悪役令嬢になったのは、ずっとカミの数字を信じていたから
婚約破棄は、帝都でいちばん照明の強い夜に行われた。
ホテル・アストリア東京の大広間は、寄付者向けの慈善晩餐会にふさわしく磨き上げられていた。天井のシャンデリアは白い光を宝石みたいに割り、壁面のスクリーンには、支援事業の紹介映像と寄付総額が絶えず映し出されている。子どもたちの笑顔、再生された地方都市、緑化された湾岸部。数字は美しい。三十二億。四十八万人。二・七パーセント改善。誰もが見惚れるように、綺麗に並べられていた。
その壇上で、九条颯真は私の婚約を破棄した。
「鷹宮絢音さん。僕は今夜をもって、あなたとの婚約を解消します」
ざわめきは、最初は控えめだった。だが、彼が一歩前に出て、白瀬陽菜の肩を抱いた瞬間、それは確信を持った熱に変わった。スマートフォンがいっせいに持ち上がる。報道席がざわつく。会場の後方でライブ配信のコメントが流れるスクリーンが、雪崩みたいに文字を増やしていく。
私はグラスを置いた。音は澄んでいた。
「理由を伺ってもよろしいかしら」
声が震えていないことに、我ながら少しだけ驚いた。颯真はまっすぐ私を見た。そこに迷いはなく、だからこそ、その言葉が誰かに書かれた台本どおりなのだと分かってしまった。
「あなたは、人を数字でしか見ない。価値、効率、採算、見栄え。誰かが泣いていても、その涙に広告価値があるかどうかで判断する」 「それは、ずいぶんと立派な演説ね」
会場の空気がさらに熱を帯びる。私は続けた。
「今夜のこの場で、それを言うの?」
壇上背後の巨大スクリーンには、寄付ランキングと企業ロゴが並んでいた。今この場にいる人間のほとんどが、自社の社会貢献指数を上げるために着飾っている。善意に値札がぶら下がっていないふりをしているだけだ。
陽菜が一歩進み出た。白いドレス。品のいい涙。テレビが好む透明感。
「絢音さん、もうやめませんか。人を傷つけてまで守るものなんて、きっと間違っていると思うんです」 「何を守っているのか、あなたは本当に分かっていて?」
彼女の目が揺れた。ほんの一瞬だけだったが、それで十分だった。何も知らないのではない。全部は知らないだけだ。
颯真は低い声で言った。
「陽菜を脅したことも、地域再開発の住民説明会を潰そうとしたことも、こちらには記録がある」
記録。いい言葉だった。誰が編集し、誰が切り取り、誰に見せるかを決める限り、記録ほど便利な武器はない。
私は少し笑ってしまった。
「では、あなたに一つだけ聞かせて」
会場が静まる。カメラの赤いランプが、いくつもこちらを向いていた。
「あなたが彼女をここに立たせるために使ったのは、誰のお金で、誰の信用で、誰のメディアかしら」
颯真の眉がわずかに動いた。
「自由恋愛を語るのは結構。でも、その自由を撮影して流通させて、支持率と株価に変える仕組みの上に立っているのは、あなたでしょう」 「絢音」 「私だけが人を数字で見ていたみたいに言わないで。あなたも、この会場も、この国も、ずっとそうしている」
数秒の沈黙が落ちたあと、ざわめきが爆ぜた。怒号ではない。歓声でもない。もっと柔らかくて残酷な、物語に酔った群衆の熱だ。彼らは今、勧善懲悪の場面に立ち会っているつもりでいる。正しい青年。清らかな女性。冷酷な令嬢。あまりにも分かりやすい。
その夜のうちに、私は“令和の悪役令嬢”になった。
翌朝には、もっと単純で、もっと売れる言葉に書き換えられていた。
絢音は、子どもの頃から数字で育てられた。
朝六時に起きて体組成計に乗り、食卓でその日の摂取カロリーを確認する。学校から帰れば家庭教師が三人待っていて、語学、経済、表情筋。笑顔にも評価基準があり、写真映えの角度は記録された。小学校の通知表より先に、祖母の秘書が持ってくる「育成レポート」のほうを覚えたくらいだ。
学業偏差値。印象好感度。将来価値。婚姻適合性。危機対応指数。
十歳の時、祖母の鷹宮志津が、白い封筒を私の前に置いたことがある。中には、グラフと数字ばかりの紙が数枚入っていた。
「これが、あなたです」
祖母は静かに言った。
「人はね、絢音。口では愛だの夢だのと言うけれど、最後に信じるのはカミに書かれた数字よ。通帳。契約書。決算書。票。評価。だから先に読む側に回りなさい。読まれるだけの人間になってはいけない」
