第33話 囮田
「なんだここは……」
薄明りの中、見渡す限り何も無い空間。
地面は継ぎ目のない真っ白な白い床がどこまでも続き、空を見上げても果てしない虚空が広がっているだけ。
しかし寂しさは感じない。
僅かながらの明かりは、暗い夜道を照らしてくれている月光のように優しく感じられた。
自分の恰好を見てみると、自衛隊の緑の制服に半長靴、手には手袋をはめている。
任務中だったか?
思い出せない。
ここがどこかということよりも、どうして自分がこんなところに一人でいるのかが不思議に思えた。
一瞬、これは夢なのではないか?そんな考えも頭に浮かんだが、身体が感じている感覚は明らかに現実のそれだ。
こうしていても仕方がないと考え、まずは周囲を見回ってみよう。そう考えた時、どこからか人の声が聞こえてきた。
「囮田祐樹さんですね?」
澄み切った美しい女性の声だ。
そして何故俺の名前を知っている?
俺は驚いて反射的に身を伏せる。
「そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。ここには私と貴方しかいませんから」
「……誰だ?」
この状況で相手の言葉を鵜呑みにするほどお人よしではない。
最大限に警戒しながら、慎重に腰に手を伸ばす。
しかしベルトに装備しているはずの89式5.56mm小銃はなかった。
「そんな物騒なものを探さないでください。私は貴方に害を加えるつもりなどこれっぽっちもございませんから。信用してリラックスしてくださいね」
「……顔も見せない相手を信用しろというのは甘いんじゃないか?」
「え?ああ、 そうでしたそうでした。こちらから貴方が見えているのですっかりその事を忘れておりました」
そう言った声はどこか楽し気で、その事が余計に俺の不安を強くする。
不思議な空間に見えない相手。
俺は自分の置かれている状況が全く理解出来ないでいる。
「これでどうでしょうか?」
「——!?」
突然目の前に現れた女。
瞬きすらもしていないのに、その女は何も無いところに一瞬にして現れたのだ。
背はかなり高い。180センチある俺よりもまだ頭一つほど高いだろうか。
幾重にも模様の入った美しい着物を羽織っており、腰の辺りまで真っすぐに伸びた黒髪に切れ長の知的な目にすらっと通った鼻筋。紅のさした控えめな口元の、まるで日本人形のように整った顔立ちに俺は美しいという言葉しか浮かんでこなかった。
「改めまして、囮田祐樹さんで間違いないですね?」
「あ、ああ……そうだ」
俺はゆっくりと立ち上がり、2メートルほど離れたところに立つ女にそう答えた。
誤解の無いように言わせてもらうなら、俺は決して相手が美人だから警戒を解いたというわけではない。
彼女から感じるオーラとでもいうのだろうか?その発せられる雰囲気が俺の不安を取り除いたのだ。
いや、俺は誰に弁解しているんだか……。
「私の名前は月読。あなたのいた日本では神と呼ばれている者です」
「神……だと?」
見た目は美人だが、どうやら少々痛い部類の美人らしい。
「失礼な感想を持たないでくださいよ。痛くなんかありません。れっきとした神様なんですからね」
——!?
どうして俺の考えていた事を!?
「それは私は神なのですから、魂となった貴方の思っていることくらい解りますよ」
気味が悪いな。
これは読心術とかいうやつなのか?
「あれ?まだ信じていただけていないようですね?では神である証拠に、貴方のこれまでの生い立ちを話ましょうか?それとも、貴方が部屋の押し入れの奥に隠してある——」
「分かった。お前が——貴女が神であるということを信じましょう。月読様」
「信じてくれたようで何よりです」
にこりと浮かべた柔らかな笑みが、俺には悪魔の微笑みのように見える。
……ん?まてよ。
さっき魂となったとか何とか言ってなかったか?
「はい。その通りです。今の貴方は肉体から分離した魂のみの存在なのです」
「魂のみの存在……。それは……幽体離脱とかいうやつのことでしょうか?」
「あれ?もしかして貴方。ここに来るまでの事を覚えていらっしゃらないんですか?」
「ええ。全く。俺がどうして今ここにいるのか理解出来ておりません」
俺がそういうと、月読様は少し悲しそうな表情になった。
「そうですか……。今の貴方から感じるのは不安、畏れ、そして後悔と未練。その強い負の感情が貴方の記憶を抑圧して思い出せないようにしているのです」
「俺が自分で思い出せないようにしている?」
「そういう事です。それほど貴方の最期は辛い思い出となったのですね」
「——待ってくれ!?最期って何だ!?いや、何ですか!?俺の身に何が起こったっていうんですか!?」
「……知りたいですか?」
月読様は憐れむような目で俺を見ている。
「知りたいです!もちろん知りたい!」
知りたいに決まっている。
どうして俺が——
「そうです。貴方はすでに自分が死んでいるという事に気付いています」
どうして俺が死ななきゃならなかったのか。
「その事を思い出したとしても、今の結果は変わらないのですよ?それなら辛い事を思い出す必要などないのではないですか?」
「そんなことはない!」
「はっきり言いきりますね?」
「貴女は先程俺から感じるのは後悔と未練だと言った。つまり俺は何かにしくじって死んだんだろう。しかし未練というのは何だ?独り身の俺が残す未練なんていったら、それこそ隊員たちの事しか浮かばない。俺は任務の途中で何かヘマをして仲間を巻き込んだんじゃないんですか?」
俺がこの後どうなるかは知らない。
そもそもこれが現実であるのなら、神も死後の世界も存在するという事なのだろう。
仏教でいうところの極楽浄土に行くのか、それとも閻魔の住まう地獄へ送られるのか。
どちらだとしても、だ。
俺は俺の失敗を知らないままそんなところに行くわけにはいかない。
こちらでその仲間と顔を合わせるような事があるかは分からないが、もしあったとしたら、俺はどんな顔で会えば良いというのか。
「成程。やはり貴方は立派な人格者ですね。自分が死んだことを知ってもなお、大切な仲間の事を気に掛けていらっしゃる。まあ、その気持ちが強いからこそ思い出したくないというブレーキが掛かっているでしょうけども」
「……やっぱり俺は仲間に迷惑をかけるような事をして死んだのか?」
なら行き先は地獄に決まった。
何をやったかを思い出して、その事を仲間に悔いながら罰を受けよう。
「いやいや、そこまで重く考える必要は無いですよ?」
俺の心を読んだ月読様の表情が和らいだ。
「死んでしまった貴方に言うのもおかしな話ですが、それこそ貴方の最期は立派なものでした。お仲間の方にも迷惑をかけておりませんし、胸を張って死んで大丈夫です」
悪気は無いのだろうが、彼女の言葉にはデリカシーというものが感じられない。
本当に死んだ人間に言うことじゃないな。
「では貴方の意思を尊重して、貴方の記憶を呼び戻しましょう」
月読様はそう言って目を瞑り、両腕を大きく広げた。




