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「君との婚約は破棄だ」からの即答で「了解です。では推しの王弟様への課金に戻りますね」 ~復縁を迫られても、私の視界には尊い推ししか映らないので失せてもらえますか?~

作者: 後堂 愛美ஐ

⏬後堂愛美の作品リストは本文下にあります。

「クラリス・アルフォード公爵令嬢! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄とする!」


 王立学園の卒業記念パーティ。その華やかな喧騒を切り裂くように、王太子フレデリック殿下の高らかな宣言が響き渡った。


 シャンデリアの光が降り注ぐホールの中央、殿下は私の知らない小柄な男爵令嬢の腰を抱き寄せ、勝ち誇ったような顔で私を見下ろしている。周囲の令息令嬢たちが息を呑み、憐れみと好奇の視線を一斉に私へと向けた。


 ああ、ついに来た。

 前世の記憶にあるゲームや小説で、網膜が擦り切れるほど見た断罪イベントだ。


 私はゆっくりと扇を閉じ、背筋を伸ばして完璧な淑女のカーテシーを披露した。

 そして、内心で盛大なガッツポーズを決めた。


(きたあああああああああ! 神イベント確定演出!! いま、私の視界は虹色に輝いている!!!)


 私がこの瞬間をどれだけ待ちわびたことか。

 私の前世は、限界オタクのアラサーOL。過労で倒れて目が覚めたら、生前愛好していた乙女ゲームとも恋愛小説ともつかないファンタジー世界の公爵令嬢に転生していた。

 それだけなら「悪役令嬢もの」として及第点のスタートだが、最大の問題は私の婚約者が、この国の王太子フレデリックだったことだ。


 顔だけは良い。だが、中身が残念すぎる。

「真実の愛」だの「運命」だのを語るナルシストで、私の事務処理能力を「可愛げがない」「冷たい」と批判し続けてきた男。そんな彼のお守りと、将来の王妃としての過酷な教育のせいで、私の可処分時間と精神的リソースは限界まで削られていた。


 そう、私の「推し」を愛でる時間が、物理的に消滅していたのだ。


「……私の言葉が聞こえないのか? ショックで声も出ないようだな」


 沈黙を悲嘆と勘違いした殿下が、ふふんと鼻を鳴らす。

 隣にいる男爵令嬢が「かわいそうですぅ、殿下ぁ」と上目遣いで彼にしなだれかかった。

 私はスッと顔を上げ、王妃教育で叩き込まれた鉄壁の「公爵令嬢としての微笑み」を浮かべた。


「いいえ、殿下。しっかりと拝聴しておりました」

「ならば――」

「承知いたしました」

「……は?」

「婚約破棄の件、謹んでお受けいたします……あ、今この時をもって、とおっしゃいましたね? 今すぐでよろしいですね?」


 食い気味に即答した私に、殿下の表情が凍り付く。

 周囲のざわめきが大きくなる中、私は間髪入れずに懐から一枚の羊皮紙を取り出した。

 実はいつかこの日が来ると信じて、常に持ち歩いていた『婚約解消に関する合意書』である。


「本来であれば国王陛下の裁可が必要ですが、殿下のご意思は固いご様子。私も殿下の『真実の愛』を邪魔するつもりは毛頭ございません。この場での署名を推奨いたします。あ、慰謝料は不要です。手切れ金代わりに、即時解放を希望します」


 殿下の前に書類とペンを突き出す。

 私の流れるような動作に、殿下は呆気にとられたように口をパクパクさせていた。


「お、お前……悲しくないのか? 次期王妃の座を失うのだぞ? 強がって泣き喚いたほうが可愛げがあるものを……」

「お気遣い痛み入ります。ですが、私の涙など殿下の新しい門出には不要な泥水でしょう。さあ、署名を。ここに。早く。一刻も」


(今夜は早寝しておかないと、明日の画廊の開場待ちに寝坊しかねないのよ!)


