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燃ゆる秋草

作者: 陸 真児
掲載日:2026/05/29

 

 一 鷹狩りの朝


 永嘉三年、秋。


 佐野守護・藤倉弾正忠景虎の居城、雲峰城の東に広がる薄野原は、朝露に濡れて銀色に輝いていた。


「若様、あちらに雉が――」


 供の者が声を潜めて囁いたとき、藤倉景時はすでにその気配を捉えていた。左腕に据えた鷹の足革を解き、低く鋭い声で合図を送る。蒼鷹は一瞬の躊躇もなく薄の穂を掠めて飛び立ち、悲鳴のような羽音とともに獲物を地に叩きつけた。


「見事にございます」


 供の者たちが口々に称えるのを、景時は片手を挙げて制した。二十一になる若者にしては落ち着いた所作であった。父・景虎の精悍な面差しを受け継ぎながら、母方の血か、どこか線の細い品のよさが同居している。兄の景國とは対照的に、武よりも文に秀でると評されることが多かったが、弓馬の技もまた一流であった。


 鷹を呼び戻し、再び腕に据えながら、景時は視線を北の山並みに向けた。あの稜線の向こうが河前国――藤倉家の親戚にあたる広杉修理大夫道兼の領国である。


 婿入りの話が持ち上がったのは、この春のことだった。


 道兼には嫡男がなく、三人の娘のうち長女に優れた婿を迎えたいと、かねてより所望していた。藤倉家の次男であり文武に通じた景時は、その候補として最も相応しいと、双方の重臣が口を揃えた。父・景虎もまた、隣国との結びつきを強めることの戦略的意味を熟知しており、この縁談を前向きに捉えている。


「若様、そろそろお戻りの刻限でございますが」


 近習の沢渡新之助が控えめに声をかけた。景時は小さく頷いたが、足はなかなか城の方角に向かなかった。


 城に戻れば、また父の前に呼び出され、河前への婿入りについて返答を迫られる。兄・景國はこの話を強く推し進めており、弟が家中に残ることで将来の家督争いの火種になることを懸念しているのだった。景國の危惧はもっともなことではあった。歴史が証明するように、有力大名家の兄弟間の争いは、しばしば家を滅ぼす。


 だが景時が婿入りを渋る理由は、家督への未練ではなかった。


 薄野原を抜け、城下に差し掛かったとき、景時の足がぴたりと止まった。


 道の脇、小さな地蔵堂の前で、ひとりの娘が膝をついて花を供えていた。野菊の素朴な黄色い花束を、丁寧に水桶に挿している。纏っているのは藍染めの小袖に、地味な色合いの帯。だが、その佇まいには、どんな綾錦よりも人目を惹く清冽な美しさがあった。


 朝の光が横から差して、伏せた睫毛の影が頬に落ちている。花を供え終えて手を合わせるその横顔は、景時がこの世で最も美しいと信じるものだった。


「志乃」


 呼びかけると、娘は顔を上げた。一瞬、黒目がちの瞳が大きく見開かれ、それからすぐに柔らかな微笑みが浮かぶ。


「景時さま。鷹狩りのお帰りでございますか」


 志乃。侍大将・高坂鉄山守忠勝の一人娘である。


 高坂忠勝は藤倉家譜代の重臣であり、その武勇は近隣諸国にまで聞こえた猛将だった。だが娘の志乃は父に似ず穏やかな気性で、歌を詠み、花を愛で、城下の子どもたちに読み書きを教えるような娘であった。


 景時が志乃に心を寄せるようになったのは、三年ほど前のことだ。城の御前で行われた歌会で、志乃が詠んだ一首に景時は息を呑んだ。


 秋風に 薄の穂波 銀に揺れ 誰を待つらむ 野末の月は


 巧みな歌というわけではない。だが、その静かな寂しさと、月を待つという祈りにも似た心情に、景時は自分自身の孤独を見た気がした。


「ああ。今朝は鷹の機嫌がよくてな、雉を三羽獲った」


 景時は供の者たちに少し下がるよう目配せし、志乃の傍に歩み寄った。地蔵堂の軒先に、朝の光が斜めに射し込んでいる。


「この地蔵さまは――」


「はい。母の供養に。今日で十三回忌なのです」


 志乃の母は、志乃が幼い頃に流行り病で世を去っている。以来、志乃は父・忠勝の手ひとつで育てられた。武骨な侍大将が、小さな娘の髪を不器用に結い、子守唄を歌って聞かせたという話は、城中で微笑ましい逸話として語り継がれている。


