第7節
部外者達
彩香が書記長に言われて、嫌々ながら、放課後の化学準備室へ向かった頃、同じように化学準備室を訪れた部外者があった。
それは、余り上品とは言えない訪問客だった。
「ずいぶん、楽しそうにしてるじゃねーか!ええッ、科学部長さんよ!?」
「二人っきりで、こんな暗い部屋のなかで、いったいどんな楽しいことを、していらっしゃるのかしらね?」
実に嫌らしいイントネーションの、そんなセリフと共に、いきなり、鍵の掛かった化学準備室のドアが蹴破られた。
入って来たのは、以前、彩香に突っかかって、酷い目にあった、例の転入生とその仲間の女子生徒だった。二人は、ドアの枠にもたれるようにして、出口を塞ぐと、薄暗い小部屋に嫌らしい笑みを向けた。
「なッ、何だ、お、お前達は!?ここは、部外者、立入禁止なんだぞ!」
その連中の素性を知っている捺差内は、そう言いながらも、体が後ろに下がるのはどうしようもなかった。
「だーから、部外者じゃなけりゃいいんだろう?」
「そうそう、アタイ達もお仲間に入れて欲しいのよね……」
そう言うと、この不良気取りの二人は、ケラケラと笑った。
「仲間に入りたいなら、仲間に入るよろし。でも、その前に、そのドアを直すよろしいネ」
高笑いを続ける女子生徒二人に、ニャンニャンはそう言って立ち上がった。
捺差内は、慌ててこの世間知らずの留学生の袖を引いたが、少女が気にする素振りはなかった。
事実上、この二人の不良は彩香と京子に押さえられていて、思うようには振舞えないでいた。彼女達は、そんな持って行き場の無い欲求不満の掃け口を、この可愛らしい留学生に見つけたのだろう。もしかすると、最初からこの娘の人気が気に喰わなくて、因縁をつける機会を伺っていたのかも知れない。
「なんだと、このやろう。中学生の癖に、お高く止まりやがって!」
「ニャンニャン、中学生違う。高校生あるネ、そんなことも、わからないあるか?」
「ヤローッ、下手に出りゃ、いい気になりやがって!年上に刃向かうとどうなるか、課外授業で教えてやろうか!?」
そう言って、元からこの学校にいる方が、いきなり、準備室の中にあったモップを掴むと、振り上げた。
外からそれを見ていた京子が、飛び出しかけたが、彩香がそれを押さえた。ニャンニャンに向かって振り降ろされたモップは、空を切るとそのまま乱雑に散らかった、準備室の床を直撃した。
だが、勢い余って折れたモップの柄が、並べられたモニターの一つに突き刺さった。
「やめろーッ!」
思わず、我を忘れた捺差内が、その女に飛びかかったが、もう一人の女に腹部を蹴り上げられて、床に倒れた。
しかし、一瞬でモップの攻撃を避けたニャンニャンは、次の瞬間、モップを振り上げた女の腹部に、体を潜り込ませた。中国娘は、その掌を相手の腹に当てた。
「ハッ!」
ニャンニャンの気合いもろ共、相手の体は宙を飛ぶと、外の化学室の壁に叩きつけられた。
「ヤローッ!気功法ってやつか!?」
とっさに転入生だった方は、準備室の奥に飛び込み、そこに山積みされた機材に向かって、手近なパイプ椅子を掴むと、振り上げた。
「おいッ!その、変な術を使うと、この機械がどうなっても知らないぞ!?」
さすがに、ニャンニャンは一瞬ためらった。
その隙を、不良女子高生は逃さなかった。振り上げられたパイプ椅子が、角度を変えて、中国娘を襲った。
その瞬間、起き上がった捺差内自身が、自分でも信じられない行動に出ていた。彼は、振りかざされたパイプ椅子に、思いっきり飛びついたのだった。
一瞬、自分の動きを押さえられた不良女子生徒は、後ろを向いたまま、片足を跳ね上げて、捺差内の股間を蹴り上げた。
「ギャッ!」
と、情けない声を残して、科学部長はその場に昏倒した。
「幸司!?よくもやったあるネ、部長が役に立たなくなったら、どうするあるか?」
何の役に立つのかはともかく、自分を助けようとして、捺差内が倒れたことに、ニャンニャンの眠っていた感情が目覚めた。ただ、この時この中国娘が思った通り、本当に科学部長が、可憐な少女のために行動したかどうかは、少々疑問ではあった。
ともかく、パイプ椅子を構えた上級生と、幼い留学生は、最高に険悪な雰囲気で睨み合っていた。
「ヤバイ!」
京子はそう呟くと、彩香を振り返ったが、彩香は静かに首を振っていた。
京子は、驚いたように、視線を部屋の中に移した。
「ゲッ!」
奇妙な声を上げたのは、パイプ椅子を振り降ろした女子生徒だった。
ニャンニャンの頭部に炸裂するはずの椅子は、その額からわずか数センチのところで、ピタリと止まってしまった。押しても引いても、それはビクともしなかった。
女子生徒は、慌てて自分の手を離そうとした。しかし、その手はどうしても、パイプ椅子を握ったまま離れなかった。
「なんだ、いったい、どうして……」
そう言う不良娘の顔に、恐怖が宿った。自分を見上げる幼いはずの中国娘が、不敵にニヤリと笑ったのだ。
やがて、その青い瞳に、金色の光が宿ると、不気味に輝き始めた。
「ギガ・マックス!」
『ニャンニャン、いけない!』
中国娘の言葉に、姿の見えない声が反対した。
しかし、三編みの少女の言葉と同時に、その小さな体が、金色の光を放ち出した。