 私の脳内はすでに、明朝開催される王室主催の『慈善細密画頒布会』のことで埋め尽くされていた。

 戦災孤児支援という名目で開催されるこの会だが、今回の目玉は、フレデリック殿下の叔父にあたる王弟、アレクシス公爵閣下の『氷の微笑・視察バージョン』が描かれた細密画だ。王宮筆頭画家の手による至高の一品であり、高額な寄付を行った上位数名にのみ下賜される激戦区である。


 アレクシス様。


 私の前世からの、そして今世における絶対的な「推し」。

 冷徹無慈悲な「氷の公爵」と恐れられているが、その実態は、甥(目の前のバカ)の尻拭いに奔走し、国政を一手に担う苦労人。切れ長の瞳、月光を織り込んだような銀色の髪、そして何より、誰も寄せ付けない孤高のオーラが最高に尊い。


 王太子の婚約者という立場上、叔父君である彼への過度な接触は「不敬」あるいは「派閥争い」とみなされるため、私はこれまで血の涙を流しながら「推し活」を自粛してきた。

 だが、今ここで署名がなされれば、私はただの「元・婚約者」。

 自由だ。フリーダムだ。

 いまや私の愛と実家の財力は、すべてアレクシス様への重課金のためにある!


「……っ、わかった! 書けばいいのだろう、書けば!」


 私の鬼気迫る圧力と、一刻も早く帰りたいというオーラに押されたのか、殿下は引ったくるようにペンを取り、殴り書きで署名した。


「ありがとうございます。これにて私たちは赤の他人ですね。どうぞお幸せに」


 書類を回収し、インクが乾いたことを確認して鞄に収納。

 私は殿下と男爵令嬢、そして会場の皆様に優雅な一礼を捧げた。


「では、私は失恋の傷を癒やすため、これにて失礼いたします。御機嫌よう」


 踵を返し、出口へと向かう。

 背後で「あれ? 今の反応、なんかおかしくない?」「クラリス様、スキップしそうな勢いだったぞ」という困惑の声が聞こえたが、ただの雑音として処理した。


 会場を出て馬車に乗り込んだ瞬間、私はクッションに顔を埋め、令嬢らしからぬ勢いで足をバタバタさせて叫んだ。


「っしゃあああああああ! 自由という名のログボ獲得! 対戦ありがとうございましたああああ!!」


◇ ◇ ◇


 屋敷に帰還した私は、出迎えた宰相である父に「破棄されました! 書類もあります!」と満面の笑みで報告する。

 卒倒しそうになった父をメイドに任せると、そのまま自室へ駆け込んだ。

 鍵をかけ、防音の結界を展開する。

 そして、クローゼットの奥底に封印していた「宝箱」を開放した。


「ああ……アレクシス様……っ!」


 壁という壁に、裏ルートで入手したスケッチや、記憶を頼りに自ら描いた肖像画を貼り付ける。

 王妃教育の分厚いテキストやマナー本は全部廊下に放り出した。空いた本棚には、アレクシス様が過去に寄稿した学術論文誌や、彼が監修した国政白書――私にとっての聖書――を並べる。


 部屋の中央には、彼を模した木彫りの人形を安置し、祭壇を作成した。これは以前、領地の凄腕職人に「無上の美を持つ神像を」と極秘に発注した特注品である。

 私はその前に正座し、深く拝礼した。


「長かった……婚約者という鎖に繋がれ、貴方様を遠くから見つめることしか許されなかった日々。しかし、今日から私は自由なATMであり、出資者です。貴方様が国を憂い、眉間に皺を寄せるその一瞬一瞬のために、私は生きます」