「そうであったか。よい花だな」


「野のものですから、たいしたものでは。でも、母はこういう花が好きだったと、父が」


 志乃が微笑んだ。その笑みの奥に、淡い寂しさの翳りがあることを、景時は見逃さなかった。


 ――この娘を、置いてはいけない。


 河前に婿入りすれば、この娘とは二度と逢えなくなるかもしれない。広杉家の婿として、他家の侍大将の娘に心を寄せることなど許されるはずもない。


 景時の胸の内で、決意に似たものが、また少し硬くなった。



 二 父の叱責


 その日の午後、景時は城の大広間で父・景虎と対面した。


 藤倉弾正忠景虎は五十を過ぎてなお壮健な男であった。鬢にこそ白いものが混じるようになったが、眼光は鋭く、その前に座れば歴戦の武将でさえ自然と背筋を正す。


「景時。広杉殿への返答、もはや先延ばしにはできぬ」


 景虎の声は低く、抑制されていたが、怒気を含んでいることは明らかだった。


「は」


 景時は平伏したまま、曖昧に応じた。


「返事をせよ。河前に参るか、参らぬか」


「……今しばらく、猶予をいただけませぬか」


「ならぬ」


 景虎の声が、一段と低くなった。


「道兼殿はこの話を大いに喜んでおられる。先日の使者の口ぶりでは、年内にも祝言を、と望んでおられるようだ。これ以上待たせれば、藤倉家の誠意を疑われかねん」


 景時は唇を引き結んだ。河前広杉家との同盟は、藤倉家の存亡にも関わる重要な外交案件である。東に東嶺の宗像、西に西嶺の東条。二つの強国に挟まれた藤倉家にとって、北の広杉との結びつきは生命線であった。


 そのことは景時にもよく分かっている。分かっているからこそ、胸が軋む。


「景時。何か申したいことがあるなら、申してみよ」


 景虎が、やや声を和らげた。この父は厳格ではあるが、息子の言葉を聞かぬほど偏狭な男ではない。


 だが景時は、何を言えばよいのか分からなかった。


「侍大将の娘が好きゆえ、河前には参りたくありませぬ」


 などと言えるはずがなかった。家中の重臣の娘に懸想しているなどと知れれば、高坂忠勝の立場を危うくしかねない。主君の息子に娘を差し出して取り入った、と陰口を叩かれるだろう。それは、武人としての忠勝の誇りを傷つけることに他ならない。


「……何もございませぬ。ただ、もう少しだけ」


「景時」


 景虎は深い溜息をついた。


「お前の兄・景國は、この家を継ぐ。お前がこの城に留まれば、いずれ兄弟の間に亀裂が生じよう。それは家を滅ぼす。お前とて、それは分かっておろう」


「承知しております」


「ならば、なぜ渋る。河前は悪い国ではない。道兼殿は温厚な御方だ。その長女・琴姫も、才色兼備と評判ではないか」


 景時は何も答えなかった。琴姫がいかに優れた女性であろうと、それは景時の心を動かす理由にはならなかった。


「もうよい。だが、次に問うたときには、明確な返答を聞かせよ。よいな」


 景虎が背を向けた。その背中に、景時は声をかけることができなかった。


 大広間を退出し、渡り廊下を歩いていると、兄の景國と出くわした。


 景國は父に似て体格のよい男で、武人としての才覚に恵まれていた。弟に対しては表面上は穏やかに接しているが、その目の奥には常にかすかな警戒の色があった。


「景時。父上との話は済んだか」


「はい、兄上」


「河前の件、早く決めることだ。お前のためでもある」


 景國の言葉に悪意はなかったかもしれない。だが景時は、それが兄の本心からの助言なのか、それとも自分を早く遠ざけたいという願望なのか、判別することができなかった。


「心得ております」


 短く答えて、景時は自室に向かった。



 三 月下の逢瀬


 その夜、景時は城の裏手にある古い梅林を訪れた。


 梅の季節はとうに過ぎ、今は葉ばかりが茂って暗い木陰を作っている。だが、この場所には景時にとって特別な意味があった。


 志乃と初めて言葉を交わしたのが、この梅林だった。


 三年前の早春、梅の花が咲き誇るこの場所で、景時は一人の娘が歌を口ずさんでいるのを聞いた。それが志乃だった。あの歌会で心に残った歌を詠んだ娘が、梅の花の下で静かに唄う姿は、まるで古い物語の挿絵のようだった。


