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第三章 剥離

 それから俺たちは、週に一度、あの路地裏の喫茶店で会うようになった。

 誰に決められたわけでもない。けれど、金曜日の夕暮れ時、どちらからともなくあの角を曲がり、カランと鳴る鈴の音を合図に「偽物の自分」を一時停止させる。それが俺たちの、暗黙の、そして唯一の救いだった。

 二度目の金曜日。

 店に入ってきた彼女は、相変わらずあの真っ白なワンピースを着ていた。俺が注文したレモンスカッシュに指一本触れずに眺めていると、彼女が不意に、テーブルの下で俺の靴を小突いた。

「……何、その指輪。安っぽい銀メッキ」

「うるせえよ。今の俺にはこれが似合ってるんだ」

 俺が鼻で笑うと、彼女は「ふーん」と、かつての生意気そうな顔で俺を見た。その瞬間、彼女の下ろした髪がわずかに揺れ、清楚な仮面の下にある「あいつ」が顔を出す。

「……ねえ、一個貸して。私も、そういう『安い自分』になってみたい」

 俺は無言で、中指のリングを外して放り投げた。彼女はそれを拾い上げ、親指に嵌めて満足そうに笑う。虚飾を分け合ったその時から、俺たちの「解体」が始まった。

 三度目の金曜日。

 向かいに座った彼女の手元を見て、俺は喉の奥がザラついた。

「……爪。何にも塗ってないんだな」

「うん。……あいつ、派手なのは品がないって。爪は短く、何も塗らないのが一番綺麗だって言ってたから。……でも、こうして自分の指を見てると、死体みたいに見えて。……ねえ、あんた、何か持ってないの?」

 俺は無言で、カバンの奥に放り込んであった安物の赤いマニキュアを取り出した。チャラい自分を演出するために買った、毒々しい赤。

「……塗ってやるよ」

 俺は彼女の細い指を掴み、不器用な手つきで紅を乗せた。はみ出しても構わなかった。真っ白なワンピースには不釣り合いな、燃えるような赤。

「……似合わないね。でも、落ち着く。あんたのクズな部分が、私の肌に触れてるみたいで」

 四度目の金曜日。

 彼女の痛々しさは、より深刻な形になって現れた。

「……ねえ。まだ、その服着てるんだな」

 俺が問いかけると、彼女は力なく自分の白いワンピースを見つめた。

「だいぶ前に、彼とは別れたよ。連絡だって、とっくに消した。なのに、朝起きて鏡の前に立つと、無意識に彼が好きだったこの服を手に取っちゃうの。髪だって、勝手に手が動いて、彼が言った通りに整えてる。……中身は空っぽなのに、外側だけがまだ、あの人に飼われてるみたい。……ねえ、私、どうすればいいの」

 それは、自分一人では「元の自分」に戻ることさえ許されない、深刻な侵食だった。彼女は、終わったはずの恋の亡霊を演じ続ける「清楚なお人形」として、日々を死んだように生きている。

「……こっちに来いよ」

 俺は半ば強引に、彼女を店の隅の死角へと引き寄せた。

 俺自身のチャラい仮面も、もう限界だった。ジャラジャラと鳴る安物のリングをすべて外し、テーブルに叩きつける。

「俺」という一人称を投げ捨て、不器用で、ひどく誠実だった「僕」に戻って、彼女の髪に手を伸ばした。

「……痛いよ」

 彼女が小さく声を漏らすが、俺は構わずに、彼女の髪を指で乱暴にかき回した。

 綺麗に整えられた「誰かの好み」を、泥土で汚すように壊していく。指先に絡まるストレートの髪を力任せに引き絞り、俺のカバンの底で眠っていた、古ぼけたヘアゴムを取り出した。

「……あ」

 俺は鏡も見ずに、彼女の髪を高い位置でまとめ上げた。

 出来上がったポニーテールは、少し形が崩れていて、後れ毛もひどい。

 けれど、その瞬間、彼女の瞳に、確かな色が戻った。

「……これでいいんだよ。あんたは、こうやって、うるさいくらいに笑ってたんだから」

「……バカだね。こんなことしたって、店を出れば、私はまたあの人に染まったお人形に戻るのに。……あんただって、また明日から、名前も知らない女を抱いて、クズな男を演じるんでしょ?」

 彼女は泣きそうな顔で、けれどかつての「あいつ」のような生意気な口調で笑った。

 僕の不器用な誠実さが、彼女の呪縛を一瞬だけ解き、彼女の歪んだ執着が、僕の虚勢を根こそぎ剥ぎ取る。

「いいよ。そのたびに、僕が何度でも壊してやるから。……今のお前を、僕が一番『ガッカリ』させてやりたい」

「……最低。……最高に、優しいね」

 彼女は、ミルクで真っ白に濁りきった紅茶を、喉を焼くように一気に飲み干した。

 毎週一度、この場所で「本来の自分」を再起動させる。

 けれど、店を出ればまた、彼女は「終わった恋」を身に纏い、僕は「中身のないクズ」を演じる日常に戻る。

 戻れば戻るほど、日常は色褪せ、この一時間が、一生消えない劇薬として俺たちの脳を焼いていく。

「ねえ、来週もまた、私を壊して。……私を、あんただけの『失敗作』にして」

 ポニーテールを揺らしながら囁く彼女の言葉は、かつての清純さとは対極にある、どす黒い共依存の宣誓だった。



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