
そう言いながら、エリカを彼の部屋の前に連れていった。エリカは母親に一礼したあと、
「ダイちゃん、あなたが本当に心配だから来たわよ。お願いだから開けて」
と呼んだ。するとドアが開いて、大輝が数日ぶりに部屋を出た。その姿を見た彼女は、彼が無言で部屋に戻ろうとすると、中に入り彼を抱き締めて、
「どうしたの? しばらく何も連絡が無いから……。私、あなたのことがどうしても心配で心配で……」
涙ながらにこう話した。だが、彼は無言のまま彼女を振りほどこうとした。その様子を見た母親は、
「本当に迷惑をかけてばかりで、困ってるところで……。そういえば、あなた聞きたいことがあると言ってたけど、何か文句でもあるの?」
エリカに問いただした。彼女は顔色を変え、
「ええ、ここでキッパリと言わせてもらいます」
と言いながら、大輝の口座からお金を引き出した時のATMの領収証を、彼の母に突きつけるように見せた。そして、
「あなたたち、本当にダイちゃんのことを考えてるの!? これ何? 彼は自由にお金を使えないのよ。それなのに、ここにある領収証5枚、すべて引き出した金額が15万円を超えてるわ。一体どういうこと……!?」
こう言ったあと、さらに、
「それにダイちゃんのこと、何かオモチャみたいに扱ってない!? 少なくとも、私にはそう見えるわ。このままじゃダイちゃんがかわいそうよ。これ以上、彼を苦しめないで!」
怒りをぶつけるように叫んだ。母親は、大輝を見ながら、
「大輝、また余計なことをして……。お前が家に迷惑かけてばかりで、ろくなことをしないから、こんなトラブルを招くでしょう。あんな人の言いなりになってどうするの!?」
怒りの矛先を彼に向けた。彼はショックのあまり、何も言えなかった。さらに彼の弟がエリカに、
「お前、あいつの何が分かるんだ!? 家族よりあいつのことが分かるわけがないだろう。ふざけたことを言うなよ!」
今にもつかみかかる感じでまくし立てた。争いはしばらく続き、近所の人もちらほらと大輝の家の周りに集まってきた。怒りに震えたエリカは、大輝の手を引っ張り、
「もうこんなところ、さっさと出ましょう! このままじゃ、あなたがダメになるわ!」
と言いながら、一緒に部屋を出た。ところが、玄関から出ようとしたところで、彼が出るのを拒んだ。彼女が理由を尋ねたが、一切答えようとしなかった。それでもしつこく食い下がると、彼は、
「……ごめん。もうボクのことにかまわないで……」
小さな声で彼女に謝った。彼女は一言、
「ダイちゃんのバカ……!」
と言いながら、彼の家を後にした。この時の大輝は、誰も何も信じられない、いわば“『信じる能力』を完全に壊された”状態となっていた。そして、この時初めて、『ある二文字』が彼の頭の中を駆け巡った。
一緒に来た翔梧の車に乗ったエリカは、大輝の家族について頭に来ていた。そして一連の騒動について、翔梧に話した。すると彼は、
「……なるほど、ダイちゃんの家族には、何らかの問題がありそうですね……。ところで、彼はどうしました……?」
彼女に問いかけた。彼女はうつむきながら、
「あのままだと、彼がかわいそうだからと思って、家から連れ出そうとしたの……。だけどダイちゃんに『かまわないで』と言われて、家に残って……」
力なく答えた。それを聞いた翔梧は、
「……大変なことになりそうですね。彼の家にはしばらく行けないでしょうね……。“最悪の事態”を考える必要がありますね、これは……」
厳しい表情をしながらつぶやいた。そしてエリカに、
「エリカ君、帰ってからじっくり話をしたい。彼には電話をかけるなど、出来る限りのことはするが、どうなるかは予想ができないね……」
こう話した。そして大輝にメールを入れたあと、自分の家に戻った。
翔梧の家に戻った二人は、昼飯を食べたあと、向かい合うようにして座った。そしておもむろに翔梧が、
「エリカ君、ダイちゃんを助けたい気持ちは分かる。ただ、他人の家族をめちゃくちゃにする権利はないはずだ……」
そう言ったあと、
「君には『自分が正しい』、あるいは『こうすれば相手のためになる』と思うと、周りを考えずに突き進む面があるね。先の騒動の件でも、よかれと思ってしたことが大変な結果を招いたように、独りよがりの考えでは、痛い目にあう。君が目指すカウンセラーというものは、そういった気持ちがあると、問題をこじらせることにつながる」
こう話した。エリカは反論するように、
「でも、あのまま苦しむ彼を放っておけるの……!? 私にはそんなひどいことできないわ!」
叫びながら言った。それを聞いた彼は、
「……君ならそう言うと思ったよ。ただ、やり方というものがあってね、何をしてもいいというものでもない。もしかすると今回の彼の件では、何か思い当たる節があるかもしれないね……」
考え込むように言った。さらに、
「申し訳ないけど、アシスタントの件や交際については一旦保留したい。それと、君に課題を与えることにする」
そう彼女に伝えた。彼女は急にうつむいてしまった。それに構わず彼は、
「これから来月いっぱいまで、自分がなすべきことを考え、それをレポートにまとめること。それは紙でもパソコンのデータでも構わない。もちろん、ダイちゃんを立ち直らせるのは絶対条件だ。そちらは私も全面的に協力する。ただしそれまでは、定期的な勉強会や、レポートまたはダイちゃんを助ける具体案を出す時以外では君とは会わないことにする。それとレポートについては一切答えない。レポートができた時は、必ず連絡をすること」
と言いながら、彼女に一枚の紙を渡した。彼女はうつむいたまま、その紙を取らなかった。ショックを隠せなかったようだ。
それから、しばらくエリカは何もせず、その場を動かなかった。見かねた翔梧は、
「……甘えても何も始まらない。もっと自分と向き合うべきだ。……だけどね、私は君がこの課題をクリアできることを信じてるよ。今の君に解けない問題は出てこないし、必ず解決の糸口は見つかるからだ。もちろん、自分で考えることは前提でね」
彼女の肩を叩きながら、諭す感じで話した。すると彼女は、涙を流しながら彼に抱きついて、そして泣き続けた。彼は何も言わず、ただ収まるのを待った。その後、カウンセリングの個人授業を行ったあと、彼女は家に帰っていった。