 祭壇に向かって祈りを捧げていると、興奮で一睡もできないまま朝を迎えてしまった。

 だが、不思議と肌の調子は最高だ。推しの存在は最高級の美容液をも凌駕する。


 今日は、アレクシス様が城下町の視察にお忍びで訪れるという情報を、父の執務室のゴミ箱……もとい、極秘ルートから入手していた。

 私は即座に「破棄のショックで部屋に引き籠もります。食事はドアの前に置いてください」と父と使用人たちに通達。

 窓からこっそりと抜け出し、平民風の茶色いローブを羽織り、念には念を入れて伊達眼鏡をかけると城下町へと繰り出した。


 街は活気に満ちていた。

 王太子殿下の婚約破棄騒動はすでに号外新聞で広まっているようだが、そんなことより私の目的は一つだ。

 アレクシス様の巡回ルートである中央広場の噴水前。

 カフェのテラス席ではなく、あえて路地裏の木箱の影に陣取る。


 なぜなら、真正面から直視するのは網膜が焼けるから無理だし、何より「推しの視界に入ってノイズになりたくない」からだ。

 壁になりたい。あるいは石畳になりたい。天井も捨てがたい。

 そう願いながら待機すること一時間。


「――やはり、街の警備体制に不備があるな」


 その声は、喧噪の中でも鮮明に私の鼓膜を震わせた。

 低く、理知的で、少し疲労を含んだバリトンボイス。

 心臓が早鐘を打つ。

 私は木箱の隙間から、そっと覗き込んだ。


 いた。

 王弟アレクシス・フォン・ルークリア公爵閣下。


 平民を装っているのか、地味な灰色のコートを羽織っているが、その圧倒的な造形美は隠しきれていない。銀髪を無造作にかき上げ、鋭い氷のような瞳で周囲を観察している。

 ああ、目の下にうっすらと隈がある。

 昨夜もフレデリック殿下の尻拭いで残業だったに違いない。

 尊い。

 激務に耐える推し、最高に情緒的だ。


「んぐっ……」


 あまりの尊さに変な声が出た。

 慌てて口を押さえるが、呼吸が荒くなる。

 

(落ち着け、私。ここで過呼吸で倒れたら、推しに介抱されるという万死に値する迷惑をかけてしまう。深呼吸だ、ヒッ、ヒッ、フ-)


 私が必死に呼吸を整えながら、拝むように手を組み、涙目で彼を見つめていた、その時だった。

 ふと、アレクシス様が視線を巡らせ、ピタリと私の方で止まった。

 認識阻害の眼鏡など、高位の魔術師である彼には意味を成さなかったのか。

 氷の瞳と、限界オタクの濁った瞳が交錯する。


「……そこの娘」


 呼ばれた。

 推しに認識された。

 死ぬ。いや死んだ。

 私は反射的に直立不動の姿勢を取り、しかし令嬢としての正体がバレないよう、とっさに「挙動不審な一般市民」を演じた。


「は、はいっ! あ、怪しいものでは! ただの、通りすがりの、空気を吸うナマモノです!」

「空気を吸うナマ……なんと?」


 アレクシス様が怪訝そうに眉をひそめ、ゆっくりと私に近づいてくる。

 逃げなければ。でも足が動かない。

 近づくにつれて高まる解像度。

 毛穴が存在しない。同じ有機物とは思えない。

 彼は私の目の前で立ち止まると、探るような視線で私の顔を覗き込んだ。


「お前……どこかで会ったか? いや、それよりも……」


 彼は私の手元――無意識に握りしめていた、彼の似顔絵(自作)と、祭壇から持ち出した木彫りの人形――に視線を落とした。


「……なんだ、その呪いの人形のようなものは」

「い、いいえ! これは、その、私の守護神です! 毎日拝んでいると、健康になり、金運が上がり、肌艶が良くなるという伝説の……!」

「ほう……私に似ている気がするが」

「まさか! そのような恐れ多い! これはあくまで概念! イデアです!」


 必死に否定すればするほど、アレクシス様の瞳に浮かぶ不審感は薄れ、代わりに奇妙な光が宿り始めた。

 それは、貴族社会で向けられる媚びや恐怖に対するものではなく、未知の生物を見るような、純粋な興味の色だった。


「……面白い。私の顔を見て悲鳴を上げず、逆に拝み倒す女は初めてだ」


 アレクシス様の口元が、わずかに――本当に数ミリだけ――緩んだのを、私は見逃さなかった。

 その瞬間、私の脳内で「推しが笑った記念日」が制定された。


◇ ◇ ◇


 路地裏での「推しとの遭遇」という奇跡から数日。

 私の肌艶は人生最高潮に達していた。鏡に映る自分は、婚約破棄された哀れな令嬢ではなく、推しの聖なる粒子を浴びて輝く聖女のようだった。


 しかし、そんな至福の時間は、一通の手紙によって無惨にも中断された。


『至急、登城せよ。話がある。 王太子フレデリック』


 朝食の席で父から渡されたその手紙を見た瞬間、私はフォークをへし折りそうになった。


 なぜなら、今日はこれから、三か月前から整理券を手配していた『王立アカデミー特別公開講義』のアレクシス公爵登壇回に出席予定だったからだ。これはもはや、ライブイベントに等しい。推しの金言を誰憚ることなく耳から浴びる至福の時間を奪うとは、万死に値する。


