第86話 白いグリップがつないだ勝利
テニスは力だけでは勝てない。ときに試されるのは「耐える心」と「対応する力」。
巧みにリズムを崩し、長いラリーに引き込む技巧派の相手に、紗菜は序盤で押されてしまう。
だが、握り直したラケットと共に気持ちを立て直し、持ち前の俊敏さと集中力で一球一球を攻略していく。
苦しい展開の中だからこそ輝いたのは、彼女の「逆境を打ち砕く」意志だった。
準決勝。
ロンドンの青空の下、センターコートに足を踏み入れると、熱を含んだ空気がじんわりと体を包んだ。
芝を丁寧に整えたようなコートではなく、クレー混じりのハードコート。
ボールが少し重く跳ね返り、足に伝わる感覚がいつもより沈んでいる気がする。
観客席には多くの人々が詰めかけていた。
日本からの応援も、遠くの国旗と一緒にちらほら見える。
けれど会場の空気は偏らず、誰の名前にも等しく拍手が送られている。
(……やっぱり、本場の雰囲気って違う。誰が勝つかじゃなく、いい試合を観に来てるんだ)
審判のコールが響き、相手の名前が告げられると拍手。
そして『ミウラ・サナ!』の声に、また同じ大きさの拍手。温度差はない。
むしろ公平に受け入れてくれているその響きが、胸を落ち着かせた。
対面する相手は、技巧派で知られるシード選手。
長身ではないが、構えの一つひとつに無駄がなく、落ち着いた雰囲気がある。
ラケットを軽く振ると、球出しのウォームアップの段階でさえ、コントロールの正確さがはっきり伝わった。
(うまい……ただ強いんじゃない。崩す隙が少ない)
試合開始。
最初の相手のサービスゲーム。
センターに正確なサーブ、紗菜のリターンは深く返したつもりだったのに、すぐさまスライスで角度を変えられ、前後に振られる。
返した球をさらにドロップで落とされ、走った先で届いたラケットの先から、無念にボールがこぼれた。
「15–0!」
審判の声。観客からの拍手。淡々としているが、その一球一球を大切に見守る視線が刺さってくる。
続くラリーも同じだった。
トップスピンで高く弾ませ、次は低いスライス。
タイミングを外され、紗菜の強打はアウト。
(……全部、返ってくる。パターンを作られてる!)
自分のサービスゲームも簡単には取らせてもらえなかった。速攻を仕掛けても、球足を殺して時間を奪う相手の術中に嵌まる。
一進一退――でも少しずつ流れは傾き、スコアは気づけば 1–3。
汗が額から落ち、ラケットを持つ手のひらに違和感が生まれた。
グリップがじっとりと濡れ、ほんのわずかに滑る感覚。打点でラケット面がぶれて、狙ったコースから外れる。
(……嫌な感じ。しっかり握ってるのに、力が伝わらない)
観客は決してブーイングも嘲笑もせず、ただ淡々と拍手を送る。
その中でミスが重なるのは、逆に自分の失敗が強調されるようで苦しい。
「まだ……大丈夫」
小さく息を整える。だがその声が自分に届くより早く、スコアボードは 2–4 を示していた。
(ここで気持ちを切らさない……巻き返す)
ベンチに座り、タオルで汗を拭った手に再びラケットを握る。
グリップを巻き直す決意が、胸の奥に灯った。
ベンチに戻った紗菜は、迷いなくラケットバッグを開けた。白いオーバーグリップを取り出し、汗で滑り出した古いグリップの上から巻き直していく。
手が震えていた。
疲労か、焦りか、それとも両方か。
けれど指先が最後にテープをきゅっと押さえた瞬間、心の中に一本の芯が通ったように感じた。
(……よし、これで戦える)
立ち上がると、ラケットの感触が明らかに違っていた。指先から腕へ、そして全身に伝わる安心感。
握りの安定がそのまま気持ちを支えてくれる。
再開された相手のサービスゲーム。
高く弾むトップスピンが飛んでくる――が、今度は落ち着いて見えた。
一歩早く踏み込んで打点を前に取り、力強くセンターへリターン。
相手の返球が浅くなった。ここだ、とばかりに前へ詰め、バックハンドの逆クロスを鋭く叩き込む。
『ラブ・サーティー!』
審判の声に、観客席から拍手が起こる。
淡々と、けれど確かな評価の音。
(深く、センター……相手に角度を作らせない!)
それからのラリーはまるで長いマラソンのようだった。
相手は低く滑るスライスを送り込んでくる。紗菜はしゃがみ込むように拾い、すぐに体を起こしてトップスピンで返す。
今度はドロップ。
前へ走り、すくい上げた球をクロスへ返す。
また相手はスピンで深く打ち返す。
二十回を越えたラリー。
観客は一打ごとに「おぉ」と小さく息を飲み、決まった瞬間には大きな拍手が広がった。
ラリーの終盤、紗菜はふと兄の顔を思い出した。
(ここまで来られたのは、みんなが支えてくれたから。だから……絶対に折れない!)
次のポイント、紗菜は敢えてリズムを早めた。
相手のスライスに対して、地面に落ちる瞬間を待たず、上がり際を捉える。
「オン・ザ・ライズ!」
自分の体が自然と叫んだような気がした。
打球は鋭く、相手の足元を突き、返球はネットにかかった。
「ゲーム! ミウラ!」
スコアは 3–4。会場に拍手が響き渡る。
ここから流れは変わった。
相手の配球パターンを読み、センターへ深く突き続けることで角度を奪い、自分が主導権を握る。
相手のドロップショットも読み切り、コート前に素早く飛び出して正確に拾い返す。
観客の拍手は一打ごとに大きくなり、気づけば「ジャパン!」と声援も混じっていた。
スコアは 5–4。逆転まであと一歩。
勝負のゲーム、相手のサービス。
デュースが二度、三度と続いた。
二人の息遣いがコートに響き、観客も全員が固唾をのんで見守っている。
そして迎えたマッチポイント。
相手のスピンサーブを紗菜は前に踏み込み、力強くリターン。返ってきた球は高く浮いた。
その瞬間、紗菜の体が自然と跳び上がった。
ラケットを振り抜く。
――スマッシュ!
ボールが一直線に相手コートへ突き刺さる。
「ゲーム! セット! マッチ! ミウラ!」
審判の声が響き、会場から大きな拍手が鳴りやまなかった。
スコアは 6–4。苦しい序盤からの大逆転だった。
ネット際で相手と握手を交わす。相手は小さく笑って『見事だった』と称えてくれた。
紗菜は軽く頭を下げ、胸を張って観客席に手を振る。
(……これが、わたしのテニスだ!)
胸の奥で熱い炎が燃え続けていた。
序盤で崩されかけた試合を、修正力と集中でひっくり返す。
まさに紗菜の成長が表れた一戦でした。
勝利の瞬間に湧き上がる拍手は、観客が彼女の戦いを心から認めた証。
次に待つのは、さらに過酷な決勝。
ここまで来た紗菜に、もう「挑戦者」という言葉は似合わないのかもしれません。
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