あれから数日後、大輝は当てもなく外を歩いていた。騒動の時以来、彼は家族から散々責め立てられ、近々家からも追われることになった。そしてここ数日、『自分がこの世にいなければ』と思い続けた。そんな中で、彼は橋の上に立った。しばらく、手すりに乗ったり降りたりを繰り返しながら、悩んでいた。そして手すりの上段に乗ったその時、彼のすぐそばに、一匹の動物が駆け寄った。その様子に気づいた近くの女性が止めに入り、大輝は歩道に降ろされた。女性は彼に対し、
「ちょっとアンタ、一体何やってんの!?」
怒鳴るように言った。彼は座ったまま振りほどこうとしたが、彼女は決して離さなかった。そのさなか、二人の周りに動物が何匹か寄ってきた。そのうちの一匹が彼の顔に近づき、いきなりなめはじめた。
「ちょっとどうしたの、いきなり……」
彼女はびっくりしながらも、その様子を見つめていた。どうやら、彼女の飼い犬のようだ。すると他の動物も、彼を励ますかのようになついてきた。彼女は、
「……ひょっとして、この人がエリカが言ってた、『命の恩人』なの……!? 確かに顔つきは似てるし、“動物に好かれる”という特徴も持ってるみたいだけど……」
考え込みながらつぶやいた。実は彼女は、エリカの前の職場の先輩であった吉井奈々なのだが、この時の大輝は、そんなことを考える余裕などなかった。しばらくして、彼は声をあげて泣きはじめた。見かねた奈々が彼のそばに寄ると、彼は、
「……なんで、ボクのところに……、寄ってくるの……? もう誰も、ボクの味方じゃ……、ないんだから……」
力なく話した。彼女は、
「……少なくとも、動物はアンタの味方になってるわ。だって、私以外にはあまりなつかないミリアが、あれほどまでになつくし、野生の鳥もあそこまでね……。本当にすごいものを持ってるのね、アンタは……」
感心しながら彼に語った。彼は座ったまま無言でいた。そんな彼に対し彼女は、
「それなら、私の家に連れてってあげる。今のアンタを放っておけないからね」
そう言って彼を誘おうとしたが、彼は全く応じなかった。仕方ないからと、彼女は自分のスマホと一枚の紙を取りだし、彼に紙を渡した。そして、
「これが私のスマホの電話番号とアドレスよ。今すぐ私に電話をかけて、メールを送って。必ずアンタの味方になってあげるわ」
こう伝えた。彼は疑いの目で奈々を見ながらも、彼女の言う通りにした。そして連絡が入ったのを確認した彼女は、
「ところで、アンタ名前なんて言うの?」
と聞いた。彼は、
「ひろきです……」
と答えた。彼女は、先程受信した彼のスマホの番号とアドレスを登録した。それから、
「それじゃ、アンタの家の近くまで一緒について行ってあげるから、帰ったあと私に報告して」
と言いながら、大輝と一緒に歩いた。彼は自分になつく奈々の飼い犬であるミリアを見ながら、ホッとした様子でついていった。二人は、大輝の家の近くまで世間話をしながら歩いた。奈々が自分の味方になってくれるのは本当だとわかった彼は、彼女にお礼を言って、家に帰った。
一方、翔梧に課題を突きつけられたエリカは、深く悩んでいた。とりあえず大輝に何度か連絡を入れたものの、全く出る気配が無い。さりとて、翔梧にレポートの質問をすることもできず、しばらく物事が手につかなかった。
-私はどうすればいいの……? カウンセラーって、本当に自分がやりたいことなの……!? ダイちゃんを助けるつもりが、あそこまで苦しめてることに気付けなかった私って……。こんなこと、他の人に言えないし、聞けないわ……-
誰かに話を伝えることもできず、ただうなだれていた時、突然スマホの着信のメロディが鳴り出した。確認すると、奈々からの電話がかかっていた。電話に出ると、
「エリカ、久しぶり! 私よ、ニューリーダーの奈々ちゃんよ♪ アンタのおかげで私も目が覚めたわ。今は本当のリーダーとして、職場のみんなから慕われてるの。今度アンタに会って、お礼がしたいわ」
弾むような声で話しかけてきた。エリカは、
「……ごめん。今の私は、あなたにお礼をしてもらう資格なんてないわ。だって……」
その口調に力が感じられなかった。それを聞いた奈々は、
「どうしたのよ、一体……。何かあったの……!?」
首をかしげながら問いかけた。しかしエリカは何も答えなかった。奈々は構わず、
「そういえばちょっと前に、ひろきっていう男が、自殺しようとしたの。慌てて止めたけど、あの時の彼って、本当に見てられなかったわ。だけど、ミリアがなつくなんて、本当に動物に好かれる人っているのね……」
感心しながら話した。『ひろき』という言葉を聞いたエリカは、急に態度が変わり、
「ダイちゃんが……、“自殺”、ですって……!?」
色めきたつように叫んだ。さらに、
「ちょっと大丈夫なの、ダイちゃんは!? 私のこと、何か言ってた……!? 何か恨んでた……!?」
矢継ぎ早に問いかけた。奈々は落ち着くように促したあと、
「別に恨んでなんかないわ。むしろ、彼なりに深く悩んでたわね。“味方がいない”ってね……。だけどもう大丈夫よ。私が味方になることを信じてくれたし、無論アンタが彼の味方ということも、ね……。ところで、アンタが言ってる“ダイちゃん”って、大輝のことよね?」
笑顔で答えて、エリカに確認した。彼女は、
「ええ、そうよ。彼のニックネームよ」
ゆっくりと言った。奈々は『大切な話をする』と言った上で、
「実はダイちゃん、もうすぐ家を追い出されるみたいなの。だから、しばらく私の家に泊めることにするわ。それと彼は動物に相当好かれてるから、最近私がよく通うペットショップに、彼を紹介してあげようと思うの。あそこって今、スタッフを募集してるでしょう? だから、アンタと一緒に彼を住み込みで働けるように頼みましょう」
こうエリカに提案した。彼女は、
「……心遣いありがとう。あなた本当に成長してるのね」
と言ったあと、
「……でも、彼は私の家に泊めてあげたいの。彼と向き合って、自分が本当に何をしたいのか、何をすべきか、何が足りないのか、そして彼のためにできることを考えたいから……」
そう伝えた。奈々は、