 しかし、元婚約者とはいえ相手は王太子。無視をすれば実家に迷惑がかかる。やむを得ず、次善の策を選択した。断腸の思いで、チケットという名の整理券を専属のメイドに託す。

 彼女は私直々にスカウトした、速記のスキルを持つ逸材。相場の三割増しの給金を提示して、逆に訝しがられたりしたものだが、こういう時のために雇ったのだ。なんか、いまこの瞬間もドン引きしているような気もするが、構ってはいられない。

 私は血の涙を流しながら、推しの言葉を一言一句漏らすことなく書き取った講義録という名の『聖典』を作り上げるよう彼女に厳命する。頼んだぞ、我が専属メイド。あなただけが私の希望だ。


 私は後ろ髪をひかれまくって、いささか奇妙な姿勢になっていることを自覚しながら、最高級のドレスではなく、あえて地味な紺色のドレス――喪服を連想させる色合い――を纏って登城した。


 王太子の執務室に通されると、そこには憔悴した様子のフレデリック殿下がいた。

 机の上には未決裁の書類が山積みになっている。ざまぁみろ、と思いつつ、私は能面のような無表情でカーテシーをした。


「お呼びでしょうか、殿下。貴重なお時間を割いていただき、恐悦至極に存じます」

「ク、クラリス……来てくれたか」


 殿下は書類の山から顔を上げ、期待に満ちた目で私を見た。その目が「やっぱり俺が恋しいんだろう?」と言っているようで、背筋に悪寒が走る。


「実は、お前がいなくなってから、少し……ほんの少しだけ、事務が滞っていてな。あの男爵令嬢……ミリアは、書類の書き方も知らんのだ」

「左様でございますか。それは大変ですね」


 私は抑揚のない声で答えた。


「ああ、大変だ。だから、特別に許可してやる。私の補佐役として、再びこの部屋に出入りすることを」


 殿下は「感謝しろよ」と言わんばかりに胸を張った。

 私は真顔のまま、持参した鞄から分厚い封筒を取り出し、机に叩きつけた。


「お断りします」

「……は?」

「こちらは、私が担当していた業務の『引き継ぎ手引書・改』と、未処理案件の目録、および殿下の私費流用に関する帳簿の写しです。これさえあれば、猿でも……失礼、ミリア様でも処理可能です」

「なっ……! お前、強がるな! 本当は泣きたいのだろう? 私の側に戻りたくて震えているのだろう!?」


 殿下が立ち上がり、私に近づこうとする。

 私は即座に半歩下がり、心の絶対拒絶防壁を展開した。


「殿下。私の震えは、推しの講義を聞き逃した怒り……いえ、寒気のせいです。復縁など、天地がひっくり返ってもあり得ません。私の瞳には今、もっと高貴で尊い方しか映っておりませんので」

「高貴で尊い方だと? 私よりか!?」

「比較するのもおこがましいです。では、私は多忙ですので」


 私は食い気味に会話を強制終了し、呆然とする殿下を放置して部屋を出た。

 廊下に出た瞬間、早歩きで出口へ向かう。

 危ないところだった。あと数分遅れていたら、ストレスで殿下に回し蹴りを入れるところだった。


 私は王城の空気を肺から吐き出し、深く吸い直した。


(アレクシス様成分の摂取が必要だ……! 緊急供給を求む!)


◇ ◇ ◇


 神は私を見捨てていなかった。


 数日後、父から「アレクシス公爵邸へ書類を届けてほしい」という、実質的な「神殿への公式参拝チケット」が渡されたのだ。

 本来なら使用人がやる仕事だが、私が「行きます! 這ってでも行きます!」と父の足にすがりついて勝ち取った権利だ。


 公爵邸の門をくぐる時、私は緊張で過呼吸になりかけた。

 ここが推しの住処。彼が空気を吸い、歩き、生活している聖域。

 玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、漂う微かな柑橘系の香り――アレクシス様の香り――に、私は危うく昇天しかけた。


 だが、ここで奇行に走れば出禁である。

 私は己の頬を内側から噛み、完璧な「公爵令嬢クラリス」の仮面を被った。


「宰相の代理として参りました、クラリス・アルフォードでございます」


 執事に案内された応接室。

 そこで待っていたのは、執務机で書類に目を通すアレクシス様だった。


 今日はラフなシャツ姿で、首元のボタンが一つ外れている。

 鎖骨が見えている。

 鎖骨が。


(尊い……無理……視覚情報が致死量ッ!)


