本気で逃げ出したい(無理だけど)
小さな歌声が聞こえる。
歌声というよりも鼻歌と言うべきなのか、微かだが確かに存在している優しい音は私を微睡へと誘い込む。
そのまま眠りそうになるのを何とか耐え切って瞼を上げると、見慣れないというか一度も見た事すらない天井があった。
「あ、起きた?」
「……殺人鬼さん?」
まだ少し歪む視界に入り込んできた男をきちんと思い出すのに僅かな時間を要した。
ついさっき一緒に廃墟ビルの屋上から落ちて、自殺しようとする私を望んでもいないのに助けた変な男。
言葉の端々から滲み出てくるヤバイ気配に咄嗟に逃げようとしたが、呆気なく私を捕まえて気を失わせた危ない男。
「此処は何処なの?県外?国外ってことは無いよね?」
「国外では無いから安心して。序でに言うと県外でも無いよ」
「そっか。良かった」
思わず安堵の吐息を漏らす。
県外は兎も角として、国外に攫われていたら家に帰ることが出来なくなっていたかもしれない。
そこでハッとする。
私は死のうとしていたんだから、例え此処が何処であろうと関係ない。
外国であろうが見ず知らずの土地であろうが、私はその場所でこの命を絶てばいいだけの話。
帰る場所なんてもう何処にもない。
あの日の晩に、私は全てを失ったのだから。
「……笑ってる?いや、嗤っているかな?」
「ニュアンスの違いで何と無く読み取ったけど、他の人が聞いたら何言っているんだこいつってなるから気を付けようか」
「どうせ俺と君しか居ないんだから別にいいだろう。あ、そういえば君の名前は?」
「……このタイミングでそれを聞いてくるの?というか、名前を聞くならば先に名乗れ」
「俺は桐生三国。君は?」
「…はあ、私は花苑紗綾よ」
溜息を零した私は決して悪くない。
白い目を向けてもニコニコと笑っている殺人鬼さんこと桐生三国は、鋼の精神力なのだろうか。
へこたれなさ過ぎだろう。
「どうでもいいけど、此処は何処なの?」
「正確に言うと君が居た廃墟ビルから西に三キロ行った所にあるマンションだよ。セキュリティはバッチリだから安心して」
「何に安心しろと?」
「……何にだろう?」
言っている本人すらも分かっていないのに、それを私に聞いても意味がないだろう。
二人で首を傾げているのは非常に阿呆らしく感じる。
そう感じたのは私だけでは無かったようで、桐生も一度微妙な顔をしたかと思うと、軽く咳払いをして私の顔を見詰めてきた。
廃墟ビルの屋上に居た時から思っていたが、改めて見ると、桐生の顔はそこらのモデルや男優が裸足で逃げ出すほどに整っていて妙に苛つく。
「ん?そんなに睨み付けて、どうしたの?」
「何でもないわよ。それより、どうして私を此処に連れてきたのよ」
「うーん、何と無く」
「一回死んでくれないかな、この阿呆殺人鬼は」
全く痛くもない筈なのに、何故か頭が急に痛みを訴えてきたので米神の辺りを強めに指圧する。
それを見て相変わらずのニヤニヤした笑顔をする桐生は本当に、心底性格が悪いだろう。
最初に見た、あの爽やかそうな笑顔はやっぱり仮面だった。
「強いて言うなら、君のことが気に入っちゃったのと、死んで欲しくないかなあ、て思ったからだよ」
「殺人鬼なのに?“死んで欲しくない”」
「そう。矛盾してるよね」
どうやら自覚があるらしい変な殺人鬼は、自分でも良く分かっていないような、ちょっとだけ困ったような顔をしている。
嗚呼、またあの顔だ。
迷子になってしまった、幼い子供の泣きそうな顔。
「それでさ」
「話題の転換が露骨すぎる」
「いいじゃんいいじゃん」
「何がだ」
いい年した大人の男である桐生が悪戯好きの子供に見えてきた。
「で、何の話?」
「良ければさ、此処に住んでくれない?俺って家事がダメダメ過ぎて、悲惨な有様なんだよねー。見て分かると思うけど」
「…まあ、確かに悲惨よね。視線の遣り場が無くて困ったわ」
確かに桐生本人が言うように、家事がダメダメなのだろうということは簡単に見当がつく。
洗ってはあるのだろうが、干されてなくて皺くちゃになったワイシャツやズボンの洗濯物の山。