「なに、いったい、なんなのよーッ!」
不良を気取っている女子生徒の、恐怖に引きつった声が、悲し気に化学室に響いた。
次の瞬間、準備室の機材が次々と動きだし、壊されたモニターまで、ニャンニャンと同じように金色に輝き始めた。
「やめてーッ!」
哀れな女子生徒の体が、パイプ椅子と共に宙に浮かぶと、その体も金色の光に包まれた。不敵な態度を取っていた彼女は、自分の体から自由が失われたことを知って、もはや恥も外聞もなく、泣き喚いた。
京子が、その光景を唖然と眺めていると、ようやく彩香が動いた。生徒会長が化学室の中へ入った気配を察して、金色に輝くニャンニャンが振り返った。
中国娘が振り返ると同時に、宙に浮かんだ女子生徒も、それにつられるように、化学室の方へ向きを変えた。
「そこまでに、なさいな……」
彩香の言葉に、ニャンニャンの表情が、奇妙に歪んだ。一瞬の後、宙に浮かんだ女子生徒の体が、弾けるように彩香めがけて飛んだ。
彩香は、まるで表情を変えなかった。女子生徒の体はそんな彩香の直前で、何か見えない手に押さえられるようにして止まった。
しばらくの、奇妙な停滞があった。京子の足も、なぜか動かなかった。それは、恐らく数秒間の出来事のはずだったが、あるいは数分の一秒のことだったかも知れない。
やがて、それが嘘だったかのように、ニャンニャンの金色の輝きが消えた。周囲の発光現象も、次第に納まって行った。彩香は、わずかにその薄い唇の端を歪めて笑った。彼女が軽く指を振ると、空中に浮いたまま、気を失っている女子生徒の体が、京子の方に放り投げられた。
とっさに、京子はその女子生徒の体を受け止めたが、思わずバランスを崩してしまった。それは、その重みが、突然のように京子の両腕にかかったせいだった。
「何をする気か知らないけれど、無関係な方を巻き込むことは、感心しませんわね」
彩香はそう言いながら、もう一人の不良娘を助け起こした。その女子生徒も、気を失ったままだった。
「それは、『彩の姫巫』としての、忠告あるか?」
そう言うニャンニャンの声には、いつもの明るさはなく、どこか遠くから響いているようだった。
彩香は、穏やかな微笑を浮かべて首を振った。
「いいえ、この学校の生徒会長としての、お願いよ」
そして、女子生徒の腕を肩に担いだ彩香は、化学室を出ようと、ニャンニャン達に背を向けた。
捺差内が目を覚ましたのは、ちょうど、そんな時だった。
「何だって、何が、生徒会長としての、忠告だって?」
科学部長は、頭を振りながら、彩香が言った言葉の最後の部分を、取り違えていた。
「あなた方が、夜遅くまで、二人っきりでいることに対する、忠告ですわ」
そう言って、振り返った彩香は、ニャンニャンに向かって、片目をつぶって見せた。
ニャンニャンも、わずかに、表情を緩めると微笑んだ。それは、いつもの可憐な留学生の、微笑みだった。
「なに言ってんだい!教師と一緒になるような、淫乱生徒会長に、そんなこと言われる筋合いはないね!!そうかわかったぞ、その不良達も、あんたの差金だな!俺達の作業を邪魔しに来たんだ、そうだろう!?」
とんでもない誤解だったが、彩香にとっては、そんな誤解よりも最初の方の言葉が、衝撃だった。
彩香はゆっくりと、京子の方へ視線を向けた。
「淫乱、私が、淫乱生徒会長ですって……」
京子は、情けない姿の、不良を気取る女子生徒を抱えたまま、首を振った。
「そんなことは、どうでもいいから、早くこいつらを、連れて行かなきゃ!」
「でも、淫乱って……」
うわ言のように繰り返す、彩香の背中を押すようにして、京子は化学室を後にした。
「ああ、そうだ。何をやっているのか知らないけど、終わるまでは、このドアは直さない方がいいかも知れないな。変な誤解は、されたくないだろう?」
ドアを出る時に、京子は中の二人を振り返って、そう言い捨てて行った。
ニャンニャンは、まだ腹の下の方を押さえて、ピョンピョン飛び跳ねている捺差内に、軽く背中から抱きつきながら、彼の顔を覗き込んだ。
「誤解されるの、幸司は嫌あるか?」
可愛い少女の両手が、その言葉と共に、科学部長の手に重ねられた。
その手が、下腹部を押さえている手に重ねられたことで、科学部長の理性は、完全に正常な判断力を失ってしまった。
「えッ?いや、別に、構わないけど……」
「なら、直させた方が良いあるな。部外者に邪魔されるのは、面白くないあるね?」
「そ、そうだね……」
可愛い少女に、同意を求められて、思わず捺差内は頷いていたが、果して自分の返事が適切なのかどうか、とてつもなく疑問だった。ただ、彼女の体が離れた時、自分が痛みを感じていないことに、彼は気が付かなかった。
そんな夢うつつの捺差内の返事に、少女は笑顔を見せると、荒された準備室の片付けを始めた。科学部長も、慣れない手付きでそれに続いた。捺差内は、この中国娘と生徒会長の間に流れた、この世のものとは思えない緊張の気配を知らなかった。
この時以来、この中国娘が自分のことを、名前で呼ぶようになったことについては、さすがの科学部長ももちろん気が付いた。だが、あえて訂正しようとは、彼も思わなかった。