 内心で悲鳴を上げながら、私は優雅に書類を差し出した。


「こちら、父からの書簡でございます」

「ああ、ご苦労……ん?」


 アレクシス様が書類を受け取ろうとして、私の顔を見て動きを止めた。

 氷の瞳が、じっと私を観察する。


「お前は……先日の?」

「……はい?」


 私は首を傾げた。

 内心では(バレた!? いや、あの時はボロボロのローブに眼鏡! 今の私は完璧な令嬢! バレるはずがない!)と冷や汗をかいていた。


「いや、人違いか……だが、妙だな。お前からは、あの時の『挙動不審な女』と同じ気配を感じる」

「気のせいでございます、閣下。私はこのように、淑やかな令嬢でございます」

「淑やか、か……ふっ」


 アレクシス様が鼻で笑った。

 その破壊力に、私の膝がガクンと折れそうになる。

 彼は立ち上がり、私に近づくと、不意に私の目を覗き込んだ。


「クラリス嬢。君は王太子の元婚約者だったな。未練はないのか?」

「一切ございません」

「即答だな……王妃の座も惜しくないと?」

「微塵も。私の望みは、心から尊敬できる方の近くで、その方の平穏をお祈りすることだけです」


 嘘ではない。

 私の望みは「推しの健康と活躍」

 つまり、アレクシス様の近くで、いや物理的距離は保ちつつ彼を拝むことだ。

 私の淀みない返答に、アレクシス様は驚いたように目を見開いた。そして、何かを納得したように頷く。


「そうか……ならば、礼をしよう。書類を届けてくれた手間賃代わりだ」

「えっ、そのようなお気遣いは……」

「茶会に付き合え……実は、君の淹れる茶が美味いと、国王である兄上から聞いていてな」


(国王陛下、余計なことを──ッ! いや、ナイスです陛下!)


 まさかの展開に、私の脳内会議は大混乱に陥った。

 推しと茶会? 対面で?

 心臓が保つだろうか。いや、これは試練だ。推しの前で粗相をしないための、神が与えたもうた試練なのだ。


 案内されたサンルームで、私は震える手で紅茶を淹れた。

 カップがカチャカチャと音を立てないよう、必死に指先に力を込める。アレクシス様は、そんな私の様子を面白そうに眺めていた。


「緊張しているのか?」

「はい、閣下の御前ですので……光栄すぎて、空気が薄く感じます」

「……また空気の話か」


 アレクシス様がくすりと笑う。

 あ、また笑った。本日二回目。

 私は紅茶を差し出しながら、無意識に口走ってしまった。


「閣下の笑顔は、国家の至宝でございます。どうか、眉間の皺を増やさぬよう、心安らかな時間をお過ごしください……」

「……君は、本当に変わった女だ」


 アレクシス様は紅茶を一口飲むと、ふぅ、と息を吐き、どこか憑き物が落ちたような穏やかな表情を見せた。


「君の元婚約者が、よりを戻したがっているようだが?」


 不意打ちのカマかけ。

 しかし、今の私には迷いなどない。


「あの邪魔な……いえ、殿下には興味ありません。私の瞳には閣下しか映っておりませんので! 閣下の貴重なお時間を、過去の遺物の話題で汚したくありません!」


 勢い余って本音を炸裂させてしまった。

 ていうか、冷静に考えるとこれって口説き文句とも受け取られかねないセリフでは?

 なんたる不敬! ハッとして口を押さえる私。

 しかし、アレクシス様は怒るどころか、満足げに目を細めた。


「『私しか映っていない』か……悪くない響きだ」


 彼の瞳に、独占欲に似た熱い光が宿ったことに、限界オタクの私は気づく余裕もなかった。


◇ ◇ ◇


アレクシス様との夢のような茶会から数日後。

 私の精神状態は「尊い」の過剰摂取により、仏の如き安らぎの境地に達していた。「悟り」である。もう何も怖くない。この世界は完璧だ。

 そう思っていたのだが、世界にはまだ、処理しきれていない「汚点」が残っていたようだ。


「クラリス! 出てこいクラリス!」


 休日の昼下がり。

 優雅に推しの『御公務記録帳(という名のスクラップブック)』を整理していた私の耳に、屋敷の玄関広間から喚き散らす男の声が届いた。聞き覚えがありすぎて耳が腐りそうなその声は、間違いなく元婚約者、フレデリック王太子殿下のものだ。