何とも言い難い異臭が此方まで漂ってきている、ゴミが山盛りになった元は綺麗だったであろうキッチン。
部屋の隅やタンスの上、小物の上などには埃が溜まり、床もザラザラしていて埃っぽいというとことん人間の体に悪い状態。
「取り敢えず換気しましょうか」
「それもそうだね。確か二ヶ月くらい帰って来ていないからなあ」
「とっとと窓を開ける!掃除用具は何処にあるの!」
「えっと、部屋を出て直ぐ右手にある物置の中です…」
豹変した私を見て目を見張った桐生は、この部屋の外を指差して場所を教える。
真性の綺麗好きである私にはこの状態は耐えられるものではなく、呑気に桐生と会話していたときも片付けたくて堪らなかったのだ。
それがここにきてブチ切れたのだから、結構な形相になっているだろうと自覚しているが止めるつもりは欠片もない。
人様の家だというのもお構いなしにズカズカと部屋を出た私は、物置にあった箒や塵取りなどの必要最低限しかない掃除用具に舌打ちをして、それらを両手に抱えると部屋に戻っていった。
「桐生は要らない物をゴミ袋に詰めてください。それと、洗濯物を洗濯機にかけ直してください。いいですね」
「あ、嗚呼」
「私はキッチンを掃除してゴミ出しをします。その後に掃き掃除や拭き掃除をしますよ」
「え?ゴミ出しは最後にすれば良くないか?」
「これだけゴミがあるのに、最後の一度だけで足りるわけがないでしょう!」
「す、すみません!」
服の袖を捲り上げて、薄茶色に汚れている壁紙に深い溜息を零す。
よくここまで汚すことが出来たな、と最早感嘆の領域に入ってしまいそうなほどに汚い。
汚過ぎる。
「まずは洗剤で洗い物の山を片付けて…」
もう一度溜息を零すと、私は勇んで掃除を始めた。
「漸く終わったあー」
「まあまあですね」
「これで!」
綺麗になった床に掃除でへばった桐生が寝転がる。
掃除をやっていた時のままの格好なので汚いから早く風呂に入れと言いたいところだが、結構疲れているみたいなので見逃すことにした。
桐生から借りた大きめのエプロンの紐を解いて畳む。
結んでいた髪の毛のゴムも解くと、やっと掃除を終えたという実感がでてきた。
「……何で自殺しようとした筈なのに、人様の家の掃除をやっているんだろう」
掃除を終えた途端にやってきたのは虚しさというよりも違和感。
自殺する為に廃墟ビルに行ったのに、何故か殺人鬼に助けられてその殺人鬼の家を掃除しているというある意味異常事態。
ぼんやりと綺麗になった部屋を眺めていると、口元にニヒルな笑みを刻んだ桐生が寝転がりながら近寄ってきた。
「ねえねえ、紗綾」
「何ですか」
「此処に住んでよ。俺は家事が出来ないって分かったでしょう。だから、俺の面倒を見て欲しいな」
確かに、桐生の家事能力の悲惨さは掃除の最中でも更に明らかになり、部屋の状態だけでこの程度だろうと思っていたのが恥ずかしくなるほどに酷かった。
「……でも、私は死ぬために」
「自殺願望は薄まっちゃったんじゃない?」
本音を言い当てられて黙り込む。
あの時は衝動的に死のうとしていたのを自覚しているし、そのままでいいやと思っていた節もある。
けれど、この阿呆な殺人鬼と過ごしているうちにその気持ちがだんだんと和らいでいったのも事実。
「安心していいよ。君が本当に死にたいと思ったのなら、俺が君を殺してあげる。痛みなんて感じさせずに、一瞬で」
「…そうね。殺人鬼の側に居れば、簡単に死ねそうよね」
「そうそう。俺の気が向いたら殺してあげてもいいし」
「それはちょっと遠慮したいかも」
「ふふふ。それじゃあ、契約成立。君が死にたくなったら俺が君を痛み無く殺してあげる代わりに、君は俺の面倒を見る」
「どうせ何もかもを失ったんだもの。それでいいわよ」
きっと家族は嘆くだろう。
殺人鬼なんかと契約したのだから。
でも、死ぬまでのほんの少しの間に可笑しなことを経験してもいいかなと考えていた私は気がつかなかった。
「殺してなんてあげないからね」
僅かに狂気を灯し、濁った恋情を浮かべたブラウンの瞳が此方をじっと見詰めていたことに。