第49話 名簿に刻まれた名前
推薦の知らせを受け取った翌日。
紗菜の手に届いたのは、全国大会の「参加予定選手リスト」。
そこに自分の名があった――そして、見慣れぬ外国の名前。
教室のざわめきも、昼休みの笑い声も、すべてが遠く響く。
新しい舞台は、もう始まっていた。
朝の風は少し冷たくて、制服の袖口から指先へすうっと入り込んでくる。
自転車を押して交差点の白線の手前で止まったとき、ポケットのスマホが小さく震えた。
(また協会から……?)
信号が赤のうちに画面を開く。件名は短い英語と日本語が並んでいて――
《参加予定選手リスト 更新のお知らせ》。
胸の奥で、昨日の「全国推薦」の熱がふっと再燃する。リンクをタップ。ページが読み込まれる時間が、やけに長く感じた。
名簿が現れる。
苗字が整然と並んでいる。漢字、カタカナ、ひらがな。
指先でそっとスクロールしていくと――
「……あった」
三浦紗菜。
自分の名前が黒い活字になって、そこにいた。思わず息を飲んで、画面を少しだけ胸に引き寄せる。
信号が青に変わる。慌ててスマホをしまい、ペダルを踏み出した。心臓はまだ少し早い。
学校に着くと、ざわざわした教室の音がいつもより遠くに聞こえた。
ホームルーム、国語、数学――黒板の文字を目で追いながら、休み時間ごとにさっきのページを思い出す。
(本当に載ってた。ほんとに“全国の”名簿に)
頬がほんのり熱くなるのが自分でも分かる。
二時間目と三時間目の間。廊下の窓辺で、もう一度だけ画面を開く。
今度はゆっくり、最初から。
上から順に、そして、ふいに目が止まった。
〈海外特別招待選手〉
Emma Lawrence
(エマ・ローレンス)
その行だけ、周りより少し明るく見えた。国籍欄には「英国」。
活字の並びがふわりと立体になって、胸の奥にぽとりと落ちる。
(海外の選手……この大会、海外からも招待するんだ…。)
教室へ戻る途中、ガラス窓に映った自分の顔が少し引き締まっている。席に着いてノートを開き、ページの端に小さく「E」とだけ書いてみて、すぐに消しゴムでそっと消した。
(まだ知らない。どんなプレーをするんだろう。背が高いのかな、サーブが速いのかな。ラリーは……)
前の列から友達が振り向く。
「ねえねえ、ネットでさ、県大会のことまとめられてたよ。写真、すごかった」
「え、そうなの?」
笑って返しつつも、心の中のページはさっきの名簿に開きっぱなしだ。指先は、白いグリップの感触を思い出して少し汗ばむ。
昼休み。窓際の席にひとりで座りなおして、弁当箱のふたを開ける。
卵焼きの甘さが、さっきまでの高鳴りを少し落ち着かせる。
ゆっくり噛みながら、もう一度だけ名簿を確かめた。
三浦紗菜。Emma Lawrence。
二つの行のあいだに、いくつもの名前がある。その距離は遠い。
(でも――コートに立てば、距離は一本で縮まる。サーブ一本、リターン一本。そうやって、会いに行ける)
午後のチャイムが鳴る。
スマホをしまい、ノートを開く。キリッと芯を立てたシャープペンで、今日の授業の見出しを書いた。
背すじを伸ばすと、胸の奥の波がすっと静かになる。
(浮かれない。わたしは“いつも通り”を、少しずつ広くする)
先生の説明が新しく耳に入ってきた。
窓の外、校庭の白線が陽にきらりと光る。
エマ・ローレンスの名前が気になる。ただ、知りたいと思う。
どんな球なのか。どんな足音なのか。どんな呼吸で、どんなタイミングで打つのか。
ページの端に、小さく一行だけ書いた。
《全国リスト確認 — 走る・打つ・寝る》
(まずは今日をきちんと終える。まずはそこから。)
夕方のチャイムが校舎に吸い込まれていく。
放課後の風は少しぬるく、校門を出たところで紗菜はもう一度だけスマホを開いた。名簿のページ。指でスクロールして、自分の名前のすぐ下へ、そして上へ。黒い活字は、午前中と同じ位置に凛としている。
(三浦紗菜。――それから、エマ・ローレンス)
胸の奥で、昼間の高鳴りが静かな熱に変わった。
家に着くと、ちゃぶ台には湯気が立っていた。
「ただいま」
「おかえり」
