第4話 眠れぬ夜のささやき
家族を支える兄と母。その優しさを知っているからこそ、紗菜は自分の心に芽生えた想いを言えずにいます。
それはまだ「夢」という言葉にすらできない小さな火。けれど、その炎は、確かに紗菜の中で燃え広がりつつありました。
今夜の物語は、そんな彼女の胸に秘められた感情と、眠れぬ夜に揺れる心の描写です。
夕暮れの校舎を後にして歩いた道を抜け、自宅の小さな玄関にたどり着いたころには、空はすっかり群青に染まっていた。
商店街の明かりが遠くにぼんやりと光り、軒先で揺れる提灯の赤が、風に合わせてちらちらと瞬いている。
紗菜は「ただいま」と小さく声をかけ、玄関の戸を引いた。
ギギ……と古びた蝶番が響く。その音は、彼女にとって日常の一部でありながら、どこか「狭さ」や「古さ」を意識させるものでもあった。
足を踏み入れた瞬間、湯気混じりの味噌汁の匂いが鼻をくすぐる。煮干しと昆布の出汁に、ほんの少しネギの香りが混じる――それは毎日のように繰り返される、飾り気のない食卓の合図だった。
「おかえり、紗菜」
台所から母の声がする。
振り向くと、古びた蛍光灯の下、エプロンをつけた母が包丁を握っていた。
トントン……とまな板を叩く軽快な音。しかし、母の背中はどこか細く、少し丸まっていて、疲れを隠しきれていない。
日中はパートに出て、夕方からは家事に追われる。毎日そんな繰り返しだ。
その背中を見ていると、胸の奥にきゅうっと重たいものが広がっていく。
「ただいま」
紗菜は靴を脱ぎ、鞄をそっと置く。
居間のちゃぶ台には、夕食が整えられつつあった。
湯気を立てる味噌汁、切り干し大根の煮物、冷ややっこ、そして漬物が小皿に並んでいる。
質素ではあるけれど、彩りよく工夫されていて、どれも母の気持ちが込められているのが分かる。
「今日はね、スーパーで大根が安かったから」
母は笑顔を見せながら言った。
その笑みは、娘を安心させたいがためのものだった。
だが、頬のやつれ具合や指先のあかぎれが、隠しきれない現実を語っている。
紗菜はちゃぶ台の前に座り、箸を手に取った。
けれど、ご飯茶碗を前にしても、視線は自然と母の横顔へと流れていく。
働きづめの母の姿。あれが、この家の「現実」。
それを直視するたびに、胸の中で膨らむのは、言葉にできないほどの切なさだった。
(……もう少し余裕があったらなあ)
心の奥でそう呟いた瞬間、掲示板に貼られていた体育連盟テニス大会のポスターが鮮明によみがえった。
オレンジ色の文字、ラケットを振り抜く影。
「出場者募集中!」という大きな文字は、まるで今も瞼の裏に焼き付いているようだった。
けれど――。
参加費は15000円。
家計のやり繰りを知っている紗菜にとって、それは「不可能」を意味する数字にほかならなかった。
「紗菜、冷めないうちに食べなさい」
母の優しい声に、紗菜は慌てて「うん」と返事をした。
湯気の立つご飯を口に運ぶと、米の甘さが広がる。
それは決して贅沢な食事ではない。けれど、母が必死に支えてくれている重みがそこにあった。
噛むたびに、胸の奥で「この状況で参加費なんて……」という思いがこだまする。
一方で、心のどこかで「挑戦したい」という声も小さく響き続けていた。
矛盾する二つの思いが、同じ胸の中で押し合いへし合いしている。
息苦しさに似た熱を抱えながら、紗菜は茶碗を見つめていた。
(夢なんて……贅沢なのかな)
ほんの少し俯きながら、紗菜は黙々と箸を動かし続けた。
部屋の空気は穏やかで、時計の秒針だけが静かに時を刻んでいた。
けれど、その静けさの奥で、紗菜の心には確かに、抑えきれないざわめきが生まれ始めていた。
夕食が終わると、母が台所で洗い物を始めた。
ちゃぶ台の上には湯気の消えた味噌汁椀と、ほのかに香る煮物の残り。
どこか物足りないけれど、どこか温かい、そんな匂いが部屋に漂っている。