「そう、わかったわ。それじゃアンタに任せることにするわ」
エリカに大輝のことを任せた上で、
「アンタはいいところが結構あるわ。ただ時として、勢い余ってやり過ぎることが気になるわね……。それとちょっと自分中心の部分もね……。だからダイちゃんと一緒に、これからどうするかを考えた方がいいと思うわ。何か見えてくるし」
このように話した。エリカは奈々に一言お礼を述べた。それを聞いた奈々は、
「それじゃ、彼を紹介する時は、私に一言伝えてね。これから頑張ってね」
そう言って電話を切った。エリカは改めて近くに置いてあった求人誌を読むと、奈々が言っていた通り、ペットショップのスタッフ募集のことが載ってあった。そこにある担当の名前を見て、思わず手が止まった。そこには、『碓井』と書いてあった。
-……志帆さんが……!?-
早速志帆に事情を聞こうとしたが、考え込んでしまった。彼女に紹介するといっても、自殺しようとした人を受け入れてくれるかどうか、エリカにはわからなかった。それと他人に任せることで、自分が安易な方向に逃げているだけではないのかと感じたからだ。しばらく考えたが、なかなか結論は出なかった。
それから数日後、大輝は家を出ることになった。たまたま彼の家の近くに来ていたエリカは、その姿を見ると、
「ダイちゃん、こっちよー」
と呼んだ。彼は一度は振り返ったものの、すぐに別のところを向いてしまった。彼女はどうするか悩んだが、勇気を持って彼のもとへ近づいた。そして、
「本当にごめん……。ここまであなたを苦しめて……。文句があるならここで言って。それで気が済むのなら、甘んじて受けるわ。それと、一緒にあなたが働けるところと住む場所を探してあげるから、私の家に来て……。荷物持ってあげるわ」
彼にこう伝えた。彼は疑いの目で見ながらも、無言のままいくつかの荷物を彼女に預けた。彼女はそれを持ち上げ、改めて一緒に自分の家に来るように伝えた。彼はとりあえずそれを受け入れ、二人でエリカの家に行くことになった。
家に着いた二人は、荷物を置いたあと、向かい合うように座った。そしてエリカが、
「ごめんなさい。私のせいでこんな辛い目にあわせて……。だから、あなたのためにできることは何でもするわ。何か要望があったら言って。それと、あなたを紹介したい人がいるの。話を聞いてくれる?」
こう言った。大輝は何も言わず、ただうなずいた。早速エリカは、求人誌を彼に見せて、
「実はね、ダイちゃんにぴったりの仕事があるの。これを見て。『本当に動物が好きな人に来てほしい』って、こう書いてあるわ。あなたって、動物に好かれる人でしょう? だから、この人にあなたが住み込みで働けるように頼み込むの」
こんな提案をした。彼はえっ、という顔をした。動物に好かれるということは経験上わかっていたし、実際動物に命を救われたこともあった。だが、なぜかそのような発想が全く無かった。恥ずかしがり屋の性格が、いまだに影を落としていたのだろう。ともあれ、もう一度彼女が先程の話をすると、彼は、
「……やってみるよ。ありがとう」
と答えた。早速彼女は、志帆が店長をしているペットショップに電話をかけ、事情を説明した。すると、翌日の19時以降に来てほしいという回答があった。大輝を交えてじっくりと話を聞きたいという。それを聞いたエリカは、このことを彼に話したあと、奈々にはメールで伝えた。
そして翌日の19時の10分ほど前、店の前に3人が集まった。奈々は仕事帰りであったが、そのスーツ姿にはリーダーとしての貫禄が感じられた。エリカは彼女の足元を見て疑問に思い、
「あれ? 奈々さん、ストッキングについてるマークは何? そういうデザインってあったかしら……」
こう聞いた。すると奈々は、
「ああこれね。これはね、アンタや他の人たちをいじめて、会社を辞めさせた、何人もの人を踏みにじった自分に対する“戒め”ってやつね。アンタに以前言われた通り、もういじめはしてないわ。第一バカバカしくてやる意味が無いし……。いじめを止めて、自分と正面から向き合ったことで、自分が成長したことが実感できたから……。ただ、最初は相当苦しかったけど」
感慨深げに答えた。エリカは
「そうだったの……。いろいろあったのね、奈々さんも」
と言いながら、店の中に入った。他の二人も、後を追うようにして入った。
3人が店に入ると、女性スタッフが、
「いらっしゃいませ」
と声を掛けた。エリカは、
「すみません、店長にお話がありまして、こちらに伺いました」
こう言った。それを聞いたスタッフは、店長である志帆を呼びにいった。しばらくすると彼女が現れ、
「あら、久しぶりね、エリカ。ところで、あなたが紹介したい人は来た?」
と聞いてきた。エリカは大輝を連れてきたあと、
「ええ。この人が私の命の恩人です」
そう言って、彼を志帆の前に呼んだ。彼は、
「ええと……、ボクは、新川大輝といいます……。『ダイちゃん』と、呼んでください……」
緊張したのか、なぜかたどたどしい感じで自己紹介した。その様子を見た志帆は、突然考え込んだ。
-この人って、本当にエリカを救った人なの……!?-
この時の彼女の眼には、そう映ったようだ。そう思いつつも、彼を家の中に入れることにした。閉店後の事務処理などを女性スタッフに任せ、3人を店の奥にある家に呼んだ。
志帆の家に入った4人は、リビングに集まって、テーブルを囲むように座った。早速志帆が、
「エリカ、ダイちゃんって、本当にあなたの命の恩人なの……? いまいち信じにくいのだけど……」
エリカに疑問を投げ掛けた。彼女は、
「はい。彼がいたから、今私はここにいられるのです。それに……」
話を続けようとしたところで、今度は奈々が、
「私も間接的だけど、彼に助けられたひとりよ。それに、飼い犬のミリアが、彼に心を開いたかのようになついたし……」
その話を聞いた志帆は、興味を示すように奈々に近づいた時、
「店長、片付けが終わりました。お疲れ様です。後をお願いします」
女性スタッフの声がした。志帆は、
「ありがとう」
と言って、店のシャッターを下ろした。電気も消して、リビングに戻ろうとした時、別の客から預かっていた犬が、大輝のもとに来てなついていた。それを見た志帆は、