 以来、二人はこの梅林で密かに逢うようになった。


 最初は他愛のない言葉を交わすだけだった。歌のこと、書物のこと、季節の移ろいのこと。だが次第に、二人の間の空気は変わっていった。景時は志乃の傍にいるときだけ、次男としての重荷を下ろすことができた。志乃もまた、武家の娘としての窮屈さから解き放たれるように、景時の前では素のままの自分でいられた。


 月が梅の枝の間から顔を覗かせたとき、暗がりの中に人影が現れた。


「景時さま」


 志乃だった。月明かりに白い顔が浮かび上がる。今宵は薄紅色の小袖を纏っていて、その色が月光の中でほのかに輝いていた。


「待たせたか」


「いいえ。わたくしも今しがた」


 二人は梅の老木の根方に並んで腰を下ろした。虫の声が草むらから聞こえてくる。秋の虫たちの、切なく澄んだ合唱であった。


「父上から、改めて河前の話を聞かされた」


 景時は星空を見上げながら言った。志乃は何も言わなかったが、その沈黙の中に、かすかな震えがあるのを景時は感じた。


「返答を先延ばしにしてきたが、もう限界だと」


「……左様でございますか」


 志乃の声は平静を装っていたが、わずかに掠れていた。


「志乃。俺は――」


 景時は言葉を探した。何を言えばよいのか。河前には行きたくない、と言えば、それは志乃に重荷を負わせることになる。行く、と言えば、この娘を一生失うことになる。


「俺は、お前を置いては行けぬ」


 言ってしまってから、景時は自分の言葉の重さに気づいた。だがもう、取り消すつもりはなかった。


 志乃が顔を上げた。月の光が、潤んだ瞳を照らしていた。


「景時さま。わたくしのことで、藤倉の家に迷惑をかけるわけには」


「分かっている。分かってはいるのだ。だが――」


 景時は志乃の手を取った。小さな、冷たい手だった。


「この手を離して、河前に行って、あちらの姫を娶って、それで俺は生きていけるのかと、そればかり考える」


 志乃の手が、景時の手の中で震えた。


「わたくしも……同じことを、考えておりました」


 志乃は俯いたまま、小さな声で続けた。


「景時さまが河前にお発ちになると聞いてから、夜が来るのが怖うございます。眠れば夢の中でお別れの日が来て、目が覚めれば、その日がまた一日近づいている。この秋の虫の声さえ、終わりを告げているようで」


 その言葉を聞いた瞬間、景時の中で何かが決壊した。


 志乃の手を引き、腕の中に抱き寄せた。志乃は一瞬身を硬くしたが、すぐに力を抜いて、景時の胸に額を預けた。


 月明かりの下、梅の古木に守られるように、二人は長いこと抱き合っていた。


 やがて景時は、志乃の顎にそっと指を当てて顔を上げさせ、その唇に自分の唇を重ねた。初めは触れるだけの、ためらいがちな口づけだった。だが志乃が目を閉じ、微かに唇を開いたとき、その慎ましさが却って景時の胸を焦がした。


「志乃……」


「景時さま」


 名を呼び合うだけで、すべてが伝わるように思えた。だが身体は言葉以上のものを求めていた。


 この一年あまり、二人はこうして幾度も身を寄せ合ってきた。最初の夜のぎこちなさも、初めて肌を重ねたときの恐れも、今はもうない。志乃は景時の手の癖を知り、景時もまた志乃の身体がどう応えるかを知り尽くしていた。それでも、逢うたびに胸が高鳴ることは少しも変わらなかった。


 景時の手が志乃の肩に触れ、小袖の襟元をなぞった。志乃は逃げるどころか、自ら景時の方へ身を傾けた。その瞳には、もはや恐れはなく、ただ深い信頼と慕情だけが湛えられていた。


「景時さま……」


 志乃の囁きが、景時の最後の理性の糸を解いた。


 景時はいつものように自分の羽織を脱いで草の上に広げ、志乃をそっとその上に横たえた。月の光が白い肌を照らす。かつては恥じらって胸元を隠した志乃も、今は景時の眼差しを静かに受け止めていた。慣れた手つきで景時が帯に指をかけると、志乃は小さく息を吐いて、それを許した。


