第39話 夜道の誓い
雨上がりの静かな夜道。
紗菜は新しい相棒を胸に抱えながら、兄と並んで歩き出す。
家族のために働く兄、夢を追う自分。交わす言葉の一つひとつが、互いの心を照らし合うようだった。
夜の雨はほとんど上がっていて、路地の水たまりが街灯を細長く映していた。玄関の鍵が回る音がして、「ただいま」と低い声。エプロンを外していた紗菜はすぐに顔を上げた。
「おかえり、お兄ちゃん。濡れなかった?」
「ギリギリセーフ。……母さんは?」
「さっき薬飲んで、もう横になってる。咳、少し減ったよ」
「そうか。助かった。ありがとな」
ネクタイを緩めた兄の視線が、居間の隅に立てかけたラケットケースに止まった。口元に小さな笑みを浮かべて、顎で外を指す。
「ちょっと歩くか。握りだけでも見せてくれ」
「うん、行きたい。少しだけね」
玄関を静かに閉め、二人で路地へ出る。湿った空気が頬をかすめ、遠くで電車の音が響いていた。
傘は腕に下げたまま、並んで歩くと、兄の歩幅に合わせて自分の歩調も自然に落ち着く。
「仕事、棚卸し大変だった?」
「まぁな。数字と格闘してきた。……お前は、相棒と格闘してたか?」
「ふふ。グリップ、白にした。手元が見やすくて落ち着くんだ」
「白は汚れやすいぞ。休みの日に巻き替え手伝う。予備も買ったか?」
「薄いピンク、一本だけ。気分変えたい時に巻く」
「いいじゃん。ちゃんと理由つけて選んでる」
角の自販機の前で、兄が小銭を入れた。出てきたのは温かいココアとコーンスープ。ココアを渡されて、紗菜はプルタブを開ける。
「賞金結構使ってるみたいだけど、無茶してないか?」
「してない。交通費、ガット、予備……それから“家のこと”。今日、初めて書き込んだ」
「見た。メッセージありがとう。母さん、嬉しそうだった」
「うん。薬剤師さんに相談して、お母さんに合ってる薬を選んだよ。お金も、ちゃんと計画の範囲で」
「よし」短くそう言った。その横顔は少し疲れているのに、目の奥は軽やかだ。紗菜はケースからラケットを取り出し、白いオーバーグリップを握り直す。夜道で振らない約束だから、ただ“持つ”だけ。
「肩、力入ってないか?」
「入ってない。ここに一本、まっすぐ通ってる感じ」
「いい顔だ。……あの準々決勝でガットが切れた時の顔とは違うな」
「うん。怖さはもうない。次は、もっと準備しておく」
商店街を抜けると、公園が広がっていた。金網の向こう、昼間は子どもたちの声が響く壁打ちスペースが、今は静かに濡れている。フェンスに手を添え、紗菜は小さく息を吐いた。
「ここ、寒い朝に何回か見に来たな」
「えーっ、見てたの?」
「たまに。通る時な。壁にぶつかる音が、いいリズムだった」
「やだ、見てるなら声かけてよ」
「かけたら気が緩むだろ。お前、目が“戦ってる時”の目してた」
二人でベンチに腰掛ける。湿った木の匂い。街灯の光が、白いグリップに小さく跳ねた。兄はそれを一瞥してから、夜空を見上げる。
「学校、騒がしかったんじゃないか」
「うん。嬉しいのと、ちょっと居心地悪いのと、両方。テニス部の子たちもいろいろ……でも、大丈夫。勝ち続ければ、ちゃんと分かってもらえるって思えた」
「そうだな。言い訳より、結果が早い」
彼は飲みかけていた缶を置いて両手を擦り合わせる。節の硬さが、街灯に浮かぶ。その手を横目に見ながら、紗菜は胸の奥がじんわり温かくなる。大学を諦めて働いてくれている事実は、言葉にせずとも伝わってきた。
「無理すんなよ。バイトも学校もテニスも、全部やろうとすると崩れる。優先順位、間違えるな」
「分かってる。だから“準備”って言葉を、最近は一番大事にしてる。勢いじゃなくて、確信で選ぶってやつ」
「いいな、それ。……あと…」
「ん?」
「嬉しい時はちゃんと喜べ。今日みたいに誰かのために動いた時は、胸張れ。そういう顔の方が、勝つ顔だ」