「エリカ、ダイちゃんが『動物に好かれる』というのは本当のようね……。早速だけど、ダイちゃんには、あさってからうちに来てもらうことにするわ」
こう述べた。エリカはこのことを大輝に伝えると、
「……ありがとうございます……。これから、よろしくお願いします」
とお礼を言った。エリカは、
「あの、志帆さん……、もうひとつお願いがあります」
と志帆に言った。彼女は、
「お願いって、何?」
エリカのいる方に振り向いて聞いた。エリカは一呼吸置いて、
「彼をここに住まわせることはできないでしょうか? 実は前日、家から追い出されて、住むところがないのです。彼は優しい人です。ただ、恥ずかしがり屋のせいか、人付き合いがあまり上手ではありません……」
こう打診した。志帆は考え込みながら、
「そうね、気持ちは分かるけど、ちょっとね……」
難色を示した。すると大輝が突然、
「……ごめんなさい……。ボクが家を追い出されたばかりに……」
みんなに謝った。志帆は両手を横に振って、
「あなたが悪いわけではないわ」
と言った。そして、
「……わかったわ。ダイちゃんと一緒に暮らすことにするわ。あるメールに書いてあった通りみたいだし、なおのこと彼を放っておけないから」
決心する感じで述べた。大輝は、
「ありがとう、ございます……」
深々とおじぎをしながら言った。志帆は、
「まずは店内や周りのサポートからね。私がいろいろと教えてあげるわ。これからよろしくね、ダイちゃん」
こう話して、手を差し出した。大輝はうなずいたあと、その手をとって握手した。みんなが笑顔になっていた。その後4人は、いろいろな話をして時間が過ぎていった。エリカと奈々が帰る時、志帆は、
「今日はありがとう。必ずダイちゃんは立ち直るわ。あなたたちも味方だからね」
こう伝えた。奈々が、
「ダイちゃん、私はアンタを信じてるわ。勇気を持てば必ず乗り越えられるから。私やエリカがいい手本よ。ねえ、エリカ」
こう言った。エリカもうなずいたあと、二人は店を後にした。志帆は大輝を見ながら、
「明日から、一緒に頑張りましょう」
笑顔で言った。大輝は深くうなずいた。こうして、二人の新たな生活が始まった。
-さて、エリカの文集を読んでいる3人は、一体どうしているのだろうか……? 何やら、新たな展開を迎えそうな感じがして……-
文集を読んでいたボクたちは、しばらく無言であったが、遥さんが、
「それにしてもあの時、奈々ちゃんが偶然ダイちゃんの近くにいなければ、今頃は……。あの時私には何もできなかったことが、彼に思いが伝わらなかったことが、本当にもどかしかったわ。それに、誤って志帆ちゃんに彼宛のメールを送ってしまって……」
こう切り出した。それを聞いた志帆さんが、スマホを確認して、
「ああ、このメールですね。気になったので残してました。多分、これがあったから、ダイちゃんと暮らす決心がついたと思います」
と言った。遥さんは、恥ずかしそうに顔をそむけた。ボクは、
「……だから、ボクと遥さんは気が合うのですね……。似た者同士みたいですし」
こう話した。志帆さんは何か言いたげだったが、遥さんは、
「そうみたいね。もしあなたと同年代だったら、結婚してたかもしれないわね」
ボクを見ながら答えた。志帆さんが、
「もう、ダイちゃんをからかわないで……」
困惑気味に言った。遥さんは笑顔で、
「そうね」
と答えた。その時インターホンが鳴ったので、ボクが玄関に行くと、
「明けましておめでとう。……あら、久しぶりね、ダイちゃん」
奈々さんが来ていた。ボクは志帆さんに、奈々さんが来たことを伝えると、『入ってきて』と返事があったので、彼女を中に入れた。するといきなり、一緒に来ていたミリアがボクになついてきた。その様子を見ていた奈々さんは、
「相変わらずダサいわね、ダイちゃん」
とつぶやいた。
奈々さんが加わって、4人になったリビングでは、彼女の飼い犬であるミリアと文集を絡めた形で話が進んでいた。そんな時遥さんが、
「そういえば奈々ちゃん、最近新聞で『次代のニューリーダー』として注目されてるみたいね」
ということを話した。奈々さんは、
「ちょっと、恥ずかしいことを言わないで。私は出来るだけ他人と対等に接するように、後輩を大切にしようとしてるだけよ。もちろん、上の人を含めて、他人をぞんざいに扱うことなんてできないわ」
照れながら言った。遥さんは、
「……なるほどね。それで業績を伸ばし、職場環境も良くなっていった理由の一端がわかったわ」
こう述べた上で、
「あなたのその考えは、大切にした方がいいわ。私も新人を採用する時に、『他人を踏みにじるような考えがある人』は採らないようにしてるの。たとえどんなに実力や実績があってもね。チームワークや職場環境を乱す要因になるし、何より他人を大切にしない人間には向かない仕事だから」
自分の考えを語った。奈々さんは真剣な面持ちで聞いていた。志帆さんは、
「そう言われてみると、分かる気がします。私たちの仕事も、動物が好きな人でないとなかなか務まらないですし……」
納得するように言った。そんな時、ミリアがエリカの文集で遊び始めた。それに気づいた奈々さんは、
「ミリア、そんなことをしちゃダメでしょう」
と言いながら、文集を取り上げた。ノートに書いてある名前に気づいた彼女は、
「へえ、エリカってこんなことをするんだ……。初めて知ったわ」
と言いながら、ノートを次々とめくっていった。それを見たボクはあわてて、
「あ、あの、まだ読んでる途中ですよ、奈々さん……」
そう言って、ノートを取ろうとしたが、彼女は応じなかった。見かねた志帆さんが、
「私たちと一緒に読みましょう、奈々さん」
助け船を出してくれた。奈々さんもそれに応じたのか、ノートを志帆さんに渡した。そして、最後に開いたところから再び読み始めた。
-ダイちゃんが志帆さんのコンプレックスを解消したということを知った時、私は自分のことのように喜びました。『ダイちゃんも成長したんだ』と……。このことを翔梧さんに知らせると、彼もびっくりした様子で、本当にホッとしてました。その時、私もようやくカウンセリングについて、すべきこと、目指す方向が見えてきました。奈々さんの『勇気を持てば乗り越えられる』という言葉にも励まされて、何とかたどり着けました-