紗菜は膝を抱え、食器を片づける母の背を見つめていた。
「ごちそうさま」と口にしたのに、胸の奥には満たされない何かが残っている。
それは空腹とは違う、もっと言葉にしづらい感覚だった。
ちゃぶ台の端には、一枚の紙切れがうつむくように伏せられている。
見ようとしなくても、視線が吸い寄せられる。
薄い紙の向こうからでも、そこに刻まれた赤い文字がじわりと浮かんでくるようだった。
その時――
「ただいま」
玄関の戸が開く音と共に、兄の声が響いた。
廊下から近づいてくる足音は重く、そしてどこかゆっくりだった。
ふすまが開いた瞬間、作業着姿の兄・翔太が現れる。
肩には煤のような汚れがつき、額には仕事帰りの汗がまだ光っている。
二十歳という年齢よりもずっと年上に見えた。
「おかえり」
紗菜が声をかけると、兄は苦笑を浮かべてちゃぶ台に腰を下ろした。
「遅かったね」
「うん。人手足りなくてさ。今日も残業」
そう言って、ポケットから財布を取り出すと、ポンと机に置いた。
小銭が触れ合って鳴る軽い音。
それは日常の一コマにすぎないのに、紗菜にはずしりと響いた。
(この音一つひとつが、家を支えてるんだ……)
兄は本当なら大学へ進みたかったはずだ。
けれど、自分の学費を工面するために、進学をあきらめ、働く道を選んだ。
そうして母とともに、この家を守っている。
「どうした? 元気ないな」
麦茶を一息に飲み干した兄が、穏やかな声で問いかける。
「……大丈夫。ちょっと疲れただけ」
笑顔を作って答えたけれど、その声は少し震えていた。
視線の端で、伏せたチラシの白い角がちらつく。
赤い数字――1万5000円。
大会の参加費。
その額が、頭の中で石のように沈み込む。
「ふうん。あんま無理すんなよ」
兄はそれ以上は聞かず、空になったグラスをくるくる回した。
その無関心のようで優しい態度が、逆に紗菜の胸を締め付ける。
(言えない……言えるわけないよ)
これ以上家に負担をかけられない。
夢を追うためにお金が必要だなんて、口にした瞬間にわがままになってしまう気がした。
その夜、布団に横たわっても眠りは遠かった。
天井を見上げて目を閉じれば、思い浮かぶのは学校の掲示板に貼られていたあの紙。
赤い文字が夕暮れの光に照らされ、強烈に焼きついている。
紙のざらついた質感、ホチキスで留められた金属の光沢。
細部までもが妙に鮮やかに蘇る。
(どうしても気になる……)
忘れようとすればするほど、胸の奥で炎が大きくなる。
布団の中で両手をぎゅっと握りしめると、脈打つ鼓動が手のひらに伝わってきた。
心臓が走っているみたいに速く跳ねている。
(こんなの、ただの紙きれのはずなのに……)
喉が渇き、浅い呼吸が続く。
隣の部屋からは母の寝息が聞こえ、兄のいびきもかすかに混じる。
二人とも明日のために眠っているのに、自分だけが暗闇の中で身を焦がしている。
――言えない。けれど、もう戻れない。
夢という言葉をまだ口にできなくても、その存在は確かに胸の奥で火を灯していた。
それは誰にも知られてはいけない秘密。
けれど燃え上がるほど、紗菜を突き動かしていく。
暗闇の中で涙が滲んだ。
悔しいわけじゃない。悲しいわけでもない。
ただ、自分の中にある何かが、確かに叫んでいるのだ。
(私は――もっと強くなりたい)
そう心でつぶやいた瞬間、眠れぬ夜はますます深くなっていった。
誰かに支えられているからこそ、言い出せない想いがある。
それでも心の奥に芽生えた情熱は、決して消えることはありません。
紗菜にとって「まだ言葉にならない夢」が生まれた瞬間――それが今夜の物語でした。
この小さな灯火が、やがて彼女を大きな舞台へと導いていくでしょう。
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