私はその言葉を、ずっと正しいと思っていた。
正しいと思うしかなかった、というほうが近い。
父は経営危機のたびに人前で頭を下げ、その翌朝には誰かの工場が閉じた。母は社交誌の好感度ランキングが落ちるたびに服装も話し方も変えた。家庭教師はいつも、努力は裏切らないとは言わなかった。努力が換金される形にしなさい、と言った。
私は従順だった。優秀でもあった。だから家の中ではよく褒められた。だがその褒め言葉には、いつも前提がついていた。
使える。見映えがする。無駄がない。将来性が高い。
愛されているのではなく、評価されているのだと気づいたのは、たぶんずっと後だった。
十八歳の春、グループ傘下の工場見学で、地方の町に行った。閉鎖が決まった電子部品工場だった。私はまだ学生だったが、後継者教育の一環として連れていかれた。工場長は丁寧だった。従業員たちも礼儀正しかった。だが、最後に小さな食堂で出された冷めた味噌汁の向こうに、何人もの顔が沈んでいた。
「数字上は仕方ありませんので」
同行した幹部がそう言った時、私も頷いた。
赤字は切らなければならない。そうしなければ、もっと多くが死ぬ。そう教わってきたし、その理屈を疑う材料も、当時の私にはなかった。
帰り際、工場の駐車場で、小学生くらいの男の子が私を睨んだ。たぶん従業員の子だった。
「うち、なくなるの、おまえのせいだろ」
私は返事ができなかった。あの時からだ。数字は嘘をつかないが、数字だけでは済まないものがあると、うっすら思い始めたのは。
それでも私は、やはり数字を信じた。
信じるしか、なかった。
婚約破棄から三日後、私は鷹宮本館の会議室に呼ばれた。
窓の向こうに東京湾が見える。空はよく晴れていた。ニュースではまだ私の名前が流れていた。コメンテーターが、古い上流階級意識だの、女性同士の嫉妬だの、分かりやすい言葉で整えていた。そんなものではないと分かっていても、テレビにとって整えやすい形のほうが大切なのだろう。
祖母は資料に目を落としたまま言った。
「当面、反論は不要です」 「不要、ではなく不都合なのでしょう」 「同じことです」
取締役たちは黙っていた。沈黙にも慣れている人々だった。
私は向かいの席の叔父を見た。彼は一度も私と目を合わせなかった。颯真との婚約が、鷹宮と九条の共同開発計画の象徴だったことは誰でも知っている。破棄が公になれば普通は計画に傷がつく。だが、株価は逆に上がっていた。
市場は“変化”を好む。とりわけ、古い支配構造を打破する若い改革者の物語を。
「『海凪スマートシティ構想』の最終提携は予定どおり進めるのね」 「もちろんです」
祖母は淡々としていた。
「白瀬さんの市民共助アプリを組み込めば、対外的な印象も良い。九条メディアの発信力も加わる。あなたがここで悪役を引き受けたことで、世論の抵抗はだいぶ和らいだ」 「引き受けた覚えはないわ」 「結果として、そうなったという話です」
私はそこで、ようやく理解した。
婚約破棄は恋愛の爆発なんかではない。広報施策だ。
旧来の財閥令嬢を断罪し、庶民派の女性起業家と手を組む若き御曹司。陳腐なほどに分かりやすい。だが、だからこそ強い。人は難しい現実より、分かりやすい物語を好む。再開発計画に住民監視アプリが抱き合わせで入ることも、公共交通の運賃や保険料や学校申請に“行動スコア”が使われ始めることも、善意のラッピングで包めば驚くほど通る。
ルール。安全。持続可能性。誰も傷つけない未来。
呼び方はいくらでもある。
「あなたも見ていたでしょう」
祖母がようやく私を見た。
「市民行動データが可視化されれば、支援は最適化される。無駄な補助は減る。教育も医療も、より効率的になる」 「効率的に、ね」 「あなたはその言葉が嫌いだったかしら」 「いいえ。大好きだったわ」
だからこそ、分かるのだ。効率化の名で削られるのは、たいてい声の小さい人間からだと。
私は立ち上がった。
「私を黙らせたいのなら、もう少し上手くやるべきだったわね」 「絢音」
祖母の声は低かった。だが私は止まらなかった。