ここまで読んだあと遥さんは、
「エリカちゃんと奈々ちゃんって、お互いが成長し合う、いい関係になってるのね。私も、こういう職場環境を続けられるように努力しなければね……。今よりももっと」
こんなことを口にした。奈々さんもうなずいたあと、
「そうね、エリカをいじめてた頃を考えると、本当に痛感するわね。いじめを止めた直後はだいぶ人が離れたわ。私自身、業績も落ちた時だし……。だけど今思えば、あれでよかったの。あれから自分自身を徹底的に見つめ直した結果、業績もエリカが辞めた直後より相当良くなったわ。去年の夏に係長に昇進して、リーダーを任されるようになって、現在に至ってるわ」
こう語った。遥さんは、
「そうだったの……。おめでとう、奈々ちゃん。あなたならいずれ会社を背負って立つ人になれるわ」
笑顔で言った。奈々さんは照れながら、
「ええ!? 私まだ成長途上だから、気が早いと思うわ」
と答えた。横で聞いていた志帆さんは、
「こうしてみると、以前奈々さんとエリカの関係があまりにもひどかったなんて、全く想像できないですね」
と話した。ボクを含めた3人ともただうなずいた。そして、
「もうノートも終わりそうですし、最後まで読みましょう」
こう呼び掛けた。それから4人は、読みかけの文集を最後まで読むことにした。
-大輝と志帆が一緒に暮らすことになったあと、彼とエリカはどうなっていったのだろうか?-
大輝が住み込みで働くことになって、翌日から志帆による指導が始まった。接客はまだ早いと判断した彼女は、店内の掃除や、グッズ類の品出しなど、いわゆる裏方の作業を彼に教えた。それと、お客が来たときや、スタッフの人には必ずはっきりとした声であいさつすることを伝えた。わからないことがあれば聞くようにと言った。そして次の日の9時過ぎ、志帆のペットショップで、彼女は、
「今日から、ここがあなたの働く場所よ。昨日言ったことは覚えてる? あとは、店にいるペットは大切に扱うこと。扱い方については後で教えるから、最初はスタッフのしてることを学んで、わからないことがあれば、近くのスタッフや私に聞くこと。それじゃ、お願いね」
こう彼に伝えた。そして二人の女性スタッフが店内に入ってきた。それを見た彼は、
「よろしく、お願いします……」
少し緊張した面持ちであいさつした。スタッフのひとりが、
「店長、この人が昨日言ってた、新人の男性ですか? 何か頼りない感じですけど……」
と言った。志帆は、
「ええ、そうよ。だからいろいろと彼に教えてあげて」
こう言って、シャッターを開けた。そして開店の準備を始めた。大輝も一緒に手伝いをした。
大輝の仕事ぶりは真面目であったが、ちょっと失敗が多かった。仕事の初日で、客の入りが多いということもあったが、言い訳が少し目立っていた。志帆を始め、スタッフも少し不安を感じ始めていた。そんな中、昼過ぎに犬を連れた男性客が入ってきた時、突然近くにいた大輝になついてきた。あわてたスタッフがその客のところに行こうとした時、彼の様子を見た志帆は、
「待って。彼には動物に好かれるという性質があるわ。だから、ここは私が行くわ」
と言いながら、
「すみません。どうか致しましたか?」
男性客に近づきながら問いかけた。彼は、
「いや、グッズを買いにきたのだが、飼い犬がそこの店員にしっぽを激しく振りながらなついてね……」
こう答えた。それを聞いた彼女は、
「実は彼、動物に好かれる人なんです。飼い犬もその事を感じたみたいです」
このように男性客に伝えた。すると彼は、
「いや、これは興味深い。ここまで動物に好かれる人は、私が知る限りではいなかったね」
感心しながら言った。そしてグッズを買い込んで店を後にした。二人の女性スタッフも、手を止めて大輝を見つめていた。
大輝にとっての初日の仕事が終わり、店を閉めたあと家に戻った二人は、リビングに移って、一日を振り返った。彼にとってはいろいろあった日になった。そのさなか志帆が、
「今日は、失敗と言い訳が多い一日だったわね。まあ、失敗は仕方ないけど、言い訳はちょっと……」
そう言った。大輝は、
「えー、だって、結構お客さん来てたし、それに……」
たどたどしい感じで答えた。彼女は
「……まだ会話がうまくできない感じね。会話に関しても教えてあげる必要があるみたいね。だけど、あの時のあなたの姿を見たスタッフも『すごい』と言ってたわ。『あなたをサポートする』とも言ってくれたし、また明日から頑張りましょう」
そう言いながら、台所に向かった。その時彼は、彼女が胸の辺りを気にする様子を見て、疑問に感じた。実は仕事中にも、幾度かそういった仕草をしていたのが見えたからである。ただ他のスタッフは、それに気づいていなかったみたいである。それから二人で夕飯を食べて、片付けたあと、大輝は自分のスマホを見ようとしたが、電源を切っていることを忘れていた。改めて電源をつけると、メールや電話が一杯来ていた。着信履歴に目を通すと、ほとんどエリカと遥からかかってきたものであった。メールをすべて読んで、初めて二人が自分のことをずっと気にかけていた事実を知った。同時に、遥が絶望の淵に立っていた自分を助けようと、彼女の家に誘ってくれたこともわかった彼は、しばし涙を流し続けた。そして、遥にこんなメールを送った。
-……あのメールを送った日、ボクは『もう生きていけない』と思い、一切の連絡を断って、自殺しようと考えました。ですが、実行しようとしたその時、ボクは動物と、エリカの知り合いの奈々さんという女性に助けられました。そして奈々さんは、『味方になってあげる』と言ってくれました。それから、エリカと奈々さんの二人が、家を追い出されたボクのために住み込みで働けるところを紹介してくれました。今は、ペットショップで志帆さんと一緒に住みながら働いてます。……本当にごめんなさい……-
しばらくして、遥から返信のメールが来た。
-本当によかったわ、ひろき君……。私は、あなたの味方になる人は必ず現れると信じてたわ。それで、今後あなたが成長するために、課題を用意しようと思うの。問題ができるのはもう少し後になると思うから、それまで待っててね-