 父は公務で不在。使用人たちが困惑して止めようとしている気配がする。


 私はため息をつき、作りかけの記録帳――アレクシス様が騎竜演習で見せた雄姿の切り抜き――を厳重に金庫へしまった。


「……推しの尊い時間を考える邪魔です、本当に」


 独り言ちて、私はゆっくりと立ち上がった。

 扇を手に取り、表情筋を「絶対零度」モードに設定して部屋を出る。


 広間に降り立つと、そこには目を血走らせ、髪を振り乱した王太子の姿があった。以前の煌びやかな姿はどこへやら、服は皺だらけで、顔色も土気色だ。隣には例の男爵令嬢ミリアもいるが、彼女もまた化粧が崩れ、おどおどと周囲を警戒している。


「あら、殿下。事前の約束もなく他家へ押し入るとは、王族として斬新なマナーをお持ちですね」

「クラリス! 嫌味を言っている場合か! 国の一大事だぞ!」

「一大事? アレクシス閣下が風邪でも召されましたか? それなら国難ですので、私が直ちに万能薬を手配して駆けつけますが」

「叔父上の話などしていない! 私の! 私の執務が終わらないんだ!」


 殿下はバン、と近くの飾り台を叩いた。

 どうやら、私が渡した引き継ぎの手引書を読んでも、彼らのスペックでは理解不能だったらしい。ミリア嬢が涙目で口を挟む。


「だ、だってぇ、クラリス様の字、難しくて読めないんですぅ……」

「公用語の基礎レベルですが? なんなら想定知能は、下の下に設定していましたが?」

「うっ……ひどい! 殿下、やっぱりこの人、意地悪です!」

「ああ、そうだとも! クラリス、お前は冷酷すぎる! 次期王妃としての慈悲はないのか!」


 殿下が一歩踏み出し、私を指差して叫んだ。


「いいか、これは命令だ! 今すぐ城に戻り、私の補佐をしろ! ミリアは側妃として迎えるが、お前も正妃として戻ることを許してやる! 二人で私を支えるなら、過去の不敬は水に流してやろう!」


……は?


 私はあまりの理解不能な言動に、一瞬思考が停止した。

 正妃として戻る? 側妃? 許してやる?


 脳内のオタク人格が「解釈違いすぎて草も生えない」「地雷カップリングどころか地雷原」と激怒している。

 しかし、今生の私はまぎれもなく公爵令嬢。怒りを氷の微笑みに変換し、静かに扇を開いた。


「お断りします」

「な、なに……?」

「殿下、私の言葉が理解できませんか? 私はもう、貴方様とは何の関係もございません。復縁? あり得ません。貴方様の無能な尻拭いをする暇があったら、私は道端の石を数える方を選びます」