兄は作業着の袖をまくったまま座っていて、母は味噌汁の椀を並べている。紗菜は鞄からスマホを出し、画面を二人に向けた。
「今日ね、全国の“参加予定”が更新されてて……ここ。載ってた」
「……ほんとだ。三浦紗菜」
兄の声が、いつもより半音低く、嬉しそうに弾む。スクロールした指がふと止まる。
「〈海外特別招待選手〉エマ・ローレンス。英国」
「うん。外国の選手も来るみたい」
紗菜は小さく息を吸って、言葉を選ぶみたいに口を開いた。
「海外特別招待選手ってなんだろう?」
「ああ…テニス普及のために海外から有名選手を招待するんだよ。優勝者とのデモンストレーションてもするんじゃないか?」
「この人と――できれば、コートで会ってみたい」
母は湯飲みを置いて、にこりと笑う。
「遠くから来る人もいるのね。体調、ちゃんと整えないとね」
「うん。寝るのも練習に入れておく」
「いい心がけだ」
兄は画面から目を離し、紗菜の額のあたりを軽く指でつつく。
「名前に飲まれるなよ。最初の一本はどんな相手でも同じだ」
「うん。サーブ一本、リターン一本。そこから」
食事を終えると、紗菜は自室でノートを開いた。新しいページの見出しに《全国:リスト確認》と書き、下に小さく三つの欄を作る。
《準備》
・走る
・フットワーク
・トス練習
《道具》
・グリップ:白・厚め、予備×2
・ケースのベルト交換(今週末)
《メンタル向上》
・呼吸
・視線
ペン先が止まる。紙の白さが、コートのラインみたいにすっと伸びて見えた。
(想像はする、でも決めつけない。背が高いかもしれないし、小柄かもしれない。スピンが強いかもしれないし、タイミングが早いかもしれない。――どれでも対応できる準備をしておく)
窓の外は群青。靴ひもを結び直し、軽く外へ出る。
住宅街をゆっくり走る。会話できるくらいのペース。角を曲がるたびに、足首から膝、腰へ順に力が通る感覚を確かめる。信号待ちでは、さっき名簿を開いた白線の上でスプリットの姿勢を一瞬だけ作り、左右に小さく弾む。
(一本目のリターンは、腰を落として前へ。読みすぎない。肩は力まない。目はボール――)
帰宅してシャワーを浴びると、頬に残る熱が心地よい疲れに変わった。髪を拭きながら、ラケットを二本ケースから出して布で磨く。フレームの光沢に、決勝の日の白線が一瞬だけ映る。
机に戻り、ノートを読み返す。その時、スマホが小さく震えた。協会からの“更新完了”の自動通知。リンクを開きかけて、紗菜は親指を止める。
(今は、いいや。見るのはいつでもできる。やることを先に)
画面を伏せ、明日のミニメニューをメモする。
居間に戻ると、兄が水を飲みながら言った。
「週末、店に寄るんだろ? 張りは二本で回すのがいい。一本で試合中に不安になるのが一番もったいない」
「うん。店長さん、最終調整の時間を取ってくれてるって」
「予備のラケット用意してくれるとか、頼もしいな」
その“頼もしさ”が自分の中にも少し宿っている気がして、紗菜は頷いた。
夜更け。布団に横になると、呼吸をゆっくり数える。三拍吸って、三拍止めて、四拍吐く。
胸の鼓動が静かに整い、体の奥に小さな炎が残る。
その炎は、誰の名前にも左右されない、自分のリズムの色をしていた。
三浦紗菜と、Emma Lawrence。
二つの名前のあいだに横たわるのは、まだ知らない距離。
けれど、一本のサーブと一本のリターンで、その距離は確かに縮まる。
家族の励まし、店長の支え、ノートに記した小さな計画。
その積み重ねが、見えない相手に届く日を待っている。
次に白線を踏むとき、紗菜はもう迷わない。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
楽しめていただけましたか?
ぜひ下の評価お願いします!!
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
まとめサイトはこちら!
https://lit.link/yoyo_hpcom
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆




