第二章 再開
あの場所。
あの場所。
街の外れ、入り組んだ路地の奥にひっそりと佇む、忘れられないあの場所。
かつての二人が、数え切れないほどの時間を潰した、古ぼけた喫茶店。
カラン、とドアの鈴が鳴る音さえ、俺の罪悪感をなぞるように響く。
俺は先に着き、一番奥の席でわざとらしくスマホをいじりながらあいつを待った。
派手な髪色、ジャラジャラと鳴る安物のリング。今の俺は、あいつが愛した「誠実な僕」の成れの果てだ。
数分後、再びドアが開いた。
入ってきた女性を見て、俺は呼吸を忘れた。
あいつは、俺の知らない誰かのどす黒い色に、無残なほど塗り潰されていた。
付き合っていた頃、あいつはいつも高い位置でポニーテールを揺らしていた。
「来るの早すぎるって!」と笑いながら駆け寄ってくる、あの弾けるような躍動感。それが俺の知るあいつの全てだった。
なのに、今の彼女はどうだ。
揺れることをやめた髪は、重たげに肩へ下ろされている。意思を消したような、冷たいストレート。
着ているのは、あいつが一番嫌っていたはずの、窮屈そうで清楚な白いワンピース。
元恋人の好みだろうか。あいつの持ち味だった「快活さ」は、どこにも見当たらない。
彼女は音もなく俺の正面に座ると、感情の読めない瞳で俺を見た。
「……久しぶり」
その声には、かつての太陽のような明るさは微塵もなかった。極限まで温度が削ぎ落とされている。
「……久しぶり。随分、大人っぽくなったんだな。髪、下ろしてるの、初めて見たよ」
俺の精一杯の虚勢に、彼女は微かに口角を上げた。それは微笑みというより、諦念に近い形をしていた。
「今の彼が、こっちの方がいいって言うから。……あんたこそ、随分派手になったね。似合ってないよ」
「今の俺には、これくらいがちょうどいいんだ。重たいのはもう、御免だからさ」
俺はスマホを放り出し、画面に届く興味もない女からの通知を、あえて見せつけるように無視する。
「チャラい男」の演技。けれど彼女の視線は、俺の指先で震えるリングを捉えて離さない。
「……嘘つき。あんた、髪色を変えても、中身の『誠実な僕』が漏れ出してるよ。……店員さんに、あんなに丁寧に会釈して」
彼女は、あの頃好んで飲んでいたクリームソーダとは違う、ストレートの紅茶にゆっくりとミルクを注ぐ。
俺もそうだ。かつては落ち着いたブラックコーヒーを好んでいたのに、今は喉を刺すようなレモンスカッシュを選んでいる。
白く濁っていく液体を見つめながら、彼女は俺の急所を、正確に、そして静かに突き刺した。「あんたも、私も、結局誰にもなれなかった。……そうでしょ?」
彼女は続けて、俺にとどめを刺してきた。
「この色。……彼、紅茶に少しでも茶色が残るのが嫌いなの。だから、真っ白になるまでミルクを入れなきゃいけない。……ねえ、今の私のこと、どう思う? 気持ち悪いでしょう」
彼女は、俺がかつて愛した「ポニーテールを揺らして笑う彼女」を、今の自分の手で踏み潰すように言った。自虐的な言葉の裏に、俺を試すような、冷たく鋭い「毒」が光っている。
「……勝手にしろよ。俺には関係ない」
「そう。……関係ないね。私たちはもう、ただの他人だもんね」
彼女はそう言って、真っ白に濁った、味のしないはずの紅茶を一口飲んだ。
その瞬間、俺たちは確信した。
お互いに「新しい自分」になることに失敗し、無様に逃げ場を失って、この路地裏の吹き溜まりに辿り着いたのだと。
「……ねえ。ガッカリした?」
濁った白に視線を落としたまま、彼女が小さく呟く。
「ああ、ガッカリだ。……お互い様だけどな」
俺はそう吐き捨てて、氷の溶けきった、ぬるいレモンスカッシュを喉に流し込んだ。
強烈な酸っぱさが、偽物の俺たちの喉を、焼くように通り過ぎていった。
氷の溶けきったレモンスカッシュは、もはや飲み物というより、喉を焼く劇薬のようだった。
飲み干した後も、舌の上には不快な甘さとえぐみがこびりついている。
「……ねえ、これからどうするの? 帰って、また誰かのための『偽物』を続ける?」
彼女は、真っ白に濁りきった紅茶のカップの縁を、震える指でなぞった。
その指先には、かつての彼女が好きだった派手なネイルはない。爪の形を整えただけの、清潔で、無機質な、誰かに「管理」された手。
「……さあな。」
自嘲気味に笑いながら、俺はポケットの中で無意識にスマホを探した。けれど、画面に通知を飛ばしてくる女たちの誰一人として、今の俺のこの「空洞」を知らない。
「……嘘。あんた、さっきからスマホが鳴るたびに、ひどく面倒そうな顔してる。……本当は、誰にも触れられたくないんでしょ。その、安っぽい指輪みたいに」
彼女の視線が、テーブルの上に無造作に置かれた俺の手に刺さる。
俺は何も言い返せず、ただ一つ、また一つと、指に食い込んでいたクロムハーツ風のリングを外し、テーブルに並べた。
チャリン、チャリン。
虚飾が剥がれ落ちる音が、静かな店内に虚しく響く。
「……壊してよ」
不意に、彼女が顔を上げた。
その瞳は、絶望のさらに奥にある、暗い熱を帯びていた。
「このワンピースも、この髪も、誰かの色に染められた今の私を、全部めちゃくちゃにしてよ。
……あんたなら、できるでしょ? だってあんたも、自分のこと、それくらい嫌いなんだから」
それは誘惑ではなく、救いを求める悲鳴だった。
俺は椅子を引き、立ち上がった。あいつの細い手首を、今の彼女には似つかわしくない、少し乱暴な力で掴む。
「……行こう。ここは、俺たちみたいな『失敗作』が居座るには綺麗すぎる」
俺は伝票を掴み、あいつを引きずるようにしてレジへ向かった。
カラン、とドアの鈴が鳴り、路地裏の湿った空気が俺たちの肌を冷たく撫でる。
俺の独白は、湿った夜の空気に溶けて、どこにも届かずに消えた。
腕の中にいる彼女は、あいつであって、あいつではない。清楚な白いワンピースの感触が、俺の指にまとわりつく安物のリングの跡が、今の俺たちの「無様な正体」をこれでもかと突きつけてくる。
「……死ぬまでじゃない? もしかしたら、死んでも、誰かの望んだ色のままで箱に入れられるのかもね」
彼女は俺の胸に顔を埋めたまま、乾いた声で笑った。
本物の自分に戻る勇気も、偽物の自分を愛する器用さもない。俺たちはただ、どちらにもなりきれないまま、この路地裏で泥のように混ざり合っている。
「……いいよ、それでも。今は、あんたのその似合わない髪の色さえ、私の濁った白を隠してくれる気がするから」
俺は彼女を強く抱きしめた。
それが慈しみではなく、共倒れを望む執着だと知りながら。
俺たちの「恋人以上、友達未満」という曖昧な関係は、この夜、かつての思い出さえも塗り潰すような、さらにどす黒い共依存へと形を変えていった。




