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ラインスナイプ! 世界を驚かせた高校生テニス少女の物語  作者: ヨーヨー
第二章 体育連盟テニス大会編

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第38話 優しさを形に

優勝して得た賞金は、ただの数字じゃなかった。

紗菜にとって、それは「家族のためにできること」を初めて可能にしてくれる力。

母の咳を聞いた瞬間、彼女の中で決意は自然に芽生えた――。


朝の光が薄く差し込む台所で、湯気の向こうから小さな咳の音がした。


「……ゴホ、ゴホッ」

振り返った母は、すぐに笑ってみせる。鍋の蓋を少しずらしながら、何でもないという顔だ。


「大丈夫よ。季節の変わり目ってだけ」

その言い方も笑い方も、いつもと同じ。――でも、同じじゃない。目の下の薄い影と、声の端に混ざるかすれが、ほんの少しだけ増えている。


テーブルの上には、昨夜兄が買ってきてくれた食パンと、安売りのジャム。


「母さん、無理すんなよ。そうそう、今日の午後は雨っぽいって」

スーツの袖口を整えながら、兄が何気なく言う。


「平気平気。立ち仕事だけど、ちゃんとカウンターの角のところで休むから」

母はそう言って、マグカップを両手で包み込んだ。湯気が頬を撫でていく。その仕草は柔らかいのに、指先の骨ばった感じが前より少し目立って見える。


(やっぱり、しんどそう)


紗菜はコップの水を一口飲んで、喉の奥にひんやりした感触を落とした。視線は自然と、冷蔵庫の横にある小さな棚へ向かう。家の常備薬が入っている場所。引き出しをそっと開けると、使いかけの鎮咳シロップの瓶と、期限の切れかけたのど飴だけが残っていた。

(前に風邪ひいたとき、ほとんど使っちゃったんだっけ……)


「紗菜、パン焼く?」

「うん……自分でやるよ」

トースターのレバーを下ろす間、心臓が小さくどくん、と跳ねた。頭の中に、あの白い封筒が浮かぶ。机の引き出しの、一番手前。二十万円――自分の力で勝って、手に入れたお金。

ラケットを買ったときにきちんとメモで仕分けをした。「エントリー代」「交通費」「ガット」「予備」。そして、空欄のまま残した一行――「家のこと」。

(あそこに“薬”って書けばいい。必要なぶんだけ。無理はしない。でも、できることはある)


「お兄ちゃん、今日遅くなる?」

「うん、棚卸し手伝ってくれって。帰りは九時過ぎるかも」

「そっか……気をつけてね」

「おう。紗菜も、無理すんな。新しい相棒は今夜見せてもらうからな」

「ふふ。うん」


“相棒”という言葉に、胸の奥がふわっと温かくなる。昨日、ケースから取り出して素振りをしたとき、白いオーバーグリップが手のひらに吸い付いた感触――あの心地よさは、今日になっても鮮やかだ。

(あの一本で、また勝つ。そのためにも、家のことをちゃんと整えたい)


「行ってきます」

鞄を肩にかけると、母が台所から顔を出した。

「気をつけてね。雨、降るかもしれないから」

「うん。……あの、帰りに薬局寄ってくるね」

自分でも驚くほど自然に言葉が出た。

母は一瞬だけ目を丸くして、すぐに微笑む。

「ありがと。でも大丈夫よ、ほんとに。ちょっと乾燥してるだけだから」

「分かってる。ただ、のど飴切れそうだったから」

そう言うと、母は「そうだったわね」と肩の力を抜いた。否定しすぎないやり取り――この家の、さりげないルール。


校門までの道で、空の色が一段と薄くなる。風の匂いに、ほんの少し湿り気。商店街の角を曲がると、いつもの薬局の赤い看板が視界に入った。自動ドアが開く気配を想像するだけで、胸の奥の緊張がほどけていく感じがする。

(のどに優しいやつ。咳が楽になるやつ。……それから、寝る前に温まるやつ)

頭の中で、棚の並びを勝手に思い描く。シロップ、トローチ、漢方、ハーブティー。

(でも、自己判断でばかりはだめ。ちゃんと薬剤師さんに相談しよう)

思考が、自然と未来形に変わっている。今までは「買えない理由」を探して、足が止まっていたのに、今日は「どう買うか」を考えている。


教室に着くと、まだ朝のざわめき。新聞の話題はひと段落して、今日は天気の話が多い。席に着く前に、紗菜は鞄の内ポケットから小さなポーチを取り出した。封筒の端を確かめ、必要な額を頭の中でざっくり計算する。

(シロップ一本、トローチ一箱、ハーブティー……それと、ビタミン剤。全部は無理でも、優先順位をつければいける)

