第3話 夕暮れに揺れるポスター
日常の中でふと目にした光景が、心を大きく揺さぶることがあります。
紗菜にとって「体育連盟テニス大会」の存在は、これまで遠い世界の話にすぎませんでした。
けれど、放課後の帰り道――夕暮れに照らされた掲示板で出会った一枚のポスターが、彼女の中に眠っていた「本気の気持ち」を呼び覚まします。
夢と現実の狭間で揺れる、紗菜の心の動きを追ってみましょう。
朝の教室は、まだ一日の始まりの空気に満ちていた。
窓から差し込む春の光が机の上に広がり、ノートや教科書に淡い色を落としている。紗菜は席に座り、鞄から筆箱を取り出すと、静かに準備を整えていた。
周囲では友達の声が弾んでいた。
「ねぇ聞いた? 今年もやるんだって、体育連盟テニス大会!」
前の席の子が、待ってましたとばかりに声をあげる。
「ほんとに? 去年も人いっぱい来てたよね。部活の先輩が出たって聞いたよ」
「そうそう! 私、体育館にポスター貼ってあるの見たんだ。学生でも出られるんだって!」
その言葉に、別の友達もすぐ乗っかる。
「でもさ、あれってすごい人も来るんでしょ? 町のジュニア選手とか。素人が出たらボロボロにされそう」
笑い混じりの声が教室のあちこちに飛び交い、次第に話題が広がっていく。
紗菜は鉛筆を持ったまま、その会話を聞いていた。耳だけが妙に敏感になって、胸の奥に小さなざわめきが生まれる。
(体育連盟テニス大会……?)
頭の中に響いた単語をすぐに振り払うように、ノートに視線を落とす。
(私には関係ないよ。お金もない、新しいラケットも買えない。大会なんて夢のまた夢だ)
机の上に広がる文字列を追っても、気持ちは落ち着かない。罫線の一本一本が胸の奥に突き刺さるように見えた。
「紗菜も出たらいいのに!」
ふいに後ろの席から声が飛んできた。
「えっ、わたし?」
驚いて振り返ると、友達がにこにこしている。
「だって、体育の授業だけであんなに上手いんだよ? ちゃんと習ってないのに、打ち方とかフォームとかすごくきれいだし。絶対やったら強いよ!」
「や、やめてよ。そんなの……」
紗菜は思わず笑ってごまかした。頬が熱くなるのを隠すようにうつむく。
でも――。
(授業だけなのに、か……)
心の奥で小さな灯が揺れる。誰かにそう言われたのは初めてだった。胸の奥のざわめきは消えず、むしろ静かに広がっていく。
(本当に、もしも、出られるなら……)
ほんの一瞬、コートに立つ自分を想像してしまった。すぐにその映像を振り払うように、消しゴムを強く握りしめる。
まだ、それを夢だと認める勇気は足りなかった。
放課後のチャイムが鳴り終わると同時に、教室の空気はぱっと色を変えた。
椅子を引く音、笑い声、廊下へ駆け出す足音。部活へ急ぐ子はラケットバッグを肩に背負い、勉強組は参考書を抱えて塾へと向かう。
それぞれがそれぞれの道を歩む時間。夕陽に照らされた校舎は一瞬で賑やかさを取り戻した。
紗菜は、そんな流れに加わることなく、静かに鞄を肩に掛けた。
友達が手を振りながら「また明日ね!」と笑顔を向けてくれる。その笑みに応えつつも、心はどこか遠くにあった。
窓から差し込む夕陽が廊下を赤く染め、磨かれた床に光の帯を描き出す。その光を踏みしめながら歩く紗菜の影は長く伸び、彼女の心の迷いを映し出しているようだった。
(体育連盟テニス大会……出たらいいのに、か)
友達が口にしたその言葉は、冗談まじりの軽い一言だった。
けれど紗菜にとっては、まるで胸の奥を突き刺すような重みを持って響いていた。
「体育だけであんなに上手いんだもん」――その笑顔混じりの声が、今も耳の奥でこだまする。
校門を抜けると、夕暮れの風が制服の袖口をくすぐった。
部活帰りの生徒が駆け抜け、道端では自転車のブレーキ音が響く。犬の散歩をする老人や、商店街へ急ぐ主婦たちの姿も見える。何気ない放課後の風景。けれど紗菜の歩みは重かった。
(でも……本当に、出られるはずない)
自分に言い聞かせるように心で呟く。
家計は毎月ぎりぎりで、母がため息をつく姿を何度も見てきた。参加費なんて夢のまた夢。ラケットはひび割れて、振るたびにかすかに軋む音を立てる。靴もボロボロで、底が薄くなり、雨の日には水が染みてくる。
そんな現実を思い出すだけで、胸の奥がずしんと重くなる。
けれど、不思議なことに――「無理」と口にすればするほど、心のどこかで「本当はやりたい」と声が叫んでいた。
その声をかき消そうとするたび、胸のざわめきは大きくなるばかりだった。
そして。
紗菜の視線がふと上がったとき、足が止まった。
通学路の掲示板に、鮮やかなオレンジ色が目に飛び込んできたのだ。
――「体育連盟テニス大会 出場者募集中!」
大きな文字と、ラケットを振り抜くシルエット。鮮やかな配色で描かれたポスターは、他の古びた張り紙とはまるで違って見えた。
夕陽に照らされているせいか、赤とオレンジのグラデーションが燃え上がる炎のように輝いている。
「……っ」
息を飲む。胸がドクンと強く脈打ち、足が地面に縫いつけられたように動かなくなった。
目を逸らそうとしても逸らせない。ポスターの大きな文字が視界に突き刺さる。
(……やっぱり、目の前にすると違う)
友達の何気ない言葉として聞いていたときは、まだ遠い世界の話だった。
でも今、こうしてポスターを見上げると、それはもう「夢」ではなく、現実に存在する「扉」に思えた。
胸の奥が熱くなる。
気づけば紗菜は、未来の自分を思い描いていた。
テニスコートに立ち、全力でラケットを振り抜く自分。観客のざわめき、白球の弾む音、拍手の渦。
その光景は幻のはずなのに、あまりにも鮮明で、手を伸ばせば届きそうだった。
「……」
小さく唇を噛む。
胸の奥で燻っていた小さな火が、夕陽に照らされ、燃え盛る炎のように大きくなっていくのを感じた。
もちろん、まだ何も決まってはいない。
けれど、今まで「無理だ」と切り捨ててきた自分の中に、確かな芽が芽吹いたのはわかる。
それは不安と同時に、確かな希望の重みを伴っていた。
夕暮れの空の下。紗菜は立ち尽くしたまま、しばらくポスターを見つめ続けていた。
その視線の奥で、新しい物語が静かに始まりつつあった。
大会に出たい――けれど出られない。
紗菜の胸の中には「無理」と「挑戦したい」の二つの思いがせめぎ合っています。
今回、彼女が見たのはただの紙切れにすぎないかもしれません。
ですが、その紙切れは、これから彼女の人生を大きく変える火種となっていくでしょう。
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