「あなたたちは、私が数字を信じるように育てた。人の価値も、街の命も、関係も、全部そこに載せれば読めると叩き込んだ。そのくせ、都合が悪くなったら今度は私だけを怪物にするの」
祖母は眉一つ動かさなかった。
「怪物とは、便利な言葉です。誰か一人に背負わせれば、他は無垢でいられる」
それは、たぶん本心だった。
会議室を出たあと、私は自分の端末を開いた。ニュースアプリのトップには、芸能人の不倫、国際大会の速報、人気配信者の炎上が並んでいた。その隙間に、海凪スマートシティ構想の提携合意の記事が小さく挟まっている。
人々は忙しい。怒るのにも、喜ぶのにも、飽きるのにも。
スクリーンが次のスクリーンを呼び、気づけば本当に大事なものは、いつも画面の端に追いやられている。
私は三人だけに連絡を入れた。
一人は、監査室から左遷されたデータ分析官の牧瀬蓮。
一人は、十年前に閉鎖工場の町で出会った、今は地域紙の記者をしている長谷川澄人。
もう一人は、白瀬陽菜本人だった。
牧瀬と会ったのは、霞が関の外れにある古い喫茶店だった。彼は昔から、コーヒーを飲むたびに必ず最初の一口で顔をしかめる癖がある。
「連絡が来る気はしてました」
彼はノートパソコンを開きながら言った。
「ただ、こんなに早いとは思ってなかった」 「私が従順なままだと思っていた?」 「みなさん、そう思ってますよ。優等生は壊れないって」 「壊れるわ。音がしないだけ」
牧瀬は少しだけ笑った。それから画面を私に向ける。
「海凪アプリの内部設計です。表向きは地域ポイント制度。ボランティア、健康診断受診、ゴミ分別、地域イベント参加でスコアが加算される」 「よくあるやつね」 「ええ。ここまでは」
彼が次の画面を開く。無数の項目が並んだ。購買履歴。移動傾向。視聴コンテンツ。投稿頻度。交友相関。支払い遅延。検索履歴との相関予測。
「裏では生活信用スコアです。賃貸審査、保険料率、奨学金優遇、就業マッチングに連動する。しかも提携先は鷹宮グループだけじゃない。九条メディア、都市銀行二行、与党系政策研究会、あと警備会社」 「監視ね」 「柔らかい名前の監視です」
私は画面を見つめた。整いすぎた項目群が気持ち悪かった。
人を管理する仕組みは、いつも親切な顔をして近づいてくる。困っている人のため。より良い支援のため。安全のため。健康のため。未来のため。言い換えれば、反対しづらい。
「私の婚約破棄も、当然ここに織り込み済みだったのでしょうね」 「炎上シミュレーションもあります」
牧瀬が別のファイルを開く。そこには、年代別、所得別、政治志向別に、どのストーリーが最も共感を呼ぶかが色分けされていた。
古い財閥令嬢を切る若い改革派男性。支持率上昇八・四パーセント。 庶民派女性起業家との連帯。海凪構想好感度上昇一二・二パーセント。 “被害者令嬢の反論”を抑制した場合の炎上持続日数。四・七日。 スキャンダル競合ニュース挿入による分散効果。最大三六パーセント。
私は思わず息を吐いた。
「人間を使っているのではなく、反応を養殖しているみたい」 「そういう産業ですよ、もう」
牧瀬の声には疲れがあった。
「怒りも正義も、滞在時間に変わる。滞在時間は広告に変わる。広告は資金になる。資金は政策に変わる。戦争だって、その延長でしかありません」 「戦争」 「海凪の防災インフラ、名目上は防災ですけど、実質は民間警備と無人監視網の実証ですよ。国内で使った仕組みは、いずれ外に売る」
私は笑えなかった。
勝敗と商売が地続きになっている。気づいていた。だが、こうして数式と発注書に落ちた形を見ると、ぞっとする。
「証拠は足りる?」 「内部資料だけでは弱い。外の被害が必要です」
外の被害。
長谷川が送ってきたメッセージには、海凪予定地周辺の立ち退き問題と、鷹宮傘下の電池素材処理会社による地下水汚染の調査メモが添付されていた。再開発で持ち上がる土地。浄化費用を抱える旧処理場。スマートシティ構想が始まれば、街の上にきれいな未来図がかぶさる。その下の汚れは、誰かが見えない場所に押し込められる。
私は陽菜にも会った。
彼女は、私が指定した場所に本当に一人で来た。夜の小さな公園だった。街灯が少なく、ベンチのペンキが少し剥げているような場所。
「罠じゃないわよね」
最初の一言がそれだった。
