第72話 旅立ちのとき
旅立ちの前の夜は、いつもより静かに、そして長く感じる。
紗菜は一人、公園の壁に向かってラケットを振りながら、自分の胸に芽生えた不安や期待と向き合っていた。
その手には母からもらったお守り。兄の支度したスーツケース。
街と家族の想いが背中を押し、星空の下で交わした「必ず帰る」という誓いが、やがて世界へとつながっていく――。
夜の公園は、ひっそりと静まり返っていた。
昼間は子どもたちの声でにぎわう壁打ち場も、今は街灯の淡い光に照らされ、コンクリートの壁だけが無言で立っている。
その前に立つ紗菜は、ラケットを胸に抱きしめたまま、しばらく動けなかった。
(明日、出発なんだ……)
言葉にすれば簡単なのに、その意味は胸の奥でずしりと重みを増している。
やがて、深呼吸をひとつ。
「よしっ」
小さく声を出して、紗菜はポケットからボールを取り出した。
――パァン!
一球目。硬質な音が夜の闇に響く。
跳ね返ってきたボールを捉えて、すぐに二球目。
――パァン! パァン!
乾いた音が規則正しく重なり、誰もいないはずの公園を満たしていく。
そのリズムに合わせるように、心の中に積もっていた思いがほどけていった。
全国大会で掴んだ優勝トロフィー。
エマとの未完の試合。
商店街の拍手と笑顔。
兄のスーツケース、母のお守り。
どれもが鮮やかに蘇り、ラケットを振る腕に力を与えてくれる。
(勝ちたい。負けたくない。でも……)
ボールを追いかけながら、紗菜は胸の奥に浮かんだ本音を見つめた。
(わたし、楽しみたいんだ。あのコートに立てるってこと自体が、夢だったんだから)
汗が額を伝い、頬を滑る。
夜風がそれを冷ますたびに、身体が少しずつ軽くなるような気がした。
休憩の合間にラケットケースを開ける。
母が手縫いしてくれたお守りが、そこにちょこんと顔を覗かせていた。
「……一緒に戦ってね」
小さく呟いてラケットを握り直す。
再び打ち込んだボールが、壁に当たって跳ね返る。
その音は、まるで街そのものが「行ってこい!」と背中を押してくれているみたいだった。
「明日、行ってくるよ」
誰に聞かせるでもなくつぶやいた声は、夜空へ溶けていった。
「必ず強くなって、帰ってくる」
紗菜の目に、決意の光が強く宿っていた。
街灯の下で振り続けるその姿は、小さな影でありながら、未来へ伸びる一本の光のようにまっすぐだった
夜の公園で壁打ちを終え、家へ戻ると、時計の針はすでに十時を回っていた。
リビングの明かりは落ちていて、台所にだけほのかな灯が残っている。
母が片づけの最後の手を動かしていたのだろう。
「おかえり、紗菜。……もう練習は終わり?」
「うん。これで、十分」
短く答える声は疲れていたけれど、不思議と澄んでいた。
二階の自室に入ると、ラケットケースをそっとベッド脇に置く。
そして机の上に広げっぱなしだったノートに目をやる。
それは英語のフレーズを一行ずつ書き込んだ小さなノートだった。
「My name is Sana Miura.」
「Nice to meet you.」
「I will do my best.」
ページをめくるたびに、拙い文字が並ぶ。
今思えばたどたどしい。
でも、その一行一行に、自分が海外へ行くんだという想いを込めてきた。
(……少しは話せるようになったかな)
不安混じりの笑みが漏れる。
けれど、心臓の奥には「言葉が通じなくても気持ちは伝わる」という確信もあった。
ノックの音。
「紗菜、まだ起きてるのか?」
兄の声が廊下越しに届いた。
「うん。でももう寝るよ」
「そうしろ。明日、早いんだからな」
それだけ言って、兄の足音は階段の下へと消えていった。
続いて、母がそっと扉を開ける。
「少しだけ」
そう言って入ってきた母は、ベッドの布団を整えながら微笑んだ。
「明日から大変になるんだから、今夜はゆっくり休みなさい」
「……うん。大丈夫。お守りがあるから」
紗菜は枕元に置いたラケットケースを指さし、笑って見せた。
母はその横顔を見て、ふっと目を細める。
「そうね。あれを持っていけば、どこにいても安心だわ」
布団をかけ直してくれたその手は、少しだけ震えていた。
娘を送り出す母の心の内を、紗菜はあえて聞かなかった。ただ、その温もりを心に刻んだ。
母が部屋を出ていくと、静けさが戻る。
窓の外には夏の星座が瞬いていた。
ベッドに横たわった紗菜は、天井を見つめながら、目を閉じる前に心の中で反芻する。
全国大会の歓声。
嵐に阻まれたエマとの試合。
商店街の人たちの拍手。
兄のスーツケース。
母のお守り。
すべての場面が、一本の糸のように繋がって胸に結びつく。
「次こそ、最後まで……エマとも、世界とも」
心の中で呟いた言葉は、確かな決意に変わっていく。
瞼が重くなり、夢へと沈んでいく刹那。
紗菜は微かに笑みを浮かべた。
(必ず帰ってくる。もっと強くなって、胸を張って……)
その夜、窓の外で光る星々は、遠い異国への道を照らす小さな灯火のように輝き続けていた。
この夜に刻まれた決意は、ただの言葉ではなかった。
壁打ちの音も、家族の温もりも、星空の光も、すべてが彼女に「進め」と囁いているようだった。
遠征の扉を開くその瞬間、紗菜は一人ではなかった。
見送る人々と共に、彼女はすでに「明日」を生き始めていたのだ。
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