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ラインスナイプ! 世界を驚かせた高校生テニス少女の物語  作者: ヨーヨー
第二章 体育連盟テニス大会編

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第40話 胸に芽生えた二文字

勝利の喜びも、家族を支える責任も、すべてを抱えたまま迎えた新しい朝。

白いグリップを握りしめながら紗菜は、今までにない確かな感触を得ていた。

その一球、その一歩の先に、思いがけない“二文字”が心に浮かんでいく――。

夜明け前、窓の外がほんのり明るくなりはじめていた。昨夜の雨はすっかり止み、空気にだけ冷たい湿り気が残っている。

布団をそっと抜け出すと、家の中はまだ静まり返っていた。寝室の奥から、母の寝息が規則正しく聞こえる。(……薬、効いたかな?)そう心の中で呟きながら、胸が少しあたたかくなる。


玄関で靴ひもを結び、ラケットケースのファスナーを確かめる。

白いオーバーグリップの感触を思い出しただけで、右手の手の平がうずうずした。(最初の一球、焦らない。ちゃんと準備してから)


人気のない道を歩くと、濡れたアスファルトが街灯の残り光をかすかに映していた。

公園の柵を押し開けると、湿った土の匂いが鼻を抜け、早朝ならではの澄んだ静けさが広がる。壁打ちのコンクリートは薄く湿っていたが、打つのに問題はなさそうだ。

まずはストレッチ。ふくらはぎ、腿裏、肩、腕――一つひとつ動かして呼吸を整える。


ラケットを取り出す。白いグリップが朝の光を受けて小さく光り、手に吸い付くように馴染んだ。

その感触に、身体の芯がすっと一本通るような安心感を覚える。(これが、わたしの“中心”だ)軽く素振りを二度。風を切る音が前よりまっすぐ伸びる。


足元でボールを弾ませ、壁のすぐ近くからゆっくり打ち始める。

ポン、トン、ポン、トン――短い距離でリズムを作ることで、身体の動きを目覚めさせていく。(急がない。音を揃える)感覚が馴染んできたところで、少しずつ壁から下がり、打点を調整する。


壁から返る球が以前より素直に戻ってきて、ラケットの芯に自然と収まった。

余計な力を足さなくても、球は伸びていく。

(あ、これ……)肩の力が抜けているのに、面が安定している。新しい相棒が教えてくれる“無理のない強さ”。


今度は角度をつけたボールを壁に打ち込み、次は深く押し込む。


コンクリートにできる白い跡の並びが、意識した通りに揃っていくのを見て、小さな達成感が胸に広がる。(ちゃんと応えてくれる。わたしの合図に)


一息つき、フェンス際まで下がってフットワークの練習へ。サイドステップ、クロスステップ、また戻る。足裏がリズムよく地面を打つ音と、壁に響く打球音が重なって心地よいテンポになる。


「……よし」思わず声が漏れた。白いグリップの巻き終わりに親指を触れる。汗で滑らず、しっかり落ち着いている。


再び壁に向き直り、今度は速いサーブを想像してリターンの動きを試す。反応だけで面を出す。出しすぎない、読みすぎない。

“準備”を胸に置いて、一歩前に踏み込む。ボールを打ち返した瞬間、芯から澄んだ音が響いた。


少し離れてベンチに腰を下ろす。視線の先、公園の外の通りには通勤の人や自転車がちらほら見え始めていた。

もうすぐ自分も学校に向かわなければならない。けれど今だけは、壁打ちの余韻に浸りたかった。



(次の大会、そのまた先……もっと広い舞台で打ってみたい)

思い浮かぶ光景はまだ輪郭が曖昧だ。けれど、かすかな観客のざわめきや、広いコートの色が頭の奥でちらりと光った。


(遠いと思ってた。でも、手の中のこの一本があれば……)

胸の内側に小さなスペースができ、その場所に二文字が浮かんで消えた。



――「世界」。



まだ兄以外、誰にも言えない秘密の言葉が、そっと心に宿り始めていた。



ベンチに腰を下ろすと、朝の冷たい木の感触が短パン越しに伝わった。タオルで首筋を拭き、水をひと口。喉を通る冷たさが、さっきまでの打球音といっしょに身体の奥へ沈んでいく。

(……悪くない。昨日までとは、違う)

ラケットのフレームを膝に横たえ、白いグリップを親指でなぞる。手の温度がゆっくり移っていって、巻き終わりの段差が小さな安心をくれた。


膝の上のラケットを持ち上げ、面を空へかざす。薄い雲に遮られた朝の光が、ガットの交点に細かな影を落とした。(この一本で、どこまで行けるんだろう)頭の中に、見たことのない観客席の広がりがふっと浮かぶ。

ざわめき、風の匂い――昨日まではテレビの向こうの出来事だった風景が、少しだけ近く感じられた。


けれど紗菜は首を振る。

(順番。まずは次の大会。そしてまたその次。ひとつずつ、目の前を勝つ)

家族のことも思い出す。兄の顔、母の笑顔。勝つことがそのまま“支え”になる。

だからこそ、遠い舞台を夢見ても、足を運ぶのは目の前の一歩からだ。


ケースにラケットをしまい、公園を後にする。家に戻ると、台所からヤカンの沸く音がした。母は湯気の立つマグカップを手にしていて、こちらを見て微笑む。

「おはよう、紗菜」

「おはよう。体調、どう?」

「だいぶ楽よ」

「よかった」


パンをトーストして、卵を焼いて、簡単な朝食を並べる。母と二人で机につき、言葉は少なくても食卓は温かかった。母の笑顔を横目に見ながら、紗菜は胸の奥でそっと呟く。(もっと強くなって、この笑顔を守るんだ)


食器を片づけ、玄関で靴を履く。廊下の突き当たりに置かれたラケットケースが目に入る。白いグリップの端が少しだけのぞいている。

指先でそっと触れ、ドアノブに手をかけた。

(まだ言わない。胸の中だけでいい)


学校への道は、いつもと同じ朝の音で満ちていた。犬の散歩、パン屋から漂うバターの匂い、遠くで鳴る踏切の音。けれど足取りは昨日より軽い。


校門をくぐると、クラスメイトの声が飛んできた。

「おはよ、紗菜!」

「おはよう!」と笑って手を振り返す。その声が思ったより大きく響いて、自分でも少し照れた。


席につくと、窓の外で雲がゆっくり形を変えていた。手のひらの中には、さっきまでの白い感触が残っている気がする。

(……“世界”)

言葉はまだ声にならない。ただ、胸の奥で確かに灯っている。


チャイムが鳴った。先生の声、ページをめくる音、ペン先の走る気配。いつもと同じ教室の音が広がる中、紗菜はノートの端に小さな点をひとつだけ記した。意味は誰にも分からない、わたしだけの合図。

(ここから)


視線を黒板に向ける。今日も変わらず黒い板。でも、心の奥でははっきりとした光が揺らめいている。白いグリップのぬくもりと重なりながら――。

――“世界”。

その二文字が、静かに、はっきりと心に宿っていた。

これまでの紗菜にとって、テニスは家族を守るための手段であり、日常を支える力だった。

しかしその奥に、もうひとつの光が灯る。

「世界」――まだ声にするには早い、誰にも打ち明けない秘密の言葉。

けれど、その言葉があるだけで、彼女の足取りは昨日よりもずっと軽くなっていた。


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