頬の筋肉が自然に上がっているのが自分でも分かった。呼吸が軽い。紗菜は「うん」と短く答える。遠くで電車の音が走り、夜風が髪の端を揺らした。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「ん」
「この相棒で、もっと遠くまで行けるかな」
「行ける。行けるようにする。――そのために、俺も頑張るかな」
わざとらしく咳払いをして、「語りすぎると寒くなる」と兄が立ち上がる。紗菜も笑ってラケットをケースに戻した。金具がカチリと噛み合う音が、夜に澄んで響いた。
「帰ろう。母さん寝てると思うから起こさないようにな」
「うん。……ありがとう、お兄ちゃん」
並んで歩き出す。水たまりに映る二人分の影が重なり合って、街灯の先へ伸びていく。その先にまだ見ぬ明かりがあるような気がして、紗菜はそっと指先を握った。白いグリップの感触が、手のひらにしっかり馴染んでいた。
夜道を歩きながら、紗菜は隣にいる兄の横顔をちらりと見上げた。街灯に照らされた輪郭は、昼間の仕事で疲れているはずなのに、どこか安心できる穏やかさをまとっている。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「ん?」
「お兄ちゃんはさ……本当は、大学に行きたかったんでしょ?」
思わず口に出た言葉に、自分でも少し驚いた。けれど、ずっと心の奥に引っかかっていたことだった。
兄は一瞬だけ目を伏せ、そしてゆっくり笑った。
「まぁ、そりゃな。やりたいことはあった。でも……今は別に後悔してないよ。俺が働いたから、お前はちゃんと学校に行けてる。それで十分」
「……でも」
「だから、気にすんな。お前が頑張ってるの見るの、俺は好きなんだ」
その言葉があまりにまっすぐで、胸がきゅっと締めつけられる。紗菜は足元の水たまりを避けながら、唇を噛んだ。
「わたし、もっと強くなるから。お兄ちゃんに心配かけないくらい。……世界だって、いつか見せる」
「はは、頼もしいな。世界か。お前なら行けるよ」
兄の声は冗談めいていたけれど、目は真剣で、嘘の色は一つもなかった。
しばらく二人は無言で歩いた。遠くから車のライトが近づき、また離れていく。その静けさの中で、紗菜は自分の胸の奥に熱が灯っているのを感じた。
「なぁ、紗菜」
「なに?」
「俺が言いたいのは一つだけ。……お前は、もう十分頑張ってる。だから無理はするな。倒れたら元も子もないから」
「……うん」
言葉は短いけれど、心にまっすぐ刺さった。兄の歩幅に合わせて歩くうちに、重たいものが少しずつ軽くなる。
家に戻ると、玄関の電気だけが点いていた。母はちゃんと寝室に入っているらしい。二人で声を潜めて靴を脱ぎ、廊下をそっと進む。居間に入る前に、兄が小さく囁いた。
「おかえり、紗菜」
「……ただいま」
普段なら交わさない言葉に、胸があたたかくなる。きっと今日だけの特別。けれど、その一言は、新しい相棒を手に入れた時と同じくらい、これからの自分を支えるものになりそうだった。
自室に入ってラケットケースをベッドの横に置く。白いグリップが月明かりにかすかに光っていた。指先でそっと撫でながら、紗菜は小さく呟いた。
「……絶対に、世界に行くから」
その声は、眠っている母にも、隣の部屋にいる兄にも届かない。けれど、自分自身には確かに響いていた。
「おかえり」「ただいま」――いつもなら交わさない言葉が、今夜だけは胸に深く響いた。
兄の優しさと支えを受け止めた紗菜は、決して一人ではないと実感する。
並んだ影の先に広がるのは、まだ見ぬ世界。
歩幅を合わせて、彼女の挑戦は続いていく。
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