第91話 決戦を待つ街――二人を迎える声
ロンドンの街が、ざわめきに包まれていた。
特別な日。センターコートの決勝を前に、人々の心は期待と緊張で揺れている。
『ローレンスが勝つに決まってる』――そう言う者もいれば、
『ジャパン・ガールをもう一度見たい』――そう笑う者もいた。
それぞれの声が折り重なり、世界がひとつの舞台を見つめている。
ロンドンの朝は、いつものように曇り空だった。
けれどその空気には、どこか普段とは違う熱が混じっている。街角の新聞スタンドに並ぶ見出しが、今日という一日が特別なものだと告げていた。
『決勝戦:ロンドンの至宝 エマ・ローレンス vs 日本の新星 三浦紗菜』
一面に大きく踊る文字と共に、二人の写真が並んでいる。エマは凛とした眼差しでラケットを構え、紗菜は小柄な体に似合わぬ力強い表情を浮かべていた。
新聞を手に取った通勤途中のサラリーマンが、隣にいた友人に言う。
『エマが負けるわけないだろ。あの精密さは芸術だ』
だが、同じ紙面に掲載された準決勝での紗菜の写真を指差し、違う声が返る。
『いや、あの子……昨日の試合、最後まで見たか? あの粘り、ただ者じゃない。まるで小さな体に炎を宿しているみたいだった』
その会話に耳を傾けた少年が、無邪気に笑って口を挟んだ。
『サナって忍者みたいに速いんだよ! ボールに追いつくとき、消えたかと思ったもん!』
朝のカフェでも、試合の話題が途切れることはなかった。
カウンター席に座った年配の男性がコーヒーを飲みながら、テレビに映るスポーツニュースを見つめている。
画面には紗菜の準決勝のハイライト。渾身のスマッシュを決めた場面だ。解説者が熱を込めて語る。
『身長差を超えるフットワークと冷静な読み、そして底なしの体力――あの日本の少女は、誰もが予想しなかったところまで来ました。今日の決勝は、“エマ・ローレンス vs 三浦紗菜。この構図は世界中のテニスファンを虜にするでしょう』
男性は新聞を折りたたみ、深いため息を漏らした。
『……もし、あの小さな子がエマを倒したら……本当に歴史になるな』
一方で、若い女性客は頬を紅潮させている。
『昨日の試合、泣いちゃった。あんなに必死で走って、最後まで諦めなかったんだもん。今日も、絶対にすごい試合になる』
店の奥のテーブルでは、観光で訪れていた外国人グループが興奮気味に話していた。
『ロンドンに来て、エマとサナの試合を生で見られるなんてラッキーだ!』
『嵐で中断したあの一戦の続きだろ? これ以上の舞台はないさ』
テレビ画面が切り替わり、大会公式ポスターが映し出される。
鮮やかな青い背景に、対峙する二人の姿。その下には大きな文字で――
『決戦』
キャスターが言う。
『これはただの決勝ではありません。未来を決める試合、テニスの歴史を動かす瞬間になるかもしれません』
ロンドンの街角、カフェ、新聞、テレビ。
どこもかしこも、エマと紗菜の名で溢れていた。
人々はそれぞれに予想し、議論し、熱を帯びている。
“ロンドンの至宝”と“ジャパン・ガール”。
この二人が織りなす物語を、世界は待ち望んでいた。
昼下がりの会場前は、人の波で埋め尽くされていた。
入場ゲートに掲げられた巨大スクリーンには、昨日の準決勝のハイライトが何度も映し出されている。
エマが冷徹に相手を打ち抜くショットに、観客は『ブラボー!』と歓声を上げる。
その直後、紗菜が俊敏なフットワークで絶望的な球を拾い、そこからラリーを制するシーンが流れると、どよめきが広がった。
『小さいのに、なんであんなに追いつけるんだ?』
『ただの勢いじゃない。読みが鋭いんだ』
観客の声は、驚きと好奇心が入り混じっていた。
会場の中、記者席でも熱い議論が続いていた。
『エマは完璧な選手だ。ショットの正確さも、メンタルも揺るがない。勝つのは当然だ』
『いや、三浦紗菜は未知数だ。彼女は誰も予測できない返球をする。“計算を崩す天才”かもしれない』
その言葉に、一瞬静まり返った周囲の記者たちが頷く。
街角のパブでは、テレビの前でファンたちが声を張り上げていた。
『ローレンスが勝つに決まってる!』
『いや、昨日の日本の子を見ただろ?あれはただ者じゃない!』
ビールジョッキがぶつかり、笑い声が混ざる。
けれど誰も、本気でどちらが勝つかを断言できなくなっていた。
――やがて。
コロシアムのようにそびえるセンターコートに、人々が吸い込まれていく。
熱気はもう、街全体を飲み込んでいた。
「ロンドンの至宝」と「嵐の続きを背負う少女」。
二人が対峙する瞬間を待ちきれず、観客の心臓はすでに跳ね続けていた。
ロンドンで鳴り響く声のひとつひとつは、選手たちに直接届くものではない。
けれど、空気に溶け込み、熱気を作り、コートを包み込む。
その熱は観客席に、記者席に、街のパブに――そして遠い日本にも広がっていく。
決勝戦を前に、もう誰もが胸を高鳴らせていた。
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