第27話 背中を押す眼差し
準決勝は緊迫した展開となった。ラケットのトラブルを乗り越え、兄の存在に支えられて再び立ち上がった紗菜。観客が見守る中、最後の勝負に挑む彼女の背には、言葉をかけずとも伝わる大きな想いがあった。
「ゲーム! 三浦!」
コールと同時に歓声が弾け、紗菜はベンチへ歩を進めた。タオルで汗を押さえ、深く息を吐く。視線を上げると――フェンス際、観客の波の向こうに、兄が立っている。
先ほどは、わからなかったが、白いワイシャツの袖は肘まで無造作にまくり上げられ、胸ポケットからは社用の入館証が少しのぞいている。革靴のつま先には急いで駆け込んだような擦り跡。
(……仕事の途中で来てくれてたんだね)
喉の奥が熱くなる。声には出さない。ただ、小さく頷くと、お兄ちゃんも同じように一度だけ頷いた。言葉は要らない――それで十分だった。
「タイム。」
審判の声。給水を終えてコートへ戻る。次は相手のサービスゲームだ。会場の熱はまだ高い。ざわめきが波のように寄せては返し、そのうねりが背中を押す。
(落ち着いて。低く、深く。――数える、見て、踏み込む)
紗菜はベースラインで小刻みにステップを刻み、相手のトスを凝視した。
一球目、外角。
トスの肩の開き方でわずかに読めた。踏み込み、面を遅らせて合わせる。
――パシンッ。
「0-15!」
悪くない。深い返球で始められた。
二球目、センター。
相手は配球を散らしにきた。伸びのあるサーブに押され、返球が浅くなる。すかさず叩かれ、
「15-15!」
(焦らない。深呼吸。)
三球目、再び外角へ速い一撃。
紗菜は一歩、そしてもう一歩先を踏む。体の正面で捕まえ、クロスの深いところへ。相手の打点を下げさせ、次でバックへロブ――風に乗ったボールがベースラインに落ち、観客がどよめいた。
(今の高さ、効いた。次も……)
相手の眉がかすかに動く。配球の自信が揺れている。
四球目、ボディ。
胸元をえぐるコースに対し、紗菜は短いテイクバックでスライス気味に逃がす。バウンド後に沈む返球。相手は持ち上げるしかなく、前に詰めた紗菜が早い打点で逆クロスへ――。
拍手が一段と厚くなる。兄の口元が、少しだけ緩んだ。
(デュースまで運ぶ。あと二球。)
五球目、相手はセンターへ強打。読んでいた。
先回りの一歩、ラケット面をしならせて直線的に押し返す。足元に沈むボールに相手が体勢を崩し、ネット。
「ブレークポイント、レシーバー!」
観客が立ち上がる気配。ざわめきが渦を巻き、空気が張り詰める。
(決め急がない。深く、コーナー。――数える、見て、踏み込む。)
相手はトスを上げ直した。手の震えを隠すように、わずかに間を取る。サーブは安全に外角へ。
紗菜は低く沈み、面を乗せてスピンで吊り上げる。ベースライン際に深く跳ねるボール。相手は下がりながらのバックハンド――浮いた。
(今!)
ひと息で前へ。足がコートを蹴り、身体が軽い。ネット際、肩口の高さでとらえた打球を、ライン上へ叩きつける。
――バンッ!
「デュース!」
わずかに外れた。会場から「ああっ」とため息。それでも紗菜の表情は崩れない。
(これで深さが分かった。次からは調整できる…。)
仕切り直し。相手は強気にセンター。
紗菜はスプリットステップの着地で重心を止め、体をひねり戻してカウンターを差し込む。低く早い弾道が足元へ突き、相手のラケットが弾かれた。
「アドバンテージ、レシーバー!」
ベンチ側のフェンスの向こう、兄が拳をぎゅっと握って見せる。
(行くよ――!)
次のサーブ。相手は迷い、トスが少し流れた。読みやすい外角。
紗菜は最短距離で踏み込み、身体の横で面を作る。押し込むのではなく、相手の力を借りて“運ぶ”。
――パシンッ。
返球はサイドラインすれすれに滑り、ベースラインの角に吸い込まれた。相手のスイングは空を切る。
「ゲーム! 三浦!」
歓声が爆ぜる。ブレーク成功。
(取れた――!)