「あなたがそういう言葉を使うようになったの、いつから?」
陽菜は黙った。白いコートの袖口を握りしめている。
「あなたは私が嫌いでしょう」 「ええ。かなり」 「正直ね」 「嘘をつく理由がないもの」
彼女は苦く笑った。
「でも、会ってくれた」 「会わないといけない話だから」
私はタブレットを差し出した。海凪アプリの内部設計。炎上シミュレーション。住民スコア連動資料。陽菜は最初、理解が追いつかない顔をしていた。次に、否定した。最後に、黙った。
「そんな……私の団体は、孤立した人たちを地域につなぐために」 「知ってるわ。最初は本気だったのでしょう」 「今も本気よ」 「その本気が使われてるの」
言い方がきついのは分かっていた。でも、今さら優しく包んだところで、現実は柔らかくならない。
「あなたが“みんなが支え合える社会”って言うたびに、向こうは“点数の低い人間を見える化できる社会”って聞いている。あなたが“頑張りを認める仕組み”って言うたびに、“従順さを評価する仕組み”に変換している」 「そんなこと……颯真さんは」 「彼は理解してるわ。全部じゃなくても、十分に」
陽菜の目に涙が溜まった。私はそれを見ても、昔みたいに“感情は交渉材料”とは思わなかった。ただ、彼女が今、世界の輪郭を一気に変えられているのだと感じただけだ。
「どうして教えるの」
小さな声だった。
「あなたにとって、私は奪った側でしょう」 「そうね」 「なら、どうして」 「私が嫌いなのは、あなたではなくて、この仕組みだからよ」
それは半分だけ本当だった。私は確かに彼女を嫌っていた。彼女の清潔さも、まっすぐさも、こちらの醜さを照らす鏡みたいで不快だった。けれど、その彼女までが舞台装置の一部にされているのなら、私はもう誰を憎めばいいのか分からなくなっていた。
「絢音さん」
陽菜は泣きそうな顔で言った。
「あなたも、ずっと苦しかったの」 「今さら同情しないで」 「同情じゃない」 「じゃあ何?」 「……知りたいの。あなたがどうして、あんなふうになったのか」
私は少し考えた。答えは簡単なようで、言葉にしようとすると急に難しくなる。
「なりたくてなったわけじゃないわ」
結局、それだけ言った。
「ただ、気づいた時にはもう、数字を読むことでしか人と関われなくなっていたの。期待に応えるにも、自分を守るにも、それしか教わらなかったから」
陽菜は何も言わなかった。公園の遊具が風に鳴った。
その翌週、私は記者会見を開いた。
鷹宮も九条も止めようとした。代理人が法的措置をちらつかせ、秘書たちは健康状態を理由に延期を勧め、祖母は最後まで一言しか言わなかった。
「今さら正気に戻っても遅いですよ」
私はそれに答えなかった。
会場には、想像していたよりずっと多くの記者が来た。悪役令嬢の反撃は、よく売れる。私はその事実をよく知っていた。だから使った。
壇上に立つと、フラッシュが白く弾けた。
「本日は、お集まりいただきありがとうございます」
自分の声が、ずいぶん遠く聞こえる。
「まず申し上げます。私はこれまで、数字で人を見てきました。価値、効率、採算、影響力。そういうものを重視し、それが正しいと信じてきた。多くの人を傷つけた自覚もあります」
ざわめきが起きる。意外だったのだろう。悪役が最初に罪を認めると、見ている側は少しだけ困る。
「ただし、それは私一人の異常ではありません。私たちの社会そのものが、ずっとそうしてきた。紙に書かれた数字を信じ、画面に並んだ評価を信じ、そこからこぼれ落ちる人間を見ないふりをしてきた」
背後のスクリーンに資料を映した。海凪アプリ内部仕様。炎上シミュレーション。行動スコアと保険料の相関。住民選別モデル。再開発計画と汚染隠しの時系列。
「これは、海凪スマートシティ構想の内部資料です。表向きは共助と支援をうたっていますが、実際には生活信用スコアによる選別と管理が組み込まれている。私の婚約破棄に関する報道もまた、この構想に対する好感度を上げるための広報効果として分析されていました」
記者たちの表情が変わる。質問の手が上がる前に、私は続けた。