ラケットを買ったときと同じ。“勢い”じゃなく“確信”で選ぶ。数字に強いわけじゃないけれど、今は不思議と怖くない。だって、これは“必要”だから。


一限目が始まる直前、隣の席の子が小声でささやく。

「なんか……最近、表情ちょっと変わったよね。すごく元気そう」

「えっ……そうかな」

紗菜は思わず頬をかいたけれど、胸の奥でふっと笑みが広がる。

(……きっと、“相棒”のおかげだ)


授業が三つ終わって昼休み。窓の外は予報どおりの曇り空。遠くのグラウンドに、ぽつり、ぽつりと濃い色が広がっていく。

(帰り、やっぱり降るかもしれないな)

傘は持ってきた。薬局の袋を濡らさないように、鞄の中で場所を空けておく。

お弁当のふたを開けると、昨夜の残りの鶏そぼろがきれいに詰められていた。母の味――優しい、けれどしっかり力になる味。

(次は、わたしの番だ)

スプーンでそっとひと口すくって、胸の奥に置くみたいに飲み込む。あたたかさが広がる。喉を通るたび、母の咳のことが浮かんで、自然とペースがゆっくりになった。


放課後のチャイムまで、時間がゆっくり進む。黒板の文字を写しながら、心のどこかで帰り道の地図をなぞっていた。商店街に出て、横断歩道を一本渡って、角の薬局。店内の右手がのどの薬、その奥にハーブの棚――。

(相談して、選んで、買って、まっすぐ帰る)

頭の中の一行が、はっきりとした。

封筒の一行――「家のこと」。そこに、やっと文字が入る。


チャイム。雨粒が窓を打ちはじめた。

紗菜は鞄を肩にかけ、立ち上がる。

(行こう。ちゃんと準備して、ちゃんと帰って、ちゃんと渡す)

新しい相棒の白いグリップが、鞄の向こうで静かに待っている気がした。

強くなるって、コートの上だけの話じゃない。

家の中の、小さな痛みや咳にも、ちゃんと向き合える自分でいたい――そう思いながら、紗菜は校舎を出た。



放課後、昇降口を出ると、細かい雨が空気の粒みたいに漂っていた。傘を開くと、布を叩く音がやわらかく耳に届く。商店街までの道は人通りが少なく、ショーウィンドウの光が濡れたアスファルトに揺れていた。


薬局の自動ドアが開くと、ほのかな消毒薬の匂いと、棚を並べるカラカラという音。入口近くのポスターには「乾燥の季節 のどケアを」と書かれている。店内を見渡してから、紗菜はまっすぐカウンターへ向かった。


「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」 白衣の薬剤師さんが、優しい声で顔を上げる。


「母が少し咳をしていて……熱はなくて、声がかすれてる感じです。のどが乾燥して、夜に少し咳き込むみたいで。強すぎない、のどにやさしいものがあれば……」


「なるほど。でしたら、刺激の少ないタイプのシロップと、のどを潤すトローチが良いかもしれません。就寝前用なら眠気の出ないものを選びましょう。あと、部屋が乾燥していると咳が出やすいので、加湿や温かい飲み物も大事ですね。長引くようなら受診もご検討くださいね」


(うん、やっぱりそうだよね。無理はさせたくないし)


案内された棚で、紗菜はラベルを一つひとつ丁寧に読む。強すぎる言葉が並ぶものは避けて、薬剤師さんが示した“やさしい”と書かれたシロップを手に取った。隣の段から、喉を潤すタイプのトローチを一箱。さらに、ハーブティーの棚で、カモミールとハチミツのブレンドの小箱を一つ。レジへ向かいかけて、思い出したようにマスクの小袋もかごに入れる。


(これだけあれば、今夜は少し楽になるはず)


会計台で小さなポーチを開き、封筒の端を親指で揃える。必要な分だけを数え、残りはしっかり封を戻す。エントリー代、交通費、ガット代――頭の中で、残高の並びを素早く確かめる。無理はしていない。ちゃんと計画の範囲。


「ありがとうございます。用法はここに。シロップは計量カップで測って、就寝前に。トローチはゆっくり溶かして。温かい飲み物も一緒にどうぞ」 「はい。ありがとうございます」


ビニール袋が雨で濡れないよう、鞄の中に新聞紙を一枚敷いてから丁寧に入れる。ドアが開くと、さっきより少し雨脚が強くなっていた。傘の角度を少し変え、歩幅を小さくして家までの道を踏みしめる。


玄関を開けると、台所から湯気とだしの香りが漂ってきた。母が鍋の蓋を持ち上げ、弱火に落とすところだった。 「ただいま」 「おかえり。濡れなかった?」 「大丈夫。ほら、買ってきたよ」


鞄から袋を出すと、母の目が丸くなる。 「え、ちょっと……こんなに。高かったでしょう?」 「大丈夫。必要なぶんだけにしたから。それに、これ――」 紗菜は照れ隠しみたいに笑って、ポーチを軽く振る。 「わたしが勝ってもらったお金で、わたしが選んだの。家のこと、って書いたところの分だよ」