 景時は額に、瞼に、頬に、首筋に、丁寧に唇を落としていった。どこに触れれば志乃が震えるのか、景時はもう知っている。志乃の肌は絹のように滑らかで、触れるたびにかすかに波打った。志乃の唇から馴染んだ吐息が漏れ、その吐息が秋の夜気に白く溶けた。


 肌と肌が重なったとき、志乃は景時の背に両腕を回した。その仕草に促されるように、景時はゆっくりと身体を寄せた。志乃の爪が、景時の背に食い込む。それもまた、幾度となく繰り返してきた確かな繋がりであった。


 二つの身体が、覚えのある律動をひとつに刻み始めた。梅の枝の隙間から零れる月光が、絡み合う肢体の上に銀の模様を描いた。志乃は景時の名を何度も呼び、そのたびに声は切なく高まった。景時もまた、志乃の名を唇に乗せ、その耳元に繰り返し囁いた。


 秋の虫たちが奏でる音だけが、二人の息遣いを包んでいた。風が梅の葉を揺らし、月が雲の切れ間をゆっくりと渡っていった。


 やがて波が頂に達し、二人はほぼ同時に身体を強張らせた。志乃が景時の名を呼ぶ声が、夜空に吸い込まれるように消えた。景時は志乃を強く抱きしめ、長い長い息を吐いた。


 しばらくの間、二人は離れることができなかった。景時は志乃の髪を撫で、額にそっと唇を当てた。志乃の目から、一筋の涙が零れた。


「泣くな」


「泣いてなど……嬉しいのです。でも、怖いのです。この先のことを思うと」


 景時は何も答えず、ただ志乃を抱きしめた。この腕の中の温もりを手放すことなど、できるはずがなかった。だが、それが許されぬことであることも、痛いほど分かっていた。


 二人がようやく身を起こし、衣を整えたとき、東の空がほんのわずかに白み始めていた。


「志乃。俺は必ず道を見つける。お前を傍に置ける道を」


「景時さま。わたくしのことはお気になさらず。藤倉の御家のために、為すべきことを為してくださいませ」


 志乃は健気にそう言ったが、その声は震えていた。景時は志乃の手を強く握り、もう一度だけ唇を触れさせてから、別れた。


 梅林を出るとき、景時は振り返った。暁の薄明の中、志乃が一人、梅の老木のそばに立っていた。その姿が、まるで儚い幻のように見えた。



 四 戦雲


 十月に入ると、事態は急変した。


 西の西嶺口から、東条の軍勢が国境を越えたとの急報がもたらされたのだ。


 東条信重の率いる五千の兵が、藤倉領の西端にある三日月峠を越え、国境の砦を攻め落としたという。藤倉家にとっては、ここ数年で最大の危機であった。


 雲峰城は一気に戦時の色に染まった。景虎は直ちに軍議を召集し、重臣たちを前に迎撃の方策を練った。


「東条勢の本隊は三日月峠を越えて玉川沿いに東進しております。このまま進めば、七日ほどで城下に到達する見込みにございます」


 軍師・鶴見兵部がの報告に、広間の空気が張り詰めた。


「兵力は」


「東条方、およそ五千。わが方は城兵を含めて三千二百ほど」


「数では不利か。だが地の利はこちらにある」


 景虎が地図を睨んだ。玉川が大きく蛇行する紅葉谷という隘路がある。そこで迎え撃てば、数の不利を地形で補えるかもしれない。


「紅葉谷に布陣する。先鋒は――」


 景虎の視線が重臣たちの顔を順に追い、高坂忠勝の顔で止まった。


「鉄山守。先鋒を頼めるか」


「はっ。この忠勝、命に代えましても」


 高坂忠勝が力強く応じた。


 景時は末席に控えながら、その光景を見ていた。戦となれば、忠勝は先陣を切って敵に当たる。忠勝に万一のことがあれば、志乃は――。


「景時」


 父の声に、はっと我に返った。