「勘違いしないでください。私は自分を被害者にしたいわけではない。私は加害者でもあります。長いあいだ、同じ論理で世界を見てきたから。でも、だからこそ分かるんです。この仕組みは、人を助けるふりをして、人を従わせる。善意を使って、監視を通す。対立を煽って、人々が互いを叩いている間に、大事な契約だけを先へ進める」
誰かが、会場の後方で舌打ちした。
「私たちは忙しい。怒るのにも、悲しむのにも、喜ぶのにも。次から次へと新しい話題が流れてきて、本当に見なければいけないものはすぐ埋もれる。恋愛スキャンダル、スポーツ、配信、炎上。画面はいつも賑やかで、だから静かな破壊には気づきにくい」
今度は質問を受けた。
「鷹宮グループを告発するのですか」 「九条側との共謀もあったと?」 「白瀬陽菜氏は関与していたのか」 「あなた自身の責任はどこまで——」
私は一つずつ答えた。逃げずに。切り分けずに。自分に都合の悪いことも含めて。
「告発します。九条側の関与もあります。白瀬さんは構想の理念には関わったが、生活信用スコアの全容は把握していなかったと考えています。私自身は、この構想の財務設計に初期段階で関与していました。だから責任があります」
会場が静まり返った。
私は最後に、準備していた言葉を読むのをやめた。紙を閉じ、自分の言葉で言った。
「私は、ずっとカミの数字を信じてきました。そこに人の価値が書いてあると思っていた。正しさも、安全も、未来も、全部。でも、あれは違った。数字は道具です。使い方しだいで人を守ることもできるし、人を檻に入れることもできる。問題は、誰が、何のために使うかです」
喉が少し痛んだ。
「私たちは、便利な悪役を欲しがります。一人を悪者にしてしまえば、自分は無垢でいられるから。でも、私を叩いて終わるなら、また同じことが起きる。名前と顔だけ変えて、同じ仕組みが次の誰かを食べるだけです」
会見の映像は、その日のうちに切り取られ、配られ、燃やされ、擁護され、嗤われた。
株価は乱高下した。海凪構想は一時凍結された。関係省庁は調査に追われ、九条颯真は公式の場から姿を消し、鷹宮では数人の役員が辞任した。祖母はしばらく入院し、そのニュースにもいくつもの憶測がぶら下がった。
世の中は、劇的には変わらない。
変わったように見えても、たいていは別の形に姿を変えるだけだ。
それでも、ゼロではなかった。
長谷川の記事はよく読まれた。海凪予定地の住民たちは、立ち退き条件の再交渉を勝ち取った。地下水汚染の調査はやり直しになった。市民行動スコアの本格導入は見送られ、別の名前で復活を狙う動きはあるものの、少なくとも今は露骨すぎることが知られてしまった。
私は鷹宮を出た。
正確には、完全には切れていない。株も、名字も、血縁も残る。そう簡単に無縁にはなれない。だが、役職はすべて外れた。タワー最上階の執務室も、送迎車も、秘書もない。思ったより不便で、思ったより静かだった。
引っ越した先は、十年前に閉鎖工場のあった町の近くにした。
再開発から外れた駅前は、少し寂れている。コンビニの照明がやけに明るく見える。春になると川沿いの桜がきれいで、夜道を歩く人の足音がちゃんと聞こえる。
私は今、地域金融の小さな再生ファンドを手伝っている。派手な仕事ではない。数字も見る。もちろん見る。見ないでは済まない。けれど、その数字が何を意味するのか、誰の生活とつながっているのかを、前よりはちゃんと見ようとしている。
ある日、商店街の空き店舗を改装した学習スペースで、小学生の男の子に算数を教えていた時のことだ。私は癖で、答案用紙の端に点数換算のメモを書きかけた。そこで手が止まる。
男の子は私を見上げた。
「どうしたの」 「……なんでもない」
私はメモを消した。
「これはね、答えは合ってる。でも、ここでどう考えたのかを、もう少し聞かせて」
彼は少し得意げに、拙い説明を始めた。途中でつまずき、回り道をし、でも最後には自分で戻ってきた。私はそれを聞きながら、点数には出ないものが確かにあるのだと、ようやく実感した。
帰り道、駅前の小さな書店の前で、芸能誌の見出しが目に入った。
『元・悪役令嬢、転落後の現在』 『炎上から一年、鷹宮絢音は反省したのか』
私はその前を通り過ぎかけて、ふと足を止めた。ほんの数秒、色の悪い見出しを眺める。誰かが分かりやすい物語に整え、誰かがそれを面白がって買い、誰かがまた次の便利な悪役を待っている。