母は一瞬だけ言葉を失い、それから息を小さく吐いて微笑んだ。 「……ありがとう。助かるわ。ほんとに、無理はしないでね」 「うん。まずは今夜、楽に眠れますように作戦」


袋からシロップとトローチ、ハーブティーを出して、キッチンカウンターの手前に並べる。計量カップを洗って水気を拭き、小皿にトローチを三つほど置く。やることをひとつずつ小さく区切ると、不思議と心配が具体的な「手順」になっていく。


「晩ごはん、何作ってるの?」 「野菜たっぷりのスープ。喉にも優しいと思って」 「ナイス。じゃあ、わたしはハチミツのお茶、用意するね」


やかんが小さく歌い始める。マグカップにティーバッグを入れて、湯を注ぐ。ふわっと立ちのぼる甘い香り。ハチミツをスプーン一杯落とすと、琥珀色がやわらかく広がっていく。スープの湯気と混ざって、台所は温室みたいに温かい。


「はい、どうぞ。熱いから気をつけて」 「ありがとう……ふぅ……おいしい」 母がカップを両手で包む。口をつけ、肩の力を少し緩めるのが見えた。


食卓にスープとパンを並べ、三人分の箸を出しかけて手を止める。今夜は兄は遅いんだった。 「お兄ちゃん、九時過ぎるって。スープは残しておくね」 「そうね。温め直しやすいように鍋ごとにしておきましょう」


食後、台所を片付けながら、紗菜は居間の加湿器(といっても洗面器にお湯を張ってタオルをかけただけの簡易版)を作る。母の座るソファの横、転ばない位置に置いて、タオルの端を少し広げる。湿った空気が、部屋の角まで静かにしみ込んでいく。


「寝る前に、これを一杯だけ。シロップ」

「うん」

計量カップで測って渡すと、母は「薬の匂い、懐かしいわね」と笑って、素直に飲み干した。喉を通る音が小さく響く。


ふと、スマホが震えた。兄からのメッセージ――


『雨、強い。帰り遅くなる。何かいる?」』

『母の薬、買ってきた。スープ残しておくね』


と返す。すぐに

『助かる。ありがとう。相棒の素振りは肩に気をつけて』


が返ってきて、思わず『はい』とスタンプを送った。


母が洗面所へ行っている間に、紗菜は学習机の引き出しを開け、ルーズリーフのメモにペンを走らせる。

家のこと:薬(シロップ、トローチ、ハーブティー、マスク)——支出合計

今日のレシートの額を小さく記入し、隣に残高を書き足す。数字がきちんと収まっていくのを見ると、胸の中のざわつきも収まっていく気がした。


居間に戻ると、母が毛布を膝にかけて座っていた。咳の回数が、前より明らかに減っている。


「少し楽になった?」

「ええ。ありがとう。……ねえ、紗菜」

「ん?」

「あなたが自分のために強くなるのと同じくらい、こうやって誰かのために動けるの、すごいことよ」

「そんな大げさな……」

照れくさくて笑うと、母はそっと手招きして、紗菜の頭を自分の肩に寄せた。小さい頃みたいに。


(わたしは、ただ、できることをしてるだけ。――でも)


視線を少しだけずらすと、壁に立てかけたラケットケースが見える。白いオーバーグリップの端が、ほんの少しだけ覗いている。

手のひらに吸い付いた、あの新しい感触。あの一本で、またコートに立つ。

勝って、続けて、証明する。家のことも、テニスも、両方ちゃんと。


「そろそろお風呂にして、早めに寝よっか」

「そうね。薬、もう一回分は枕元に置いておこうかしら」

「置いとく。トローチもここに」


サイドテーブルに小さなトレーを置き、シロップ、トローチ、ハーブティーのティーバッグをひとつ。付箋に「おやすみ前」と書いて、カップの取っ手にペタリと貼る。


夜が深まるほど雨音は細くなって、家の中はやわらかい静けさに包まれていった。母が寝室へ向かう背中を見送ってから、紗菜はそっとケースからラケットを出し、鏡の前で一度だけ構える。足幅、視線、呼吸。振らない。ただ“持つ”。手の中の芯が、まっすぐ前を向いていることを確かめる。


(明日も、準備をしよう。コートの上でも、家の中でも)


ラケットをケースに戻し、カチリとチャックを閉める。台所の明かりを落とすと、窓の向こうの雨はほとんど止んでいた。静かな廊下を歩きながら、紗菜は心の中で小さくうなずく。


(強くなる。ちゃんと守る。両方、できる)


その言葉は、白いグリップみたいに手に馴染んで、胸の奥でしっかりと巻き付いた。

薬を買い、母の笑顔を取り戻した夜。

封筒の「家のこと」の欄に書き込んだ一行は、これまでの我慢や遠慮を超える“第一歩”だった。

テニスで強くなることと、家族を守ること。

二つを同じ手で掴もうとする紗菜の挑戦は、いっそう揺るぎないものになっていく。


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