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第6話 汗の味はまだ苦い

夢へと続く道は、必ずしも光に満ちてはいない。ときにその入口は、油と汗のにおいが染み込んだ狭い厨房であり、立ちっぱなしでしびれる足の痛みだったりする。

紗菜が踏み出した初めての「労働」という経験。テニスコートでは誰よりも速くボールを追える彼女が、今日は揚げ物の油跳ねにおびえ、レジの小銭を数えることに必死になる。

その姿は、テニスの天才少女の華やかさとはかけ離れて見えるかもしれない。けれど、その一歩こそが夢を現実に引き寄せる始まりになる。彼女が握りしめた小さな封筒は、単なる数枚の紙幣ではなく、未来を変えるための誓いの証だった。

夕暮れの街は、昼間のざわめきをそのまま引きずったように騒がしく、人々の足音と車のクラクションが交じり合っていた。駅前の通りに並ぶ店々は、ネオンや電灯を次々と灯しはじめ、通り全体がにわかに鮮やかな舞台のように輝き出す。


紗菜はその光景の片隅に立ち尽くし、小さな紙片をぎゅっと握りしめていた。


――「アルバイト募集 高校生歓迎 未経験OK」


数日前、勇気を振り絞って駅前の掲示板から剥がした求人票。その紙は、今も汗でしっとりと手のひらに貼りつき、まるで「逃げるな」と言わんばかりに存在を主張していた。


(やっぱり、やめたい……でも――)


喉の奥に心臓がせり上がってくるみたいに鼓動が早まる。学校では禁止されているアルバイト。先生や友達に知られたらどうなるか……考えただけで背筋が凍る。

だけど、目の前にある“扉”を開けなければ、夢に近づくことはできない。


「……ここだ」


かすれた声で呟く。視線の先には、惣菜屋のガラス戸。中からは「ジュワッ」と油が弾ける音と、香ばしい匂いが絶え間なく漏れてくる。空腹を誘う匂いなのに、胃がきゅっと縮まるようで吐き気すら覚える。


覚悟を決めてガラス戸を押すと、温かな光と同時に、

「いらっしゃい!」

弾むような声が飛んできた。


カウンターの奥に立っていたのは、エプロン姿の女性。快活そうな笑顔に、緊張がほんの少しだけ和らぐ。

「あの……今日からアルバイトで……」

声は自分でも驚くほど小さく震えていた。


女性は「ああ、紗菜ちゃんね!」と明るく頷いたが、紗菜はすぐに鞄から紙片を取り出して差し出した。

「こ、これ……掲示板にあった求人票です。私……応募したいです」


震える手で差し出した紙を受け取った女性は、にっこりと笑った。

「うんうん、持ってきてくれたのね。じゃあ早速教えるから、エプロンつけて、手を洗ってきて!」


その瞬間、紗菜の胸の奥で何かがカチリと音を立てた気がした。逃げ場はない――もう、本当にここから始めるしかない。


蛇口をひねると、冷たい水が指先を流れ、汗ばんだ掌を洗い流していく。それでも緊張は収まらず、全身が強張ったままだった。


「これ、揚げたてのコロッケ。トレイに並べてみて!」

「は、はいっ!」


熱気、油の匂い、弾ける音。五感すべてを責め立てるような環境に、思考は白くかすんでいく。トングを握る手はじっとりと濡れて、何度も滑りそうになる。たった数個を並べるだけなのに、まるで試合のマッチポイントを握っているような緊張感だった。


「もっと手早く!そうそう、それくらいの感覚!」

「す、すみません……!」


女性の声は明るいけれど、紗菜の耳には重く響いた。

(テニスなら、どんな相手だって打ち合えるのに……。なんでこんな簡単なことが、こんなに難しいの)


だけど、心の奥にははっきりとある。

――1万5000円。

それだけを思えば、震える手にもう一度力を込められた。



閉店を告げるシャッターの音が、重たくガラガラと鳴り響いた。

厨房の熱気から解放されて、紗菜はやっとの思いで深く息をついた。額には細かい汗がにじみ、制服の襟元に張り付く髪がひやりと冷たかった。


「おつかれさま!」

明るい声で背中を叩かれ、驚いて振り返る。惣菜屋の店主の女性が、にこやかに笑っていた。

「最初なのに、最後までよく頑張ったね。失敗なんて誰にでもあるよ。今日の感じなら、きっとすぐ慣れるから」


紗菜は、はにかむように笑って「……ありがとうございました」と小さく返した。

本当は、立っているのもやっとなくらい足が重い。トングを持つ手の感覚もまだ残っていて、指先がじんじんする。

(こんなに……大変なんだ。たった数時間で、もうクタクタ)


けれど――その疲労感の奥に、ほんの小さな灯のような温かさもあった。

働いて、自分の力で得たお金。夢に近づくために必要な一歩。


レジ横で「これ、今日の分ね」と封筒を受け取ったとき、胸の奥がじんわり熱くなった。中身は数枚の紙幣。コンビニで軽く買い物すればすぐ消えてしまう額かもしれない。けれど紗菜にとっては、これまでに手にしたどんなお金よりも重かった。


店を出ると、夜の街が思った以上に眩しかった。商店街の看板が、まるで彼女をねぎらうかのように次々と灯っている。

焼き鳥の匂い、居酒屋から漏れる笑い声、自転車で帰る学生たちの姿――。

日常のざわめきがあまりにも生々しくて、自分が今しがた新しい世界に足を踏み入れたことを余計に実感させた。


足取りは重い。だが、心は落ち着かず逆に妙に冴えていた。

(あと何回……あと何日働けば……あの体育連盟の大会に出られるんだろう)


頭の中で数字を並べる。封筒の重みを握りしめながら。

だがすぐに、不安が胸を締めつけた。

――学校ではアルバイトは禁止されている。

もし先生に知られたら?クラスメイトに見られたら?

想像しただけで、さっきまで誇らしく思えていた封筒が急に冷たく、危ういものに感じられた。


立ち止まり、街灯の下で封筒を見下ろす。

白い紙袋に透けて見えるお札の影。ほんの少しの金額なのに、これで夢が少し近づいたような気がした。

でも同時に、それは「秘密」を抱える証でもある。


「……でも」

思わず声がこぼれる。

もしもこの手を放してしまったら、二度と夢へ届かないかもしれない。

封筒を胸に押し当てると、まだ鼓動の速さが治まらない自分の心臓の音が重なった。


夜風が頬を撫でた。少し湿気を含んだ風は、汗で冷えた肌にちょっぴり痛い。けれど、その痛みすら「生きている証拠」のように感じられる。


見上げれば、街の明かりを抜けた先に、かすかに瞬く星があった。

遠くて、届かなくて、でも確かにそこにある光。

紗菜の胸の奥にも、同じような小さな光が揺れていた。


「絶対に……行くから」


誰に向けるでもない、小さな誓い。

夜空に溶けたその声は、今はまだ誰にも届かない。

けれど、彼女の未来を確かに照らす小さな炎として、胸の中で消えずに燃え続けていた。

初めてのバイトを終えた紗菜は、心も体も疲れ果てながらも、小さな達成感を胸に抱いた。

封筒の軽さと、そこに込められた重さ。――その両方を感じ取れるようになったとき、彼女は一歩、大人へと近づいたのかもしれない。

次に待っているのは、夢へ向かうために欠かせない「継続」という試練。疲労、秘密を抱える不安、そして時間との戦い。それでも彼女は歩みを止めないだろう。

なぜなら、テニスコートの外でも、紗菜の中に燃える炎は消えることなく、確かに灯り続けているのだから。


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