「き、貴様……!」

「お帰りください。私の視界に入らないでいただけますか? 貴方様を見ていると、私の美しい推しの記憶が上書きされて汚れるのです」


「雑音」として処理しようと背を向けた瞬間、殿下の理性が切れる音がした。


「この……生意気な女がぁぁぁ!!」


 背後から殺気。

 殿下が私を捕まえようと腕を伸ばしてくる気配を感じた。

 護身術で受けるべきか、魔法で防御すべきか。

 しかし、私が動くよりも早く――


「――私の大事な『筆頭支持者』に何をする」


 空間そのものを凍てつかせるような、底冷えのする声が響いた。

 次の瞬間、殿下の体が目に見えない重圧によって床に縫い付けられたように静止した。ヒュッ、と喉を鳴らして固まる殿下とミリア。

 私も驚いて振り返る。


 玄関の扉が開き、逆光の中に一人の男が立っていた。

 銀髪が光を浴びて輝き、氷の瞳が絶対的な威圧感を放っている。

 この世で最も尊く、最も恐ろしい方。


「あ……アレクシス、様……?」


 私の推しが、降臨した。

 アレクシス様は、まるで汚い物を見るような目で床にへたり込んだ殿下を見下ろしながら、ゆっくりと広間へ入ってきた。その一歩ごとに、空気が張り詰めていく。


「お、叔父上……!? な、なぜここに……」

「宰相に用事があって来たのだが……まさか、こんな見苦しい茶番を見せられるとはな。フレデリック、他家の令嬢に暴力を振るおうとは、王族の恥さらしもいいところだ」

「ち、違います! こいつが、クラリスが私を侮辱して……!」

「侮辱? 事実を述べただけだろう。お前が執務を放棄し、女に現を抜かして無能を晒しているのは、周知の事実だ」


 アレクシス様の言葉の刃が、的確に殿下の急所を突き刺す。殿下は顔を真っ赤にして反論しようとしたが、アレクシス様の冷徹な視線に射抜かれ、声が出ない。


「それに……」


 アレクシス様は私の隣まで来ると、自然な動作で私の腰を引き寄せた。


「ひゃっ!?」


 悲鳴が出た。

 推しの腕が! 私の腰に! 密着!

 心臓が破裂する。脳内の処理速度が限界突破した。

 アレクシス様はそんな私の動揺など気にも留めず、腰を抱いたまま殿下に向かって宣言した。


「彼女は、私のものだ」


……はい?


 今、なんと?

 幻聴だろうか。ついに推しへの愛が強すぎて、私の脳が都合の良いセリフを捏造し始めたのだろうか。


「手出しは無用だ。彼女の時間も、彼女の愛も財布も、すべて私に捧げられるべきものだ。お前のような男に浪費させるつもりはない」


 愛も財布も、と言い切ったあたりにアレクシス様なりの「理解」あるいは「誤解」を感じるが、その独占欲に満ちた瞳は本物だった。

 殿下はあんぐりと口を開け、パクパクとさせている。

 ミリア嬢に至っては、アレクシス様の美しさと覇気に当てられて気絶寸前だ。少なくとも、私にはそう見えた。


「お、叔父上が……クラリスを……?」

「そうだ。文句があるなら、国政の未処理案件をすべて片付けてから言いに来い……もっとも、お前にできるとは思えんがな」


 アレクシス様が手でシッシッと追い払う仕草をする。

 殿下は悔しそうに歯噛みしたが、叔父である「氷の公爵」に逆らえるはずもなく。


「お、覚えてろよ! いつか後悔させてやるからな!」


 捨て台詞を吐いて、殿下はミリア嬢の手を引いて逃走した。

 嵐が去った後の静寂。

 残されたのは、腰を抱かれたまま石像のように固まった私と、涼しい顔のアレクシス様だけ。


「……行ったか」


 アレクシス様がふぅ、と息を吐き、私を見下ろした。

 至近距離。吐息がかかる距離。美貌の暴力。


「く、クラリス嬢。大丈夫か? 怪我は?」

「あ、え、は、はい……あの、閣下……今の、その……」

「ん?」

「『私のもの』というのは……その、どういう……?」


 私が蚊の鳴くような声で尋ねると、アレクシス様は少しだけバツが悪そうに視線を逸らし、しかしすぐに私を見据えた。その耳が、ほんのりと赤くなっているのを私は見逃さなかった。


「……言葉通りの意味だ……嫌か?」

「嫌なわけがございませんんんん!!!」


 食い気味に絶叫した私は、あまりの尊さと幸福感で、ついに意識が途絶した。

 薄れゆく意識の中で、推しが慌てて私を抱きとめてくれる感触があったことだけは覚えている。

 我が推し活に、一片の悔いなし……


◇ ◇ ◇


 あの嵐のような「公開求婚」から数ヶ月。

 季節は巡り、王都には穏やかな風が吹いていた。私の日常も、以前とは比べものにならないほど平和で、そして輝かしいものになっていた。


 朝食後のティータイム。

 私は父が持ってきた朝刊をパラパラとめくった。政治面の片隅に、小さく掲載された記事が目に入る。


『元王太子フレデリック、廃嫡決定。王家直轄領の幽閉塔にて無期限の謹慎へ』


 記事によると、彼は公務の放棄による国政の遅滞と、王弟殿下であるアレクシス様および宰相家である我が家への不敬な振る舞いが問題視され、正式に王位継承権を剥奪されたらしい。古株の側近たちが必死に庇ったようだが、アレクシス様の「彼には再教育が必要だ」という一言と氷の微笑みで全てが決まったとか。