胸が熱くなる。だが浮かれない。ガットのテンションは完璧じゃない。強打だけで押せば、すぐに裏切られる。
(今の組み立てを続ける。深さ、コース、高さ――三つの軸で揺さぶる。)
チェンジコートへ向かう途中、紗菜は兄の前で一瞬だけ立ち止まった。
「……来てくれて、ありがとう」
声に出したのは、それだけ。
兄は入館証を胸ポケットに押し込みながら、小さく笑って言う。
「間に合ってよかった。――集中しろ」
うなずいてベースラインへ戻る。次は自分のサービス。
(ここでキープする。流れを呼び戻す)
ボールを二つ手の中で転がし、一本をポケットに戻す。もう一本を丁寧に持ち替え、高くトス。
光をまとったボールが、澄みきった空へ吸い上がっていく。
紗菜は迷いのないスイングで振り抜いた。
――パァン!
会場が沸く。兄の拳が、また静かに握られた。
(大丈夫。わたしは、ここにいる。)
小柄な体に宿る火は、さらに明るく、さらに静かに燃え続けていた。
紗菜はチェンジエンドを終え、ベースラインに立った。
ブレークに成功し、スコアは自分がリード。あとは自分のサービスゲームを守り切れば――決勝進出。
(ここで絶対に取る!)
ボールを高くトスし、思い切り振り抜く。
――パァン!
伸びのあるサーブが外角を突き、相手のリターンは浅く弾む。すかさず前に出て、クロスに叩き込んだ。
観客から「よしっ!」と声が飛ぶ。
次のポイントは粘りのラリーになった。相手も簡単には崩れない。深いストロークを繰り返し、紗菜を走らせる。
だが、小柄な体は止まらなかった。左右に、前後に走り、最後はロブで相手を下げさせ、甘くなったボールを強打。
「30-0!」
歓声が一段と大きくなる。
フェンスの向こう。ワイシャツの袖をまくったままの兄が、腕を組みながらじっと見つめていた。
声は出さない。ただ、その眼差しが「落ち着け」と伝えていた。
(……大丈夫。お兄ちゃんがいるから)
三本目のサーブはセンターへ鋭く。相手はどうにか返すが浅い。紗菜は躊躇せず前に出て、角度をつけて叩き込む。
「40-0! マッチポイント!」
会場の熱が最高潮に達した。
「決めろ!」「あと一本だ!」
紗菜は汗を拭い、深呼吸する。
ボールを高くトス。迷いのないスイング。
――パァン!
外角に伸びたボールを相手は追うが、間に合わない。ライン上にボールが突き刺さった。
「ゲーム、セット、マッチ、三浦!」
審判の声に、観客席が総立ちになった。拍手と歓声が爆発し、会場全体が揺れるほどの熱気に包まれる。
紗菜はラケットを胸に抱き、荒い息の中で空を見上げた。
(勝った……決勝に行ける!)
ネット越しに相手と握手を交わす。敗れた相手は悔しさをにじませながらも、しっかりと紗菜の目を見て頷いた。
ベンチに戻る途中、フェンス際の兄と視線が合った。
彼は小さく笑って言った。
「よくやったな」
紗菜はタオルで顔を覆い、涙を隠した。
(お兄ちゃんが来てくれたから、最後まで走り切れた……)
観客の声はすでに「決勝だ、決勝だ」とざわめき始めていた。
紗菜はラケットのガットにそっと触れ、深く息を吐く。
(次は……決勝。絶対に勝つ!)
小柄な背中に、大きな決意が宿っていた。
ガットの破損という逆境を、兄の助けと自らの執念で乗り越えた紗菜。決して派手ではなくとも、兄の眼差しは紗菜にとって何よりの力となった。観客を沸かせた準決勝の勝利は、ただの一試合にとどまらず、彼女と兄との絆を改めて強く示すものでもあった。そして次はいよいよ、国内最強クラスの選手が待つ決勝戦。小さな背中に託された期待は、さらに大きく膨らんでいく。
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