「お前は別働隊を率いて、紅葉谷の北の山を回り、東条勢の側面を突け。お前の知恵が活きる場面だ」


「承知いたしました」


 景時は平伏した。戦場で功を立てれば、あるいは父に対して発言力を持てるかもしれない。そんな考えが、一瞬だけ脳裏をよぎった。


 だがすぐに、そのような不純な動機で戦に臨んではならぬと自戒した。守るべきものがある。父の領国、家臣たちの命、そして――志乃の暮らすこの土地。


 出陣の前夜、景時は再び梅林を訪れた。


 志乃が待っていた。


「お気をつけて」


 志乃は気丈に微笑んだが、その手は景時の袖を放そうとしなかった。


「父上も出陣なされます。どうか、父のこともお守りくださいませ」


「ああ。高坂殿は先鋒だ。だが、あの方は強い。そう簡単にはやられまい」


「はい。父のことは信じております。でも、景時さまのことが……」


 志乃の声が詰まった。景時は志乃を引き寄せ、抱きしめた。


「必ず戻る。そして、必ず道を見つける。約束する」


 志乃は黙って頷いた。その頬が、涙で濡れていた。


 景時は懐から小さな守り袋を取り出し、志乃の手に握らせた。


「俺の母が遺してくれたものだ。お前に持っていてほしい」


「こんな大切なものを……」


「だからこそだ。お前に守っていてもらいたい」


 志乃は守り袋を胸に押し当て、深く頭を下げた。


 翌朝、藤倉勢三千余騎は雲峰城を発った。景時は三百の別働隊を率い、本隊とは別の山道を進んだ。



 五 紅葉谷の死闘


 紅葉谷は、その名の通り秋には見事な紅葉に彩られる渓谷であった。だがこの日、谷を染めたのは紅葉の赤ではなく、血と炎の赤であった。


 藤倉本隊は谷の東端に陣を敷き、東条勢の進軍を待ち受けた。高坂忠勝率いる先鋒五百は、谷の最も狭い地点に逆茂木を並べ、その背後に弓隊を配した。


 東条勢が姿を現したのは、朝靄がまだ谷底に滞っている卯の刻であった。


「来おったな」


 忠勝が槍を構えた。彼の巨躯は甲冑に包まれてなお威圧的で、味方の兵たちは忠勝の背中を見ているだけで勇気が湧いた。


 東条勢は正面から押し寄せてきた。谷が狭いため大軍を展開できず、数の優位を活かしきれない。だが、東条方の兵は精強であった。逆茂木を次々と排除し、弓の雨をものともせず前進してくる。


「高坂鉄山守忠勝、ここにあり! 東条の者ども、参れ!」


 忠勝が大音声で名乗りを上げ、先頭に立って槍を振るった。その槍さばきは凄まじく、向かってくる東条兵を次々と薙ぎ倒していく。だが、多勢に無勢、先鋒隊は徐々に押され始めた。


 一方、景時率いる別働隊三百は、紅葉谷の北側の尾根を人知れず進んでいた。


 山道は険しく、馬を下りて徒歩で進まねばならぬ箇所も多かった。だが景時は地形を熟知していた。幼い頃から書物と地図を愛し、この地の山河の隅々まで頭に入れていたのだ。


「あの山の裏に回れば、東条勢の本陣の側面に出られる」


 景時は地図を示しながら、配下の将に説明した。


「ここから一気に駆け下りて奇襲をかける。狙うのは大将の旗本衆と兵糧。戦わずとも、旗を倒し兵糧に火をかければ、東条勢の士気は崩壊する」


 見事な作戦であった。だが、それを実行するには、先鋒隊が東条勢を正面で引き付け続けなければならない。つまり、高坂忠勝が持ちこたえねばならない。


「急げ。忠勝殿が戦い続けているうちに」


 景時は自ら先頭に立って山を駆けた。


 尾根を越え、東条勢の背後に回り込んだとき、眼下に東条方の本陣が見えた。旗印が林立し、兵糧の荷駄が並んでいる。警備は手薄であった。前線に兵力を集中させているため、後方の守りがおろそかになっている。