このメールを見た彼は、安堵の表情を浮かべた。そして、志帆と話をしたあと、“初めての一日”は終わりを迎えた。
それから10日程がたった日のこと、ある女性が飼い犬と一緒に店に入ってきた。それを見た志帆は、
「いらっしゃい。……あら、遥さん、久しぶりですね」
こう話した。遥はこのショップの常連で、仕事帰りにも結構立ち寄ったりしているが、ここしばらくはショップに来ていなかった。
「そうね、最近重要な仕事が立て込んで、ちょっとこちらに寄れない日が続いて……。今日は、リオンのトリミングをお願いするわ」
リオンを抱いて、志帆に頼んだ。彼女は、
「わかりました」
と言って準備を始めた。その最中、大輝がトイレから出てきた。すぐ近くにいた遥は、
「ひろき君、ここで働いてたのね……。元気になってよかったわ……。私ずっと心配してたのよ。あれからどうなるかと……」
彼を抱き締めながら言った。彼は驚いた様子で、
「あ、あの……、遥さん、ちょっと……」
と言いながらも、表情は穏やかになった。その様子を見た志帆は、
「遥さん、ダイちゃんと知り合いだったのですか?」
遥に聞いた。彼女は、
「ええ、そうよ。彼についてお話をしたいけど、時間は大丈夫?」
こう問いかけた。志帆は一言、
「わかりました」
と答えた。スタッフにトリミングを頼んで、遥と一緒に端のテーブルに座った。
テーブルに座った二人は、最初の数分間は、最近のことについての話をしていたが、遥が、
「ところで、ひろき君の働きぶりはどうなのかしら?」
こう聞いてきた。志帆は、
「ええと、彼なりに真面目にやってます。ただ、少し周りが見えてない故のミスや、言い訳が多くて、接客ではなく、サポートというかたちで今はやってもらってます。ちょっと、スタッフとのコミュニケーションがうまくいかないところがあるみたいです。それでも、他のお客さんのペットからなつかれてますね」
と答えた。遥は、
「なるほどね……。彼には、まだ恥ずかしがり屋の性質が残ってるみたいだから、会話については、もう少し長い目で見た方がいいわ。そこで私は、彼に課題を与えようと思うの。もう少ししたらできるから、その時は、あなたにも協力してほしいの。それと、動物はちゃんと彼のことを見てるわ。実際に、私も彼に勇気づけられて立ち直ることが出来たし、必ず彼は成長するから。彼には『人を勇気づける』という才能があるの。これからスタッフと一緒に彼を見守ってあげて……」
志帆に伝えた。彼女はメモを取りながら聞いていた。遥はさらに、
「私は、ひろき君やあなたを応援してるわ。もし、何か聞きたいことがあったら、是非聞いてね。できる限り答えるから」
こんなことを話した。志帆はうなずきながら、
「わかりました。ありがとうございます」
とお礼を言った。そして一旦事務室に入った。
リオンのトリミングも終わり、会計を済ませたあと、帰ろうとした遥を見た大輝は、彼女のもとに向かって、
「あの、今日は、ありがとうございます……」
お礼を述べた。遥は、
「これからも頑張ってね。あなたの仲間は一杯いるから」
こう言いながら、店を後にした。志帆は彼に対し、
「よかったわね、気にかける人がいて……」
笑顔で話した。彼もうなずいて、再び仕事に戻った。
その後は、特にこれといったこともなく、淡々と過ぎていった。相変わらず志帆が胸の辺りを気にする状況を大輝は疑問に感じていたが、なかなか言い出せずにいた。そんな中で、客がいない夕方に、事務室で彼は思いきって志帆に、
「……あの、志帆さん、気になることがあります」
こう問いかけた。彼女が、
「どうしたの? ダイちゃん」
首をかしげながら聞き返した。彼は、
「ええと、志帆さんって、胸の辺りに、何か……気になることがあるの……?」
何かたどたどしい感じになってしまった。彼女は怒り気味に、
「もっとはっきりと言って。あなたが何を言ってるのか全然わからないわよ」
彼に問いただした。彼は、
「その胸って、何かいやな感じとか、するのですか……?」
そのように聞いた。彼女は、
「放っておいて。私は、この大きな胸がいやなの。昔これでいじめを受けたし、何度も性的な目で見られたこともあったわ。だから、このことには触れないで」
込み上げる怒りを抑えるように言った。彼はたじろぎながらも、
「ええと、ボクは志帆さんは、『包容力がある優しい女性で、周りの人や動物を和ませる』人だと思ってるよ。だって、志帆さんを見てるペットって、大抵落ち着きを取り戻すし、それに、遥さんもボクにあなたのことを『周囲を和ませる』って言ってたよ。ボクは、そこがいいところだと思うんだ」
勇気を振り絞るように伝えた。それを聞いた彼女は、しばらく言葉につまった。しかし、何かに気づいたかのように、
「……ダイちゃん……、それ本心なの……!?」
と聞いてきた。彼がうなずくと志帆は突然、
「ダイちゃん、ありがとう……。私の大きな胸について、“私のいいところ”として見てくれたのね……。お陰で、長い間苦しんだコンプレックスが嘘のように消えていったわ」
こう言いながら、うれしそうに彼を抱き締めた。その目には涙が浮かんでいた。大輝は戸惑いながらも、彼女を抱いた。しばらくそのままの状態が続いたが、時計を見た彼女が、
「もうすぐ閉店の時間ね。そろそろ片付けに入りましょう」
そう言いながら事務室を出た。すぐに彼も後を追った。
閉店後のすべての作業が終わり、志帆は突然、
「今日私は、ダイちゃんに勇気づけられました。実は、私には胸のコンプレックスがありましたが、彼のお陰でそれが消えていきました」
こんな話を始めた。女性スタッフが、
「店長、私はその大きな胸がうらやましいですよ。私今好きな人がいるんですけど、この胸のせいで何度もふられたから、また同じようになってしまうと思うと不安で……。店長のその胸を少しでも分けてほしいです……」
こう嘆いた。志帆は、
「あなたの気持ちはわかるけど……」
考え込んだ時、大輝が、
「ボクは、あなたを好きになる人は必ずいると思います。お客さんから親しまれてますし、胸が小さくても関係ないと思います」
こんなことを話した。女性スタッフは、