 一緒にいた男爵令嬢ミリアは、事の重大さに気づいて夜逃げしたそうだが、まあ遠くないうちに捕まるだろう。


「へー、そうですか」


 私は記事を一読した後、何の感慨もなく新聞を丸め、ゴミ箱へとシュートした。

 興味がない。

 私のメモリの容量は、元婚約者の末路ごときに割く余裕などないのだ。

 なぜなら、今日という日は、私の人生における最大にして最強のイベント――


「クラリス、準備はいいか?」


 父の声に、私は鏡の前で振り返った。

 純白のウェディングドレス。レースと真珠をふんだんに使った、国一番の職人が手掛けた最高傑作。

 だが、そんなドレスすら霞むほどの重大事が、これから待ち受けている。


「……お父様。私は今、人生最大の『解釈違い』に直面しています」

「何を言っているんだ。早くしないと、アレクシス殿下がお待ちだぞ」


 そう、今日は私の結婚式だ。

 相手は、あろうことか我が推し、アレクシス・フォン・ルークリア公爵閣下である。


 あの日、気絶から目覚めた私を待っていたのは、薔薇の花束と婚姻届を持ったアレクシス様だった。「責任を取る」という言葉は、物理的な意味──すなわち結婚だったのだ。

 私は抵抗した。「ファンが推しと結ばれるなど、宇宙の法則に反する」「私は貴方様を見守る壁になりたい」と必死に弁明した。


 しかし、アレクシス様はすべてを「照れているのか、可愛いところもある」とポジティブに受け取り、気づけば外堀も内堀も埋められ、今日に至る。


 大聖堂の鐘が鳴る。

 父のエスコートでバージンロードを歩く私の視界に、祭壇の前で待つ彼の姿が入った。

 白いタキシード姿のアレクシス様。

 銀髪を整え、厳粛な面持ちでこちらを見ている。ステンドグラスの光を浴びたその姿は、もはや絵画。いや神話。


(尊すぎて直視できない……! 網膜が! 網膜が焼ける!)


 足が震える。

 祭壇の前で父からアレクシス様へと私の手が渡される。

 その手は大きく、温かく、そして力強かった。


「……綺麗だ、クラリス」


 アレクシス様が、私だけに聞こえる声で囁く。

 その破壊力満点の笑顔に、私は膝から崩れ落ちそうになった。


「か、閣下……! やはりこれは間違っています! 推しと結婚なんて解釈違いです! 私は貴方様の生活を構成する微粒子になりたいだけで、隣に並ぶなど恐れ多くて……!」

「まだ言っているのか」


 神父様が困惑する中、アレクシス様は苦笑し、私の顔を両手で包み込んだ。

 逃げ場がない。

 至近距離に推しの顔。


「クラリス。君は私の壁になりたいと言ったな」

「は、はい! 壁でも床でも、天井のシミでも構いません!」

「ならば、好きにしろ。壁も床も、この屋敷のすべては私のものだ。つまり、君も私のものだ」

「っ……!?」

「君が壁になりたいなら、私は毎日その壁に愛を囁こう。床になりたいなら、私はその床の上で君と寝よう……どこに逃げようと、君は私の側にいるしかないんだ」


 なんという暴論。

 なんという溺愛。

 そして、なんという美声。


「そ、それは……つまり、推し活の永久フリーパスということでしょうか……?」

「そうだ。私の隣という特等席で、死ぬまで私を見ている権利をやる……だから、観念して私に愛されろ」


 アレクシス様はそう言うと、返事を待たずに私の唇を塞いだ。


 大聖堂に響き渡る歓声と拍手。パイプオルガンの音色。

 私は思考回路がショートし、真っ赤になりながら、それでもしっかりと彼の上着の裾を握りしめていた。


(ああ……尊い……もう、遺言……)


 幸せすぎて意識が遠のく中、私は新たな誓いを立てた。

 これからは妻として、そして最古参のトップオタとして、この尊い公爵様を一生かけて推し続けると。


「……愛しているよ、私の可愛い奇妙な人」


 耳元で囁かれた甘い言葉に、私は本日二度目の、そして人生で最も幸せな悲鳴を上げたのだった。

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