「今だ。掛かれ!」


 景時の号令一下、三百の兵が山を駆け下りた。


 奇襲は完全に成功した。東条方の本陣は一気に混乱に陥り、兵糧の荷駄に火が放たれた。黒煙が秋空に立ち昇ると、前線で戦っていた東条兵たちの間に動揺が走った。


「本陣が……退け、退けーっ!」


 景時は自ら太刀を振るい、東条方の旗本衆に切り込んだ。書物を愛する文人の顔はどこにもなく、そこにいたのは一人の武将であった。太刀筋は鋭く、迷いがなかった。


 景時が守ろうとしていたものは、もはや抽象的な「家」ではなかった。具体的な一人の娘の、笑顔であり、涙であり、温もりであった。


 それが景時の太刀に、尋常ならざる力を与えていた。


 東条勢の大将旗が倒れた。その瞬間、東条軍は総崩れとなった。


 だが前線では、高坂忠勝の先鋒隊も限界に達していた。忠勝自身、肩と腿に傷を負い、それでもなお槍を振るい続けていた。


 景時は別働隊の一部を率いて前線に急行した。東条勢を背後と側面から挟撃する形となり、敵の崩壊は決定的となった。


 日が西に傾く頃、東条勢は三日月峠を越えて撤退を始めた。紅葉谷の戦いは、藤倉家の完勝に終わった。



 六 凱旋


 戦勝の報が雲峰城にもたらされたとき、城下は歓喜に包まれた。


 だが志乃の心は、父と景時の安否が確認されるまで、一瞬たりとも安らぐことがなかった。城の物見櫓に上がり、西の街道を見つめ続けた。


 やがて、土埃を上げて軍勢が戻ってきた。先頭に藤倉の旗印。その後に続く将兵たちの顔には、疲労と誇りが刻まれていた。


 志乃は父の姿を探した。


 高坂忠勝は担架に乗せられていた。肩と腿の傷は深く、自力で馬に乗ることができなかったのだ。だが、その顔には満足げな笑みが浮かんでいた。


「父上!」


 志乃が駆け寄ると、忠勝は片手を上げて娘を制した。


「騒ぐな。死にはせぬ。それより、景時さまだ。あの方の別働隊がなければ、わしは今頃この世にはおらなんだ」


 忠勝の言葉に、志乃の目が大きく見開かれた。


 そして、別働隊を率いて戻ってきた景時の姿が見えた。甲冑は返り血と埃に汚れ、頬に小さな切り傷があったが、その目は澄んでいた。


 景時と志乃の視線が交わった。二人とも何も言わなかったが、その一瞬の交錯の中に、深い安堵と、言葉にならぬ想いが凝縮されていた。


 周囲の喧騒の中で、志乃は静かに涙を流した。



 七 父の決断


 凱旋から三日後。


 景虎は重臣たちを集め、論功行賞の儀を執り行った。


 先鋒として獅子奮迅の働きを見せた高坂忠勝には、知行五百石の加増が与えられた。忠勝は傷が癒えぬまま儀に臨み、片膝をついて拝領した。


 そして。


「景時、前に出よ」


 景虎の声が広間に響いた。景時が進み出て平伏すると、景虎は居並ぶ重臣たちを見回してから、言った。


「此度の戦において、景時の別働隊による奇襲は見事であった。敵本陣を急襲し、大将旗を倒して全軍の崩壊を導いた。この功、まことに大なるものである」


 重臣たちが頷いた。紅葉谷の勝利が景時の奇襲にかかっていたことは、誰の目にも明らかだった。


「褒美を取らせる。景時、何か望みはあるか」


 景時は一瞬、息を呑んだ。


 これは機会であった。父が衆目の前で褒美を問うているのだ。ここで望みを口にすれば、父は重臣たちの手前、無碍にはできまい。


 だが、それは卑怯な手段ではないか。戦の功を利用して私情を通すなど、武人の道に悖る。


 ――いや。


 景時は顔を上げた。父の目を真っ直ぐに見た。


 ここで口をつぐむことこそ、志乃への裏切りではないのか。あの夜、必ず道を見つけると約束した。ならば、この道を逃してはならない。


「父上。一つだけ、お願いがございます」


「申してみよ」


 景虎は重々しく頷いた。


 景時は深く息を吸い、そして言った。


「高坂鉄山守殿の御息女、志乃殿を、妻に迎えることをお許しいただきたく存じます」


 広間が、一瞬で静まり返った。


 重臣たちの間にざわめきが走った。景虎の表情は微動だにしなかったが、その目が鋭く細まった。


 高坂忠勝は驚愕の表情を浮かべ、それから苦渋に満ちた顔になった。主君の息子が自分の娘を望んでいるなど、忠勝にとっては寝耳に水であった。


「景時」


 景虎の声は低かった。


「お前は河前の話を分かっておろう。広杉殿との縁談を反故にしてまで、家臣の娘を娶るというのか」


「承知しております。ですが、父上。一つだけ申し上げたいことがございます」


 景時は真っ直ぐに父を見つめた。


「此度の戦で、私は何のために戦ったのか。藤倉の家のためであります。この土地のためであります。この土地に暮らす人々のためであります。そして――この土地で待っていてくれる者のためであります」