「そんなこと信じられないわ。だって、胸が無いせいでふられ続けたのよ! 私の気持ちなんて何にもわかってないくせに……」
怒りを彼にぶつける感じで言った。さらに何か言おうとした時、彼女のスマホの着信音が鳴った。彼女がスマホを確認すると、こんなメールが入っていた。
-夏音、本格的に君と付き合いたい。君が胸のことで悩んでるのは十分にわかってるつもりだ。私はそれを含めて、君をひとりの女性として愛してる。君の答えを教えてほしい-
このメールを見た夏音は、すぐに次のメールを送った。
-ありがとう。もちろん私の答えはただひとつ、『OK』よ-
大輝が疑問に思って何か聞こうとした時、夏音が、
「ダイちゃんありがとう。あなたの言った通りね。もう胸のことで悩まなくてよくなったわ♪」
うれしそうに彼の手を握った。彼は、
「いや、別にボクはたいしたことは……」
テレながら言った。志帆は夏音に3人で一緒に夕食を食べようと誘ったところ、夏音は快く誘いに応じた。そして夕食を食べたあと3人は、夏音が帰るまで楽しい時間を過ごした。そしてこの日を境に、店の雰囲気がさらによくなって、客も増えていった。大輝も、遥が出した課題をクリアしながら、どんどん成長していった。それでも、言い訳と時折周りが見えなくなる、といったところは、完全にはなくなっていないようだ……。
一方エリカは、大輝が志帆の店で住み込みで働くようになった日の翌日に、彼のことをメールで翔梧に伝えた。翔梧は安堵の表情を浮かべたが、まだ安心はできないと感じていた。大輝が仕事をちゃんと続けられるか、心配だったからである。それに、エリカからのレポートの回答が全く来ていないことも少し気になっていた。そんな中で、エリカは翔梧に電話をかけた。彼が出たのを確認して、
「すみません。レポートについて聞きたいことがあります……」
こう話した。彼は、
「その件の質問には一切答えないと言ったはずだが……」
少々厳しめの口調で答えた。彼女は、
「完成したレポートをどこに提出していいのかがわからないのです……。今のところ、レポートはあまりできてませんが……」
と言った。彼はうなずきながら、
「そうですね。それを伝えてなかったですね」
苦笑いしたあと、
「メールやデータを送る場合は自宅のパソコンに、資料を提出する場合は、連絡を入れて私の家にじかに来てほしい。パソコンのアドレスは後で教えることにする。最低でも4月一杯までに、まとまった考えを出してほしい。ダイちゃんには、近いうちに病院に来るように伝えておこう。これでいいかね?」
彼女に伝えた。彼女がわかったことを自分に伝えたあと、彼は電話を切った。エリカはその後志帆に連絡を取って、大輝の様子を聞こうとしたが、まだ早いと思い、その日は連絡を取らなかった。
それから数日間、エリカはレポートのことで悩み続けたが、あまり筆が進んでいなかった。そこで彼女はある女性に電話をかけた。
「あら、どうしたの? エリカ……。この奈々ちゃんに聞きたいことでもあるのかしら?」
電話の相手は奈々であった。エリカは、
「奈々さん、私不安なの。課題がうまくまとまらないし、出したとしても、受け入れられなかったら、どうしようかと思って……」
不安な気持ちを奈々にぶつけてみた。それを聞いた彼女は、
「アンタがそんな気持ちになるなんて、私がアンタにダイちゃんの仕事を紹介した時以来ね。それで、一体何が怖いの?」
逆にエリカにこう問いかけた。エリカは少し間をおいて、
「私、今カウンセラーの先生に課題を出されてるの。『これから自分がすべきことを考えよ』というものなの。だけど答えが全然できてないし、このままだと、先生から『必要ない』と言われるのが……」
こう答えたが、最後は言葉につまったような感じになってしまった。奈々は少し考え込みながら、
「そうだったの……。確かアンタ、カウンセラーを目指してたんでしょう? だったらその気持ちや、どのようなカウンセラーを目標にしてるか、正直に書けばいいと思うわ」
このように語った。これに対しエリカは、
「ええと、それはそうだけど……。今私は迷ってるわ。自分のこともよくわからなくなったし……」
と答えた。それを聞いた奈々は、
「……仮にもアンタ、勇気を持って私を正しい方向に導いてくれたんでしょう? 私はアンタじゃないから、代わりに答えを出すことはできないけど、少なくとも、相手を“ひとりの人間”として接した方がいいわね。それは時に思いが強過ぎて暴走しまうという、アンタの欠点を直すことにも繋がるわ」
こう話した。さらに、
「ほら、以前アンタが身をもって証明してくれたでしょう。私がアンタをいじめてた時、勇気を出して私のことを嫌いって言って、『いじめを止めれば良いリーダーになる』とも……。正直、あの時は辛かったわ。だけど、あれがいい薬になったわ。アンタなら『勇気を持てば必ず乗り越えられる』から……。たとえ、受け入れられなかったっていい、足りない部分は学んでから直せばいい。だから、自分が考えてることを、先生にちゃんと見てもらいましょう」
励ましながらエリカに言った。彼女は、
「奈々さん……、励ましてくれてありがとう。私やってみる。必ず課題を解決してみせるわ」
力をこめて伝えた。そしてもう少し話をしたあと電話を切って、再びレポートに取りかかった。
数日後、エリカはノートにレポートをしたためて、翔梧にレポート完成の報告を行った。その後彼の家に向かった。彼の家は、最寄り駅から少し離れていたが、彼女の家からバスで10分程度のところにあったため、彼女が向かう最中にレポートの確認をするとあっという間に着いた。そのため危うく乗り過ごすところだった。ともあれ、彼の家に着いて、その事を知らせた。彼はすぐに彼女を出迎えて家の中に入れた。
二人が翔梧の家に入ると、彼は早速、
「エリカ君、レポートを見せてほしい」
とレポートの提出を求めた。彼女は、
「これです」
そう言って、一冊のノートを彼に渡した。そのノートに書かれている内容は、
・自分の欠点について、またそれを直すための方法
・カウンセラーを目指す理由と、自分なりの考え
・大輝を絶望の淵に追い込んだことに対する反省
・自分を立ち直らせてくれた人たちに対する感謝
以上の4点に集約されていた。これに目を通した翔梧は、
