第四章 呪縛
喫茶店の閉店時間が迫っても、俺たちは席を立とうとはしなかった。
俺のスマホには、今日会う約束をしていた「名前も覚えていない女」からの催促が何度も届いている。けれど、その通知は俺の心を一ミリも動かさない。俺はただ、氷が溶けて薄まったレモンスカッシュのグラスを、指でなぞり続けていた。
「……ねえ、何考えてるの」
ポニーテールを揺らした彼女が、首を傾げて俺を覗き込む。その指先には、俺が塗った安物の赤いマニキュアが、彼女の白いワンピースの上で毒々しく浮いている。
「……別に。この後、あいつに会うんだろうな、って思ってただけだ」
「あいつ」とは、彼女をこんな「清楚な人形」に変え、別れた後も彼女の身体を縛り続けている、かつての恋人のことだ。
「……会わないよ。もう別れたんだから」
「嘘をつけ。髪も、服も、お前の選ぶ言葉の端々まで、まだあいつの匂いがしてる」
俺が吐き捨てると、彼女は悲しげに笑い、自分の下ろした髪を乱暴に指で梳いた。
「……そうだね。あいつの好みに合わせてた時の私を、私の身体が忘れられないんだ。自分で自分が気持ち悪い。……ねえ、もっと私を壊してよ。あんたのその、安っぽいリングの跡が残るくらい、強く」
俺は彼女の手首を掴む。そこには、俺が嵌めた安物のリングが、細い指を締め付けるように輝いていた。
「俺だって同じだ。興味もない女と寝て、自分を汚し続けて、そうやってあんたへの『誠実さ』の残骸を必死に守ってる」
二人は、お互いがいれば「本物」に戻れることを知っている。
けれど、一度戻ってしまえば、今自分たちが必死に演じている「誰かに染まった自分」や「チャラい自分」という盾が崩れ、社会の中で生きていけなくなることも理解していた。
だからこそ、俺たちは「恋人」という、いつか終わる関係には戻れない。
この、路地裏の吹き溜まりのような場所で、毎週一回だけ毒を交換し合う。
それ以外の六日間は、お互いを想いながら、隣にいる興味のない誰かを裏切り続ける。
「……帰らなきゃ」
彼女が呟く。けれど、その目は「行かないで」と叫んでいるように見えた。
俺たちは、幸せになる方法を忘れたわけではない。
「……ねえ、もう一回だけ。あの名前で呼んでよ」
氷の溶けきったレモンスカッシュを飲み干した俺に、彼女が縋るような声を向けた。その目は、清楚な人形でいることに疲れ果て、心根にある「かつての自分」を必死に繋ぎ止めようとする悲鳴そのものだった。
俺はためらい、それからかつての「誠実な僕」の声を絞り出すように、彼女の名前を短く呼んだ。
その瞬間、彼女の瞳が潤み、歪んだ歓喜に染まる。
「……ありがとう。それでまた一週間、私はあいつの影として生きていける」
彼女はすでに別れたはずの男の残像を、今も身体の隅々に飼っている。朝起きれば無意識に彼好みの服を選び、彼好みのしなだれ方を再現してしまう呪縛。俺もまた、店を出れば興味のない女たちとの空虚な遊びに身を投じる。それは、唯一の正解に手が届かない絶望を紛らわすための、泥沼のような日常だった。
俺たちは席を立ち、古ぼけた喫茶店のドアを開けた。カラン、という乾いた鈴の音が、僕たちの「本物の時間」の終わりを告げる。
路地裏の夜気は冷たく、俺の派手な髪色も、彼女の白いワンピースも、暗がりに不自然に浮き上がっていた。駅へと続く道のり、俺たちは一度も手を繋がなかった。繋いでしまえば、この美しくも醜い「停滞」が壊れてしまうことを、互いに本能で理解していたからだ。
改札の前で、二つのホームに分かれる直前、彼女が振り返った。解かれた髪は再び、意思を持たない冷たいストレートとなって肩に落ちている。
「これからまた誰かと付き合っても、私のこと、ちゃんと裏切り続けてね」
「ああ。お前も、一生俺のことを思い出して、隣にいる男をガッカリさせてやれよ」
それは愛の告白よりも重く、死の宣告よりも冷酷な約束だった。
俺はチャラい笑みを仮面のように貼り付け、スマホに溜まった興味のない女からの通知を一瞥して、ゴミを捨てるように画面を伏せた。彼女は「清楚な人形」の顔で会釈をし、終わった恋の亡霊が待つ日常へと消えていった。
逆方向の電車に揺られながら、俺は窓に映る自分の無様な姿を自嘲した。
俺たちは、幸せになることを永遠に禁じ合った。
心の中に飼い慣らした互いという名の「猛毒」が、他の誰の色にも染まることを、この先一生許さないのだ。
俺は、いつまでも消えない喉の奥のえぐみと共に、夜の闇へと沈んでいった。
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