 景虎は何も言わなかった。


「私は藤倉の家に仇なすつもりはございません。兄上の家督を脅かすつもりもございません。ただ、この国で生き、この国のために働くことを許していただきたいのです。河前に渡れば、私は形ばかりの大名となって、父上の国を守ることはできなくなります」


 景虎の眉がわずかに動いた。


「此度の戦が証明したのではないでしょうか。私が藤倉家に残ることで、兵略の上でも家のためになると。兄上は正面から敵を破る力をお持ちです。そして私には、側面から戦局を動かす智がある。兄弟が力を合わせれば、藤倉家はいかなる敵にも負けませぬ」


 沈黙が続いた。


 そのとき、思いがけない声が上がった。


「景時の申すこと、もっともと存じます」


 兄・景國であった。


 広間中の視線が景國に集まった。景國は立ち上がり、父の前に進み出た。


「父上。此度の戦で、弟の力を目の当たりにいたしました。紅葉谷の勝利は、弟の智略なくしてはあり得ませんでした。弟を河前に送り出すことは、藤倉家にとって大きな損失でございます」


 景國は景時に目を向けた。そこには、かつてあった警戒の色はなかった。戦場を共にくぐり抜けたことで、兄弟の間の見えない壁が、少しだけ崩れていた。


「私は弟を信じます。家督を争う意思がないという弟の言葉を信じます。そして、弟が望む女子を娶ることについても、異論はございません」


 景虎は二人の息子を交互に見た。その目に、複雑な感情が渦巻いていた。怒り、困惑、そして――かすかな、誇り。


「……高坂鉄山守」


 景虎が忠勝に声をかけた。


 忠勝は傷の痛みを堪えながら頭を下げていた。


「は」


「お前の娘は、いかなる娘だ」


 忠勝は一瞬言葉に詰まり、それから、武骨な顔に不器用な柔らかさを浮かべた。


「亡き妻に似て、心の優しい娘にございます。歌を詠み、花を愛で、城下の子らに文字を教えるような……取り柄のない、平凡な娘にございますが」


「平凡な娘を、わが次男が望んでおるわけだが」


「もったいない話にございます。ただ、手前としては、娘の幸せが何よりも大事。景時さまが本心からお望みであるならば……異存はございません」


 忠勝の声に、不器用な父の情愛が滲んでいた。


 景虎は長い沈黙の後、深い溜息をついた。


「やれやれ。河前の道兼殿には、わしが詫びの使者を出さねばならんな」


 それは、許しの言葉であった。


 景時は額を畳に押しつけ、深く頭を下げた。目頭が熱かった。


「ありがとうございます、父上」


「礼には及ばぬ。ただし、条件がある」


 景虎の声が再び厳しくなった。


「お前は藤倉家の軍師として、この家に仕えよ。兄の景國を支え、二度とこの国に敵を踏み入れさせるな。それがお前に課す務めだ」


「承知いたしました」


 景時は力強く答えた。


「それともうひとつ。広杉殿との関係は保たねばならん。河前には別の形で同盟を提案する。その交渉役はお前がやれ。智略をもって、藤倉と広杉の絆を繋ぎ直せ」


「必ず」


 景虎は小さく頷き、それからわずかに口元を緩めた。


「ようやく戦でわしの血を引いていることを証明してくれたな。文ばかりの男かと思うておったが」


 その言葉の中に、不器用な父の愛情が込められていることを、景時は感じた。



 八 秋草の咲く日


 祝言は、霜月の末に行われた。


 雲峰城の大広間には紅白の幔幕が張られ、篝火が暖かな光を投げかけていた。藤倉家の重臣たちが居並ぶ中、景時と志乃は夫婦の杯を交わした。


 志乃は白無垢に綿帽子を被り、その姿は息を呑むほど美しかった。だが景時にとっては、地蔵堂の前で野菊を供えていたあの朝の志乃も、月の下で涙を流したあの夜の志乃も、すべてが同じように美しく、愛おしかった。