「ふむふむ、君の考えは大体はわかった。ところで、これは自分で考えたものかね?」
エリカにこう問いかけた。彼女は、
「正直言って、ひとりでは完成できなかったです。奈々さんが私を勇気づけてくれたからこそ、完成出来たと思ってます」
こう答えた。さらに、
「私はもう迷いません。これからやるべきことは、他人を勇気づけるカウンセラーを目指すこと。相手をひとりの人間として接すること。そして『他人のために』と言いながら、自分のことだけしか考えてなかった自分を変えることが、今私がすべきことです」
きっぱりとした口調で言い切った。彼はうなずきながら、
「……君の答えはわかった。しかし、個人的には君はそこまで自己中心的な人間ではないとは思うが……」
ちょっと首をかしげた。彼女は間をおいて、
「先生、私はどうなるのでしょうか?」
こう問いかけた。彼は、
「君には、今度完成するクリニックのスタッフとして来てほしい。無論、勉強会はこれからも続ける」
こう述べた。さらに、
「それに伴って、4月一杯で病院を退職することになった。今後の準備にも時間がかかる。だから君には、すぐにでも私の家に来てほしい。君と一緒に暮らしたい。そして、君と一緒にクリニックを軌道に乗せたい」
こんなことを口にした。エリカへのプロポーズである。彼女は、
「ありがとう。本当にうれしいわ」
涙を流しながら彼を抱き締めた。
それから、クリニックは6月初めに開業した。最初は入りも多くはなかったが、『人を勇気づける』カウンセリングが次第に評判を呼び、
予約で一杯の日も珍しくなくなった。今ではエリカも、カウンセラーとして表に立って診察することがあるという。
-さて、エリカの文集を見ている4人(と一匹)は一体どうしているのだろうか?-
ボクたちは、エリカの文集を読み終えた。その文集の最後には、このように綴られていた。
-ダイちゃんと志帆さんにはすでに知らせてあると思いますが、私は3月に、翔梧先生と結婚することが決まりました。厳しい指導を受けてますが、充実の日々を過ごしてます。これまで私を立ち直らせてくれた皆さんに、感謝の意をこめて、その気持ちを文集にまとめました。とくにダイちゃんには、命も心も救われた上に、進むべき道まで示してくれたということで、感謝してもし尽くせないぐらいです。
最後ではありますが、今度の2月初めに、ダイちゃんの家にカウンセラーとして向かうことになりました。ダイちゃんへの恩返しとともに、先生から出された“最終試験”を、必ずクリアできるように精一杯、ダイちゃんのサポートをします-
これを見た志帆さんは、
「ダイちゃん、これどういうことなの?」
ボクに問いかけた。ボクは、
「実は、先月に家から、『大変なことになってる』という電話があったんだ。10月辺りからギクシャクしはじめてたらしく、こちらが協力を呼び掛けても、断られ続けたし、それでも何とかしたいと説得して、2月の出張カウンセリングを受け入れることで、決着したんだ。ただ、エリカを毛嫌いしてるらしいので、そこがちょっと……」
こう答えた。志帆さんは、
「そうだったの……。私たちは応援することしかできないけど、あなたたちならきっとやれるわ。だって……」
話の最中に、奈々さんがミリアを抱えながら、
「『勇気を持てば、必ず乗り越えられる』。曲がりなりにも、アンタは私を含めて何人もの人を救ってきたのよ。アンタの後ろには、私たちがついてるわ。あ、動物もそうよね……。だから苦しくなったら、最初の言葉を思い出して」
ボクを励ますように言ってくれた。その時、インターホンが鳴って、ミリアが突如玄関へ走っていった。慌てた奈々さんと志帆さんが玄関へ向かって、志帆さんドアを開けると、
「あら、久しぶりね、南里さん。今日はどうしたの?」
夏音が来ていた。すると、ミリアがいきなり夏音のもとにかけつけ、彼女の足下でなつきはじめた。彼女はミリアを持ち上げ、あやすように抱いた。そして、
「先日は、私の結婚式で大変お世話になりました。おみやげを持ってきたので、皆さんで食べてください」
せんべいの詰め合わせを志帆さんに渡した。彼女は、中に入るように夏音を誘い、夏音もそれに応えるように、家の中に入っていった。
リビングでは、夏音を含めて5人が賑やかに話していた。話題は多岐に渡っており、ボクがついていけない話も多かった。ただ、ひとつだけ言えることは、ボクを含めて5人全員(+エリカ)が、過去を乗り越えて、新しい道へと踏み出していること。この時のボクたちは、『過去がどうであれ、新しい一歩を踏み出せる』ことを実感した、忘れられない一日となった。
充実した時間が過ぎ、遥さんたちが帰っていった。そして二人で、今後のショップ経営と、スタッフ募集について話をした。実は夏音が、結婚を機に先月一杯でショップを辞めたために、スタッフが足りなくなっていたからだ。志帆さんは、夏音に対して『いつでも戻って来ていいよ』と言っていたが……。ともあれ、また新たな一年間が始まり、そして、新しい出会いが生まれる。ひょっとすると、それが人生の大きな転機に繋がるかもしれない、という可能性を含みつつ……
そして2月の初旬、ボクとエリカは自分の実家の玄関前にいた。ボクが改めて家族と向き合い、何とかして家族の助けになりたいと、エリカが働くクリニックに出張カウンセリングを頼んだ。彼女はカウンセラーとして、ボクのサポートに回るために一緒に来た。ここに来る直前、翔梧先生から、『君はあくまでもサポートに徹すること。彼らを勇気づけるのは大いに結構だが、問題の解決には関わらないこと』という注意を受けていた。ボクが実家に入ろうとした時、
「エリカ、どうしたの? 突然ノートを読み始めて……」
こう聞いた。すると彼女は、
「ううん、何でもないの。ただ、これに未来がかかってると思うと、失敗するわけにはいかないかな、と……」
こんなことを口にした。ボクは、
「エリカはサポートに回ってほしい。これは、ボクたち家族の問題だから」
そう言った。そして、
「『勇気を持てば必ず乗り越えられる』。大丈夫だよ。解決方法は必ず存在するから」
こう二人を鼓舞するように、言い聞かせた。そして、二人で実家の中に入っていった……。