口の端が、わずかに歪んだ。
「バカばっかだ、全く」
声に出してしまうと、少しだけ可笑しかった。呆れでできた言葉なのに、前よりずっと軽い。
私は書店の自動ドアに映った自分を一瞥し、そのまま通り過ぎた。もう、いちいち腹は立たない。便利な物語は、相変わらず売れる。世の中はそう簡単には変わらない。
ただ、信じるものは変えられる。
昔、祖母は言った。人は最後に、カミに書かれた数字を信じるのだと。
たぶん、あれは半分だけ正しい。
人は、不安な時ほど、簡単に読めるものを信じたがる。数字、順位、評価、支持率、残高。そこに安心を求める。誰かが整えてくれたルールにしがみつく。普通という言葉に寄りかかる。考えなくていい形に、自分を流し込む。
私もそうだった。
だからこそ、知っている。
人を従わせるのは、たいてい暴力だけじゃない。もっと静かで、もっと親切そうで、もっと正しい顔をしている。より良い未来のため、と言いながら、人間をきれいに並べ替えていく。ベルトコンベアーに乗せるみたいに。落ちたものは、最初から価値がなかったように扱って。
あのやり方を、私はもう信じない。
数字を捨てるわけじゃない。数字に頭を預けるのをやめるのだ。
夕暮れの川沿いを歩きながら、私は財布の中の紙幣を一枚取り出した。印刷された肖像。細かな模様。そこに書かれた数字。確かにこれは社会を動かす。人を救いもするし、壊しもする。
けれど、これだけでは人間の値段にはならない。
風が少し強く吹いた。川面が揺れた。遠くで子どもたちの声がした。
私は紙幣を財布に戻し、家路についた。もう誰も、迎えの車を回してはくれない。歩けば二十分。信号は三つ。途中で古い和菓子屋がある。今日の売れ残りを少し安くしてくれる時間帯だ。
そういう、数字にしづらい生活の中に、ようやく自分の足で入っていく。
元・悪役令嬢と呼びたければ、好きに呼べばいい。
私はたしかに、悪役だったのだろう。誰かの痛みより採算を優先し、見えやすい価値だけを価値だと思っていた時期がある。だから、その名前を完全には否定しない。
ただ、あの役を私一人に押しつけて済ませようとする世界には、もう従わない。
信じるべきものを、自分で選び直す。
それはたぶん、遅すぎることはない。少なくとも、私にとっては。
空は群青に沈みかけていた。街の灯りが一つずつ点き始める。画面の中ではなく、本当にそこにある明かりだった。私は立ち止まって、それをしばらく見ていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、いつもの悪役令嬢ものの骨格を残しつつ、舞台を現代に寄せてみました。
婚約破棄、断罪、悪役扱い、という分かりやすい構図そのものが、今の時代だとどう見えるのか。
誰か一人を悪者にして、見やすく、叩きやすく、消費しやすい形に整える流れは、案外いまのほうが生々しいのではないか、と思いながら書いていました。
題名の「カミ」は、読む人によって少し違って見えるようにしています。
紙、神、紙幣、記録、契約、評価、順位。
人は気づかないうちに、そういう“書かれたもの”にずいぶん強く縛られている気がします。
数字は便利ですし、必要でもあります。
ただ、それを使っているつもりで、いつの間にか数字のほうに使われている、という感覚は、誰しも少しは持っているのではないでしょうか。
絢音は、最初から正しい人間ではありません。
むしろ、かなりはっきり加害側にもいた人間です。
けれど、自分が信じてきたものの歪みを見た時に、そこで黙ったままでいられなかった。
その意味では、彼女は「善人」ではなくても、「目を逸らしきれなかった人」ではあったのだと思います。
今回は、そのあたりをただの逆転劇にせず、少し苦みの残る形で書きたかった作品でした。
今回の話は、Awichさんの「洗脳」を聴いていて、そこから自分なりに物語へ落としてみたものでもあります。
あの曲の持つ、数字や情報や空気に絡め取られていく感じを、悪役令嬢ものの形に移したらどうなるだろう、と思いながら書きました。
少しでも何か引っかかるものがあれば嬉しいです。
ありがとうございました。