 三三九度の杯を交わすとき、志乃の手がかすかに震えているのを景時は見た。杯を受け取りながら、そっと指先に触れた。志乃が顔を上げ、薄化粧の下から微笑んだ。


 高坂忠勝は末席に控え、包帯の巻かれた肩を庇いながら、娘の晴れ姿を見つめていた。その目が赤く潤んでいたことを、誰も口にしなかった。


 宴が果てた後、景時と志乃は新居となる城の離れに退いた。


 部屋には秋草が活けてあった。薄、撫子、桔梗、女郎花。志乃が選んだものであろう。質素だが趣のある花々が、燭台の明かりに照らされて影を揺らしていた。


「志乃」


 二人きりになり、景時が声をかけると、志乃はまだ緊張した面持ちで畳に手をついていた。


「は、はい」


「そう固くなるな。俺たちはもう、夫婦だ」


 景時が笑うと、志乃もようやく頬を緩めた。


「まだ信じられないのです。夢ではないかと」


「夢ではない。証拠に」


 景時は志乃の手を取り、自分の頬に当てさせた。紅葉谷で負った小さな傷の跡がある。


「ほら、傷がある。夢なら傷はつかぬだろう」


 志乃は指先でそっと傷跡をなぞり、それから、堪えきれないように笑った。


「まったく、景時さまは」


 その笑顔を見て、景時もまた頬を緩めた。


 景時は志乃を引き寄せ、額と額を合わせた。互いの息遣いが感じられる距離。


「あの夜のことを覚えているか。梅林で、必ず道を見つけると約束した」


「はい。一日も忘れたことはありません」


「道は見つかった。いや、お前が道を照らしてくれていたのだ。ずっと」


 志乃の目に涙が光った。だがそれは、もう悲しみの涙ではなかった。


「わたくしこそ……景時さまがいなければ、わたくしは」


 言葉は最後まで紡がれなかった。景時の唇が、志乃の言葉を優しく塞いだ。


 燭台の灯が、穏やかに揺れていた。秋草の影が壁に映り、まるで二人を祝福するように揺れた。


 窓の外では、初冬の風が梅の枝を鳴らしていた。あの梅林が春になればまた花をつけ、その下でかつて二人が過ごした時間を、静かに記憶し続けるのだろう。


 やがて灯りが消え、部屋は闇に沈んだ。だが、その闇は温かかった。二つの命が寄り添い、ひとつの未来に向かって歩き始めた、最初の夜であった。



 終章


 翌年の春。


 梅林に花が咲いた。


 景時と志乃は連れ立ってその梅の下を歩いた。志乃の腹は、新しい命を宿してわずかに膨らみ始めていた。


「この梅の花は、いつまでも変わらないのですね」


 志乃が見上げて言った。白い花弁が、春風に乗ってゆっくりと舞い散っていく。


「変わらぬものもある。だが、変わるものもある。俺たちは変わった。よい方に変わったと思っている」

 景時が志乃の肩を引き寄せた。志乃は自然に景時にもたれかかった。


「来月には広杉殿のところへ参らねばならぬ。同盟の新しい形を話し合う」


「お気をつけて」


「案ずるな。戦ではない。知恵比べだ。俺の得意とするところだ」


 景時は笑った。


 河前との同盟は、婿入りという形ではなく、軍事同盟と交易の協定という形で再構築されることになった。景時自身が広杉家との交渉窓口となり、両家の関係はかえって以前よりも実質的なものとなった。広杉道兼も、景時の才覚を認め、この新しい形の同盟を歓迎した。


 兄・景國との関係もまた、紅葉谷の戦いを境に変わっていた。景國は弟の軍略の才を心から認め、景時は兄の武勇と統率力を敬った。二人は互いの長所を活かし合い、藤倉家はかつてない結束を見せるようになった。


「なあ、志乃」


「はい」


「もし男の子が生まれたら、忠景と名づけたい。お前の父上の忠と、わが父上の景をもらって」


 志乃は驚いたように目を見開き、それから深い微笑みを浮かべた。


「父が聞いたら、泣きますよ。人前では絶対に泣かない父が」


「いいではないか。泣かせてやれ」


 二人は笑い合った。


 梅の花が風に舞い、その花びらが志乃の髪に止まった。景時がそっと指で取り除いてやると、志乃は目を細めて景時の手に頬を寄せた。


 遠く、城から太鼓の音が聞こえてきた。平穏な日の、正午を告げる太鼓。戦の太鼓ではない、暮らしの太鼓。


 ――この音が、いつまでも続けばいい。


 景時はそう思った。乱世にあって、それは叶わぬ願いかもしれない。だが、この瞬間だけは、世界は美しく、穏やかで、愛する人が傍にいた。


 春風が梅の花を揺らし、遠い山並みの雪がきらきらと輝いていた。


 秋草はやがて枯れても、また次の秋に咲く。終わりのない、命の巡り。


 景時は志乃の手を握った。志乃はその手を握り返した。

 それだけで、十分だった。


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