第85話 別格のライバル
コートに現れたのは、ただ歩くだけで空気を変えてしまう少女――エマ・ローレンス。
その一打一打は、観客さえ納得させる「別格」のプレーだった。
敗北したマリアと観客席で並んで見守る紗菜の胸に、恐怖よりも強く湧き上がったのは――挑みたいという熱。
この物語の中で最も大きなライバルの輪郭が、ここではっきりと浮かび上がる。
試合を終えて控室で軽くストレッチを済ませた紗菜は、まだ鼓動の余韻が胸に残るのを感じていた。
膝に巻いた白いテーピングは少し汗を吸い込んで重たくなっていたけれど、痛みはきちんと抑えられている。
「……よし」
小さく息を吐いて立ち上がると、場内アナウンスが耳に届いた。
『次は、コート1にエマ・ローレンス選手が登場します』
その一言で、心臓が跳ね上がった。
(……エマ)
あの嵐で中断された試合の続き。
再び会うときはコートで、と胸に誓ってきた相手。
だが今日はまだ、自分の試合の出番まで余裕がある。彼女の戦いをこの目で見ておきたい――紗菜はそう思い、観客席へ足を向けた。
コート1。
センターコートにふさわしく、石畳風の通路から一段上がるその場所は、他のコートとは明らかに空気が違った。
観客たちはすでにびっしりと座っていて、ざわめきもどこか落ち着いた重みを帯びている。
派手に叫ぶのではなく、ひとつひとつのプレーに静かに頷くような雰囲気。
胸の奥がふるえる。
なるべく目立たないように、紗菜はスタンドの端に腰を下ろした。そのとき、隣から声をかけられる。
『やっぱり来てたんだ、紗菜!』
驚いて振り向くと、そこにいたのはマリアだった。
少し汗の跡を残したまま、ラフなジャージ姿でにっこりと笑っている。
『マリア!』
『連絡しようか迷ったけど……来てると思ったんだ』
二人は連絡先を交換してからは、ちょっとしたメッセージをやり取りする仲になっていた。
紗奈にとって不慣れな海外で心強い友人となっていた。
『試合は……』
紗菜がためらいがちに尋ねると、マリアは肩をすくめて笑った。
『負けちゃった……。でも、観たい試合はまだ残ってるから』
その表情は悔しさを隠しつつも、どこか晴れやかだった。
『紗菜の試合も観たよ。いいプレーだった』
『……ありがとう』
自然に返事ができる。気取らず、まっすぐに。
マリアの言葉は不思議と胸にすっと入ってくる。
ざわめきが大きくなった。
通路の奥から現れたのは、エマ・ローレンス。
すっと背筋を伸ばし、無駄のない歩幅で進む姿。
視線はまっすぐ前に注がれ、観客席に手を振るでもなく、ただ淡々とコート中央に向かっていく。
その一歩ごとに周囲の空気が張りつめていくようで、観客の拍手は自然に広がり、会場全体が揺れる。
『……すごい』
紗菜は思わず口にした。
エマはラケットを軽く振るだけで、空気を切り裂くような音が鳴る。
ウォームアップの一球一球に迷いがなく、フォアもバックも力みを感じさせない。
サーブは高い打点から鋭く落ち、ボールがネットに触れた瞬間には、まるで白い閃光のように見えた。
『すごい……』
紗菜の小さなつぶやきに、マリアがうなずく。
『そう、彼女は“特別”。テニス界の至宝だね』
試合開始の合図。
エマが最初のサーブを放つ。
高く上げたトス、振り抜いた瞬間――ボールは一直線にコート奥へ突き刺さった。
相手はわずかに反応したが、ラケットの先をかすめることすらできない。
『サービスエース! 15–0!』
審判のコールに、会場の拍手が重なる。力強い歓声ではなく、納得と敬意の拍手。
二球目、三球目も同じ。
相手は必死に食らいつくが、エマのボールは角度も速さも予測を許さない。
観客は息をのむたび、静かなざわめきを重ねた。
(……これが、エマ・ローレンス)
紗菜の胸の奥で、熱い何かがふつふつと湧き上がる。
怖い。けれどそれ以上に――戦いたい。
エマのラケットが振り抜かれるたび、空気が切り裂かれるような鋭い音がコート全体に響いた。
ボールは吸い込まれるようにライン際へ落ち、観客が一瞬息をのみ、次にどっと拍手が広がる。
けれどその拍手は、熱狂というよりも『当然』と言わんばかりの落ち着いた響きだった。
『ゲーム、ローレンス!』
審判のコールが重く響き、スコアボードにあっさりと数字が刻まれていく。相手選手は必死に食らいつこうとするが、何をしても上から押し潰されるように点差が広がっていった。
『ほんと……すごい……』
紗菜の口から自然にこぼれる。
マリアが小さく笑ってうなずいた。
『彼女のすごさは、強いだけじゃない。迷いがないんだ』
確かにそうだった。
フォームに無駄がなく、決断に揺らぎがない。
打つ瞬間、ためらいの欠片すらない。
エマは「勝つために必要な一球」を、ただ正確に繰り返すだけ。その冷徹さは美しくすら見えた。
だが、紗菜の胸に生まれたのは恐怖ではなかった。
むしろ――心臓が高鳴っていく。
(こんな人と、本気で打ち合ってみたい……!)
拳を握りしめる。
自分の小さな体が、相手の圧倒的な打球に押し潰される未来が、頭の片隅をかすめる。
けれど、その想像は不思議と嫌ではなかった。
むしろ、それを越えてみたい。
超えて、自分のテニスをぶつけてみたい。
相手選手がゲームを一つも取れないまま、試合はどんどん片付けられていった。
エマのサーブは要所で必ず決まり、ラリーになっても深いボールで一気に主導権を握る。
ほんの数十分で試合は決着を迎えた。
『ゲームセット! マッチ、ローレンス!』
会場が拍手に包まれる。
だが、その拍手の大半は『期待通り』『やっぱりエマだ』という納得に近い響きだった。
彼女はすでに当たり前のように勝ち、当たり前のように別格である――そんな風に見られている。
『……別格』
紗菜はぽつりとつぶやいた。
その声を聞いたマリアが、横目で彼女を見やり、少しだけ意地悪そうに笑う。
『でも、そういう人に勝ちたいんでしょ?』
『……うん』
即答だった。
自分でも驚くほど迷いがなかった。
胸の奥で熱が渦巻く。
怖さを超えて、ただ「戦いたい」と願っている自分がいる。
エマが観客へ軽く頭を下げ、コートを後にする。
その姿を見送りながら、紗菜は心の中で強く言葉を刻んだ。
(――次は、わたしがあの人の前に立つ)
熱い鼓動が、胸の奥で何度も何度も響いた。
圧倒的な力を持つ相手を前に、普通なら萎縮してもおかしくない。
けれど紗菜は、その強さにこそ心を奪われ、挑戦者としての炎を燃やし始めました。
エマの存在は「高すぎる壁」ではなく「越えるべき頂」として描かれています。
次に彼女の前に立つとき――物語は、さらに熱を帯びていくことでしょう。
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