第8話 夢を言葉にした夜
人は、胸の奥で抱いている思いを、なかなか言葉にできない。
それが夢であればあるほど、口にした瞬間に壊れてしまうんじゃないかと怖くなる。
けれど、たとえどんなに小さなきっかけでも、それを大切な人に伝えられたとき、世界は少しだけ明るく見える。
紗菜にとって、この夜がまさにその瞬間だった。
夜の十時を過ぎたころ。
紗菜の部屋には、小さな卓上ランプだけが灯っていた。机の上には教科書やノートが広がり、ページの端には書きかけの数式や英文が並んでいる。紗菜はペンを握ったまま、机に突っ伏して眠り込んでいた。
夕方の惣菜屋のバイトを終えて帰ってきたばかりだ。慣れない立ち仕事に加え、油の匂いに包まれた数時間は体にこたえる。家に戻り、シャワーを浴びてさっぱりしたあと、少しでも勉強を進めようと机に向かったものの、疲労が勝ってしまったのだ。
――それでもやめられない。
彼女の中には、「どうしても強くなりたい」という炎が燃えている。朝は早起きして学校前に公園の壁でボールを打ち、放課後は少しでもラケットを振ってから帰宅する。それに加えてのバイト。日々が体力勝負になっていた。
そんな妹の部屋を、残業を終えた兄・翔太が覗いた。
半開きのドアの向こうに見えたのは、机に突っ伏して眠る紗菜の姿。
「……やれやれ、また限界まで頑張ってるな」
苦笑混じりの声を漏らし、翔太は部屋に入る。ベッドから毛布を持ち出し、眠る紗菜の背にそっと掛けてやった。
そのとき――床に白い紙が落ちているのが目に入る。翔太は何気なく拾い上げ、折りたたまれたそれを開いた。
《惣菜店 アルバイトシフト表》
曜日ごとの時間と、そこに記された「三浦紗菜」の名前。
「……これは……」
思わず小さく声が漏れる。
学校ではアルバイトは禁止されている。しかも、紗菜が母や自分に隠れてまで働いているなんて。
彼は紙を見つめたまま、眉をひそめた。
その気配に気づいたのか、毛布の感触に反応してか、紗菜がうっすらと目を開ける。
「……お兄ちゃん?」
眠たげに声を出した瞬間、兄の手に握られた紙に気づき、顔色が変わった。
「これ……どういうことだ、紗菜」
声は穏やかだが、逃げ場を与えない響きがある。
「……っ」
紗菜は一気に目が覚め、喉がひりつくように乾いた。
兄は知っている――自分が早朝、公園で壁打ちしていることを。泥だらけになってボールを追っていることを。
でも、バイトまでしているとは知られたくなかった。
「学校じゃバイトは禁止のはずだろ。それなのに……なんでだ?」
翔太はシフト表を机に置き、妹の目をまっすぐに見つめる。
心臓が激しく脈を打つ。
もう隠せない――そう悟った瞬間、紗菜の胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
紗菜は俯いたまま、ぎゅっと膝の上で拳を握りしめていた。
シフト表の文字が頭の中で何度もリフレインする。
――もう隠せない。
小さく息を吸って、震える声を絞り出した。
「……ごめん。バイト、ホントはダメなの知ってる。でも……どうしてもお金がいるの」
「お金?」
翔太は少し眉を寄せる。その視線に射抜かれるようで、紗菜は喉が詰まりそうになる。
「……体育連盟のテニス大会があるの。参加費が……一万五千円。私の小遣いじゃとても足りないし……お母さんにお願いするのは、もっと無理だから……」
言葉が途切れる。涙が出そうになるのを必死にこらえ、唇を噛んで続けた。
「お兄ちゃんも知ってるでしょ。私、毎朝ボロボロのラケットで練習してる。誰にも相手にされなくても、それでもやりたいの。強くなりたい。……夢なんだ、テニスで大きな舞台に立つのが」
紗菜の声は次第に熱を帯び、最後はほとんど叫ぶように響いた。
翔太は黙って妹を見つめていた。
しばらくの沈黙のあと、ふっと息を吐き、シフト表を机に置いた。
「……バカだな、お前は」
その声は叱るよりも、むしろ優しく揺れるような調子だった。
「夢のために無茶して、体壊したら意味ないだろ。でも……」
彼は少し笑って、妹の頭に手を置いた。
「……そうやって必死になるお前を見てるとさ、応援してやりたくなる。父さんがいなくなってから、母さんと俺の前で弱音ひとつ吐かないお前を見て、いつもすごいなって思ってたんだ」
紗菜は目を見開いた。
――お兄ちゃんが、そんなふうに思ってくれてたなんて。
「だけどな、紗菜。約束してくれ」
翔太の目が真剣になる。
「身体だけは壊すな。学校の勉強も投げ出すな。バイトするなら俺も知らないふりをする。でも、全部抱え込むんじゃなくて、困ったらちゃんと俺に言え」
「……お兄ちゃん」
涙がこぼれそうになりながら、紗菜は強くうなずいた。
「うん……ありがとう」
翔太は照れくさそうに視線をそらすと、部屋のドアへ向かう。
「じゃあ、もう寝ろ。明日も朝から打ち込みだろ?」
「……うん!」
背中を見送りながら、紗菜は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
自分の夢を、初めて家族に口にした。
そして、それを笑わずに受け止めてくれた。
――次の朝は、もっと力強くボールを打てる気がした。
紗菜は勇気を振り絞り、兄に夢を打ち明けた。
それは叱られるかもしれない告白でありながら、彼女にとっては未来へ続く扉を開く大事な一歩。
兄の温かい言葉に背中を押され、紗菜の炎はさらに強く燃え始めた。
夢を「隠す」から「伝える」へ――ここから本当の挑戦が始まっていく。
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